一人ひとりは真剣に演じているつもりなのだろう。それぞれの劇団も本気で演じようとしているのだろう。こんなふうに百歩譲っても、真剣で本気の部分を全体として眺めると「茶番劇」が浮き彫りになってくるから不思議だ。不思議を感じるのは無論ぼくたちの理解不足のせいではなく、役者たちの芸の無さ、役柄認識の甘さゆえである。
テレビのニュース番組でキャスターが党名一覧のパネルを見せる。じっくりと見せてくれるのだが、あまりにも数が多いから、七つか八つまで数えたところで画面が切り替わる。とにかく、平成24年11月21日現在、15の党が確認されている。もう党名のネタも尽き果てたかのようで、「反TPP・脱原発・消費増税凍結の党」まで誕生した。こうなれば、これから誕生する党はマニフェストの文言をトッピングよろしく並べていくことになるに違いない。かつて苦笑いしてしまったが、「みんなの党」がまともな党名に見えてくるから、これまた不思議である。
二大政党時代の到来を高らかに予見し、「必然!」とさえ太鼓判を押した政治評論家は慧眼不足を大いに反省しなければならない。かつてこの国に二大政党時代らしき時期がなかったわけではない。だが、長い歴史の中では一瞬の出来事であった。別に二大政党時代を待望しなければならない理由もない。世界的に見れば英米を除く大半の先進国には多党が存在しているのだから。そうそう一党独裁もある。
ただ、わが国の多党ぶりは乱立と形容されるように、節操がなさすぎるのだ。節操がないのは、選挙戦を勝つための卑近な術をこね回すからにほかならない。たった一つの政策で折り合わないという理由から党を離脱したり新党を旗揚げしたりする一方で、複数の政策において相違があるのに、妥協して統合するということが起こってしまう。折り合うためには「条件」が必要だ。なるほど、条件さえつければ両極だってくっついてしまうだろう。こうして、立党の理念や哲学は条件づけという妥協の産物によってものの見事にリセットされてしまう。
つまるところ、同質性の高いわが国では、エリートもそうでない者も差がないように、多様な意見が飛び交っているように見えても、実はみんな似たり寄ったりの考え方から抜け出せないのである。大同小異などキレイごとで、得策と見れば大異の溝すら簡単に埋めてしまう。要するに、ワンパターンな考え方しかできないから小異で差異化しようとしているにすぎない。たとえ15党が乱立しても、発想に大胆さなどなく、せいぜい「1℃前後の温度差」違いなのである。多党化現象は選択肢の豊かさを意味するのではない。ただただ潔い覚悟の無さを物語っている。
《続く》