問題とモンダイモドキ

問題を解決すればすっきりする。苦労した末の解決なら爽快感もいっそう格別である。では、問題解決という満足を得るための第一歩――あるいは、欠かせない前提――が何だかわかるだろうか。

答えはとても簡単である。問題を解決するための第一歩、あるいは必要な前提は、問題が存在することだ。発生するのもよし、抱えるのもよし。いずれにしても、問題がなければ解きようがない。つまり、問題に直面したことがない人は問題を解いたことがないのである。また、問題解決能力のある人は、問題によく出くわすか問題が発生する環境にいるか、よく問題を投げかけられるか任されるかに違いない。断っておくが、詭弁を弄しているのではない。変なたとえになるが、自分の風邪を治すためには、風邪を引いていることが絶対条件と言っているのである。

問題とは困り事であり難しいものでなければならない。さもなければ、困りもせず難しくもなければ、解決などしなくて放置しておけばいいからだ。緊急であり、放っておくと事態が深刻化しそうで、しかも抱えていると非常に困る――問題はこのような要件を備えなければならない。問題解決も容易ではないが、問題を抱えるのもさほど簡単ではないことがわかるだろう。


本格的で真性の問題など、そこらに転がってなどいない。ぼくたちが「問題だ、問題だ」と称している現象のほとんどは、そのまま放置しておいてもまったく困ることもない「モンダイモドキ」にほかならない。モンダイモドキを問題と錯覚して右往左往している人を見て、内心、次のようにつぶやいている。

「きみ、そんなもの問題になりそこねた単なる現象なのだよ。問題に値しない、可も不可もない現象。きみは問題と言いながら、ちっとも困ってなどいないじゃないか。ただの現象を問題に格上げするきみの見誤りに気づいたぼくにとっては、きみ自身が問題ではあるけれどね……」

本物の人間などという言い回しがあるように、本物の問題というのがある。器が大きくて威風堂々とした問題、どっしりとして根深い問題、人を魅了し、かつ困惑させてやまない問題……「速やかに鮮やかに巧みにスパッと斬ってくれないと、大変なことになるぞ!」と挑発してくる問題。こんな「出来のいい問題」に遭遇できているだろうか。自称「問題で困っている人たち」をよく見ていると、みんなモンダイモドキに化かされてしまっている。付き合う甲斐もない似非問題に惑わされている。

さあ、しこたま抱えてきたモンダイモドキをさっさと追い払おう。一見絶望させられそうな難問を抱えたり呼び込んだりできることは一つの能力なのである。そして、難問こそが、「解決」というもう一つの能力を練磨してくれる。強い相手を見つけて練習する。これはスポーツ上達と同じ理屈だ。いや、練達や円熟への道はそれ以外にありそうにない。

表現にみる発想の違い

日本語でも外国語でも初めて見る用語や不確かな単語は辞書で調べるのがいい。推測は危険である。推測のひどい形が、他人から尋ねられ、知ったかぶりしてでっち上げるケースだ。その昔、ビールを飲まない英語教師が、「先生、ビール瓶のラベルに書かれている”エル、エー、ジー、イー、アール”はどういう意味ですか?」と生徒に聞かれた。その教師は“l-a-g-e-r”と人差し指で綴り、「それは、より大きな、つまり大瓶という意味だね」と捏造した。

言うまでもない、“lager”は「ラガー」というドイツ語由来の「貯蔵」ということばだ。低温で貯蔵熟成させるビールの総称であって、“larger”(より大きな)とは綴りが違っている。捏造した教師はその場を切り抜けることはできなかった。なぜなら、尋ねた女子生徒が「そうなんですか。でも、小瓶にもその綴りが書かれているんですが……」と追い討ちをかけたからである。生兵法は怪我のもと。その道のプロと言えども、いや、その道のプロだからこそ、知らないことは確かめねばならない。

外国語に関して言えば、和製英語にたくさんの落とし穴がある。ぼくは1970年代の前半に数年間英語教授法の研究に携わりながら自らも英語講師として現場で授業を担当していた。ぼくが英語を学ぶ前から「ナイター」や「サラリーマン」などの和製英語はふつうに使われていた。なかなか創意工夫された表現だとは思うが、前者が“night game”、後者が、まったくイコールのニュアンスにはならないが、“employee”“office worker”である。さきほど和製英語ランキングというサイトを覗いたら、「オーダーメイド」「スキンシップ」「コンセント」の三つが上位を占めていた。それぞれ順に“custom-made” “personal contact” “outlet”が正しい英語と書いてある(但し、私見では、スキンシップ(和)とパーソナルコンタクト(英)を単純対応させるのは危険。文脈的翻訳が必要だろう)。


和製英語に厳しい向きもあるが、文化比較の材料になっておもしろい。もともとの英語が日本風土でなじめないとき、特に発音しにくい時にこなれるようにアレンジされる。連日サッカーの試合で盛り上がっているが、あの「ロスタイム」は和製英語である。試合の前半・後半のハーフ45分間のうちに「ケガなどによって中断され、失われた時間」を意味している。とてもわかりやすいが、不思議な表現だと思わないだろうか。「ロスタイム3分」というのは、「失われた時間は3分」と言っているにすぎないのだ。だから何、だからどうするかなどまで言及してはいない。

英語ではちゃんと言及している。“Additional time”(アディショナルタイム)と呼んでいて、失った時間を足して「追加の時間」と表しているのである。この一例だけで比較文化を気取るわけにはいかないが、とても興味深いではないか。わが国でロスタイムと「現象」を表現するのに対して、英語では「対策」のほうを表現しているのだ。わかりやすく言えば、「失う」ほうを強調するか「足す」ほうに力点を置くかの違い。時間を還付するのであるから、英語のほうが適切だ。しかし、ロスタイムは言いやすくわかりやすい。

「ああ、失くしちゃった」と言うか、「さあ、足しちゃおうか」と言うかの違い。そして、「失くした」と言いながら「足す」の意味に転用している。それがロスタイム。まるで、「転んだ」を「起き上がる」に使っている感じだ。そう言えば、野球用語にも和製英語がいくつかある。たとえば、おなじみの「デッドボール(死球)」。これは打者に当たった後に転がったボールが主役。英語では“hit by pitch”で「投球による(打者の身体への)当たり」という意味で、目線は人に行っている。

ちなみに“bases on balls”とは「審判による四つのボール判定によって打者が一塁に出ること」。これを明治の時代に「四球」と訳した。感服する(ほとんどの野球用語は正岡子規が訳して広めたことはよく知られている)。この四球、メジャーリーグの中継を英語実況で観戦していると、ほとんどの場合“walk”と言っている。打って一塁へ走るのではなく、堂々と「歩いて行ける」からウォークだ。この四球とウォークの関係が、ロスタイムとアディショナルタイムの関係に似てはいないだろうか。ここでも前者が現象、後者が対策になっている。もちろん、興味本位に見つけた事例であって、二例を以て一般法則を導くつもりなどさらさらない。

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。