愛読書は何か、どのジャンルの本をよく読むのかと若い人たちに訊かれることがある。意地悪する気はないが、「ない!」と即答する。「ない!」と答えた上で、「本ではないけれども、ノートならよく読む」と付け加える。きょとんとした顔に向かって「ぼく自身のノート。それが愛読帳」と追い打ちをかけると、たいていきょとん顔が怪訝な顔に変化する。
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語句の断章(3) 際
「際立つ」では「きわ」、そして「間際」や「壁際」や「水際」なら「ぎわ」と訓読みする。この漢字を見て「きわ」や「ぎわ」と読んでいると、このように発音していることが不思議に思えてくる。この際という文字、いったいどんな意味なのか。「こざとへん」に「祭」だから、二つの村の人々が祭りに集まるような字源ではないかと類推できる。
「国際」の場合、際を「さい」と音読みする。国際的、国際性、国際力などはどの文脈にあっても、すでに〈きわ〉本来の意味を薄められているようだ。「諸国に関する」という意味に重点が移り、ほとんど万国や世界と同義になってしまっている。
ところで、一般的な感覚では〈きわ〉は何かと何かが接する境目だ。他には「果て」や「限り」という意味もある。このような、限界の様子を表わす点では「マージナル(marginal)」も当たらずとも遠からずである。一時はやったマージナルマンには文化境界的無党派のようなニュアンスがあった。なお、「周縁的」と訳すと〈きわ〉から少し離れてしまう。
生え際というのがある。上記の定義に従えば、「毛髪とそうでない部分が接する境目」のことだ。あるいは、毛髪の果て、毛髪の尽きるところ。コマーシャルを思い出す。「生え際にプライド、生え際にポリシー」というあれだ。人がどこにプライドを持とうとポリシーを持とうと勝手だし、他人がとやかく言うこともない。つぶやくように疑問を呈するなら、外面にプライドやポリシーを漂わせるのは戯画っぽくはないか。できれば内面に湛えておいてほしい。
それにしても、毛髪とそうでない部分が接する境目にプライドとポリシーとは、なんて小さくて情けない話なんだろう。
幸せに形はあるか、ないか(2/3)
幸福について、一昨日書いた文章ではカミュ、ジイド、アリストテレスの相互参照ができた。こんなふうに記憶を辿ってリファレンスを見つけると愉快な気分になる。書いたり話したりする醍醐味の一つである。そして、いつだって愉快なことは幸せなことなのだ。その幸せを「ほら、これが幸せだよ」と言って人に見せることはできないし、手に取って確かめることもできない。
幸福というのはつくづく不思議な概念である。世界のどこかにオアシスやパラダイスのような具体的な形として存在しているものではない。自分の外を追い求めても幸せが見つかる保証はない。チルチルミチルの青い鳥を持ち出すまでもなく、幸福――または幸福の象徴――が自分の手の届くところにあったりすることをぼくたちは知っているはず。いや、あるとかないとか、見えたり見えなかったりするのではなく、幸福とは感じるものにほかならない。ただ感じるのみ。幸福の真のありかは、おそらく感じることの内にしかない。
幸福論から敢えて少し脱線することにする。次の文を読んでほしい。
「Aを達成するために、Bを講じる」
この文章が妥当ならば、対偶の関係にある「Bを講じないなら、Aを達成できない」も妥当である。簡略的に言えば、「Bがなければ、Aはない」ということ。Bが原因(手段)でAが結果(目的)という構造であり、BがAに先立って「行動手順的に重要」であることを示唆している。しかし、見落としてはいけないのは、Aという目的を定めなければBに出る幕などないという点。つまり、「構築手順的に重要」なのはAのほうなのである。戦略や政策の構想につきまとう悩ましい問題だ。
上記の「Aを達成するために、Bを講じる」の具体的な例として、くどいが、もう一文。
「知を広げるために、本を読む」
「知を広げるという目的のために、本を読むという手段を講じる」のだが、すでに明らかなように、これは「本を読まなければ、知を広げられない」をも意味する。ここであることに気づく。ぼくたちが目的と呼んでいるものは、ある手段によって獲得する価値でもあるということだ。知を広げるという目的は、本を読むことによって得られるメリットでもある。
では、「本を読むために、知を広げる」は成り立つか。たいていの人にとって成り立ちそうにない。なぜなら、行動手順的には《本を読む→知を広げる》が正しく、また、読書というものは何かそれよりも大きな目的のための手段にすぎないと、多くの人が考えているからである。けれども、「本を読むために、お金と時間をつくる」なら承認するだろう。この時、本を読むは目的であり、お金と時間によって得られる価値になっている。
話を幸福に戻してみる。お金と時間をつくる、本を読む、知を広げる……これらは何のためなのか。「人生や人間関係を豊かにするため」と答えた瞬間、大きな目的を語ったことになる。大きな目的は大きな価値である。さっきメリットとも言った。でも、価値とかメリットというのは、やっぱりその先に何かが想定されている。それが幸せなのだろう。そして、おそらくすべての営みは幸福につながろうとしている。幸福は価値でもメリットでもなく、その向こうに何もない。すべては幸福止まり。もしそうであるならば、いつでも幸せだと感じればいいだけの話である。
《続く》
相互参照はキリがない
忙しさにかまけて、インターネットでさっさと調べることがある。インターネットも百科事典のように〈相互参照機能〉を備えている。たとえば、ある本で知った専門語を手繰っていけば、そこから蜘蛛の巣のように相互参照のネットワークが広がっていく。両者の違いは、百科事典の場合には全巻の内部で相互参照が成り立っているのに対して、インターネットでは参照や引証がほとんど無限連鎖していくという点である。
この無限連鎖はまずい。本題から逸れてエンドレスサーチャーになってしまうからだ。そこで、ネットの利用に関しては歯止めになりそうな条件をつけるようにしている。まったく何も知らない事柄については、初動手段としてウェブを利用する(辞書は机上に置いてあるので、用語の意味はめったにネットでは調べない)。さらに、ある程度はわかっているが、具体的な事例が欲しいとき、身近にある書物以外に何かないだろうかとネットで調べることもある。もう一つは、いずれは読んでみたいと思っているが、当面のところ時間もないし他の本で手が一杯のとき、ネット上で読める専門家の書評や論評をとりあえず予備的にアタマの片隅に入れておく。松岡正剛の『千夜千冊』などはとてもありがたい無料の公開情報である。
正直に言うと、自分でもどこかで喋り研修のテキストなどでも使っているくせに、ふとした勘違いで間違ってはいないかと思ってインターネットにあたることもある。詠み人知らずの情報ではまずいので、ウィキペディアではなく、極力専門家のシラバスやその人たちが開設しているサイトを読んでみる。手元にどんな本でもあるわけではないから、そういう場合にはほんとうに重宝する。だいたい、気になって調べる時は事実誤認している意識がどこかにあるので、結果として念のために確かめておいてよかったと胸を撫で下ろすケースが多い。
浅学だが論理学を曲りなりに勉強し実践してきたから、〈小概念不当周延の虚偽〉という専門用語について知っているし、それが「小さな情報から大きな結論を導いてしまうことによって犯してしまう誤り」であることくらい承知している。たとえば、「彼は遅刻した。ゆえに信頼できない」などがその一例。一度だけの遅刻によって信頼できない男というレッテルを貼ると虚偽を導出してしまいかねない。他に好例がないかと思ってネットで調べてみたら、その項目で検索された最初のページの上から8番目に「オカノノート」が出てきた。どこかで見たと思ったら、本ブログではないか。思い出した。この用語が登場するブログ記事をぼくは以前書いていたのである。
自分の書いたものをあやうく参照するところだった。いや、ちょっと待てよ。それが仮にぼくではなく別の誰かが書いたものであったとしても、その誰かがもしかするとぼくの書いたものを参照したかもしれないではないか。ソースのわからない情報というのは、こんな具合に相互参照が繰り広げられて雪だるまのように膨らんでいる可能性がある。ふと思い出したが、以前ぼくがM君に話してあげたとっておきのエピソードを彼がある勉強会で披露した。後日、その勉強会に出席していたK君にいみじくも同じエピソードをぼくが語ったら、「先生、Mの話のパクリですね」と言われたことがある。ネット上では情報発信の本家がどこかはわからない。ぼくにしたって、そのエピソードをどこかで知ったのだから。
それにしても、変な尻尾だと思って正体を暴こうとしたら、それが自分に辿り着くなどというのはインターネット特有の現象ではある。ぼくのような人間には、小さく閉じられた世界の中でささやかに調べたり考えたりしているのがお似合いなのだろう。ブログやツイッターに日夜目配りしているのはよほどの暇人である。ふつうの仕事をしてふつうの生活をしていれば、たとえ義理があろうとも知人友人のサイトのことごとくに目は届かない。「岡野さんのブログを読ませてもらっています」と言われても、ほとんどがお愛想だ。そうそう、ネタの仕込みとして、ぼくと会う前日か当日にさっとブログに目を通している人は案外多いかもしれない。