公開される偏差値

情報公開の時代である。ぼくが関わる領域では、行政職員の研修講師として市民に公開されることがある。簡単なプロフィールと研修タイムテーブル、研修のねらいなどがPDFになっている。やがてこのような公開情報が加速すると、ランキングや通信簿が掲載されても不思議ではない。そんなに下手くそではないと自負しているので怯えはないが、時給報酬が丸裸にされてはたまらない。

二年前にロサンゼルス近郊のコストコに行き、レジで勘定を済ませた。目の前の壁に大きな貼り紙がしてある。「会員サービス優秀従業員一覧」がそれだ。レジで処理する個数、スピード、ミスの少なさなどに基づいてランキングを毎日更新して発表しているのである。

Costco.jpgランキング上位ならいいが、実名で下位に名を連ねるとさぞかしつらいだろう。レジで名札を見れば、その社員がどんな成績か一目瞭然である。アメとムチという表現があるが、上位者にとってもこの成績発表はアメとは思えない。明日はわが身、誰にとってもムチなのではないか。

日本で大手のウェアハウスやメガマーケットに出掛けることはないので、類例があるのかどうか知らない。仮にあるとしても全名簿の全成績はちょっと考えにくい。あったとしても、おそらく上位数名の表彰にかぎられるのではないか。

☆     ☆     ☆

そんなふうに思っていたが、3月上旬にデジタルカメラの新機種を求めて家電量販店に行ったところ、貼り出されている通信簿を見つけたのである。携帯電話会社の一角、「お客様サービス満足度ランキング」と題して1位から17位までの全員が発表されている。お目当てはデジカメだったが、この機会を逃してはならぬとばかりに、スマートフォンに興味を示す振りをして近づいた。説明を担当してくれた三十代半ばの男性はスマートに説明してくれた。少しマイペースに過ぎる話しぶりだったが、まずまずの満足度。後でランクを見たら4位だった。

こうなると最下位チェックをしてみたくなる。名前はSだ。ちょうどいいタイミングでスマートフォンにちなむイベントが始まった。三十人近い客が説明役のコンパニオンを囲む。客の群れの周辺には数名のスタッフがスタンバイしている。コンパニオンの説明をそっちのけで、少しずつ場所を移動して最下位のSを探しあてた。「ちょっといいですか」と声を掛け、「別会社の携帯を法人契約しているのだけれど、たとえばナンバーポータビリティで法人契約のままスマートフォンに切り替えられますか?」と尋ねた。でっち上げの質問ではなく、現実に関心のあった質問である。

とても人あたりのいい表情のSは「ちょっとお待ちください」と言って走り出し、先輩風のスタッフと一言二言交わしてから戻ってきた。4位に比べればたどたどしい話しぶりだが、悪くはない。次いで別の質問をしたら、明快ではないものの答えが戻ってきた。「なるほどね」と言ってぼくが黙っていると、Sも笑みを浮かべて黙っている。次なる質問を待っているのである。その後もぼくがリードする形でやりとりをした。この彼が最下位とは、さぞかし他のスタッフの水準は高いのだろうと推測した。もしかすると、これはSという標準クラスをわざと最下位に置いた戦略ではないのかと思ったりした。

帰路、冷静に振り返ってみた。はたしてSは合格か不合格か? 二者択一ならやっぱり不合格なのである。最下位になるかどうかは客全体の総評で決まるだろうが、ぼくの評定は失格だった。自ら問いかけのできない顧客に対してSはおそらく非力に違いない。顔の表情や話の上手下手などどうでもいい。接客担当者は何よりもまず、自らコミュニケーションをリードしなければならない。問いのないところに分け入るタイミングと話題づくりにおいてSは何もしなかった。あれから3ヵ月が過ぎた。さて、順位が下がりようのないSのランキングはどうなっただろうか。もしかすると、名前が消えているかもしれない。

他者の成長

あくまでも他者の成長についての観察と実感である。ぼく自身の成長についてはひとまず括弧の中に入れた。また、他者の成長を二人称として見るのではなく、三人称複数として広角的に眺望してみた。つまり、他者を間近にクローズアップするのではなく、少し距離を置いて親近感を薄めてみたのである。観察であって、冷めた傍観ではない。実感であって、ふざけた評論ではない。

十数年間付き合っていても、他人の気持などなかなかわからない。自我認識でさえ危なっかしいのに、他我の考えに想像を馳せるのは至難の業だ。しかし、樹木の根や幹の内部が見えなくても、葉の生い茂りぶりと果実の色づきや膨らみを観察できるように、発言や行動はしっかりと目に見える。内面的な概念や思考が言語に依存するというソシュール的視点に立てば、言動を中心とした変化――時に成長、時に退行――は知の変化そのものを意味する。

最盛期には、年に数千人の受講生や聴講生に出合った。ほとんどの人たちとの関係は一期一会で終わる。今も縁が続いている人たちは数百人ほどいるが、毎月二、三度会う親しい付き合いから年賀状社交に至るまで、関係密度はさまざまである。職業柄、他者を観察する機会に恵まれているから、十人十色は肌で感じてきたし個性の千差万別もよく承知しているつもりだ。人の心はなかなか掴めないが、言動に表れる成長に関してはかなり精度の高い通信簿をつけることができるはずである。

ぼくは自他ともに認める歯に衣着せぬ性格の持ち主である。毒舌家と呼ばれることもある。ほんとうに成長している人物には「たいへんよく成長しました」と最大級の褒めことばを贈る。だが、いくら率直なぼくでも面と向かって「きみは相変わらずだね」とか「ほとんど成長していないね」とは言いにくい。ゆえに、成長していない人の前で成長を話題にすることはなく、黙っているか、さもなくば「がんばりましょう」でお茶を濁す。裏返せば、「成長したね」とか「このあたりがよくなったね」などとぼくが言わない時は、「成長が見られない」と内心つぶやいているのに等しい。


たった一日、場合によってはほんの一時間でも、人は成長できるものである。決して極論ではない。他方、どんなに刻苦精励しようとも、何年経ってもまったく成長しない――少なくともそのように見える――ケースもある。周囲を見渡してみる。伸びている人とそうでない人がいる。昨年はよく成長したが、今年になって減速している人もいる。五年よくて五年悪ければ相殺されるから、結局は十年間成長しなかったことになる。三十歳だからまだまだ先があると思っていても、四十歳になってもほとんど成長していなかったということはよくある。もちろん本人は自分の成長をこのように自覚してはいない。誰もが自分は成長していると自惚れるものだ。

ところで、体力と精神力が低下すると知力が翳り始める。年齢と成長曲線の相関? たしかに加齢による心身劣化は不可避だ。しかし、加齢よりもむしろ不健康な習慣のほうが知の成長・維持を阻害する。不健康状態が長く続くと新しいことが面倒になり、これまでやってきた旧習に安住して凌ごうとする。うまく凌げればいいが、そうはいかない。毎日少しずつ人生の終着点に近づいているぼくたちだ、無策なら可能性の芽も日々摘み取られていくばかり。

成長には心身の新陳代謝、すなわち新しい習慣形成(あるいは古い習慣の打破)が欠かせない。そして、習慣形成に大いに関わるのが時間の密度なのである。成長は時間尺度によって端的に数値化できる。これまで二日要していた仕事を一日で片付けることができれば成長である。無用の用にもならないゴミ時間を一日2時間減らせば成長につながる。わかりきっていることを何度も何度も学び直すのもゴミ時間。その時間を未知のテーマを考える時間に回す。それが成長だ。つまらない人間とつまらない話をして過ごすつまらない飲食のゴミ時間を減らす。要するに、無為徒食をやめ、束の間の自己満足をやめる。失った貴重な時間を誰も損失補填してくれない。

ぼくの立ち位置からいろんな他者が眺望できる。ある人の過去と現在を比較できるし、その人と別の人の比較もできる。このままいくと彼は行き詰まるぞ……あの人はいいリズムになってきた……数時間前に会ったときから変わったなあ……いつになったらこの道がいつか来た道だということがわかるのだろう……こんなことが手に取るように観察でき実感できる。時間の密度と価値を高める生き方をしている人は伸びている。もちろん、ぼくも誰かによって成長通信簿を付けられているのを承知している。