自信と力量のはかり方

ABがいる。趣味が同じである。その趣味が腕を競う類のものだとしておく。評者はABの趣味に打ち込む情熱についても力量についても知らない。そこで、評者は両者に自信のほどを尋ねる。「お二人は趣味の腕前に自信をお持ちですか?」と、少しありていな質問を投げかけた。

サッカーでは「オレにPKを打たせろ」とばかりに自信を誇示し合う場面があるが、上記の場面では、Aが「自信あります」と答え、Bは「あまり自信がありません」と言ったとしよう。自信の有無は自己評価であり、両者を比較検討しうる指標にはならない。しかし、一方が自信あり、他方が自信なし、と言明したら、しかもAが声高らかに毅然と、Bが消え入るような声で弱々しかったなら、自信度の現われによって評者は力量を判断してしまうかもしれない。自信のほどを聞く一問のみしか許されないならば、現実的には、自信ありそうなAを優位に見積もってしまうのが常だろう。

以上の話を趣味から仕事に、自信からキャリアに変えても大同小異である。しかし、仕事に対する自信の度合いとキャリアによって、Aの力量がBのそれを上回るなどと即断するわけにはいかないのだ。自信にしてもキャリアにしても、ABが同じ土俵に上がって実力を競っているわけではない。Aの自信とキャリア、Bの自信とキャリアは拮抗的にぶつかり合ってはいない。確実に言えることは、Aは仕事に自信を持ち、かつキャリアを誇り、Bは仕事に自信がなく、かつキャリアがない、ということだけである。新たな、同じ課題を前にして、両者がどのように力量を発揮するかは別問題なのである。


わかりやすい例で繰り返そう。ペーパーテストでAが100点、Bが50点であることは、ほとんどの場合、しかるべき知識の領域の多寡を示しているにすぎない。知識イコール力量と断定することができるならともかく、ペーパーテストの結果が示すのはおおむねその分野についてどちらがよく知っているかということに限定される。その知は発揮される力量と必ずしも正比例するものではない。

ぼくたちは何度も人を見誤る。「自信あり!」という者に希望を託し、「キャリアあり!」に仕事を任せる。これは、現役チャンピオンが挑戦者に絶対に負けないという法則を信じることにほかならない。だが、実際の力量は両者が攻守交える拮抗状況の中で明らかになる。ペーパーテストやリハーサルの出来は、ぼくたちが常識として想像しているほど、実践や本番に結びつかないものなのだ。

個人の力量は、人間どうしの拮抗的アドバーサリーな関係においてしかはかりようがない。人との協同、人との対話、人との交渉で発揮される成果のみが真の力量である。他者との接点、他者との関係性における力量以外に力量などというものはありえないのだ。自信とキャリアによって評価されてきた人々が繰り広げる痴態と非生産性にそろそろ気づくべきだし、そのような尺度によって力量を見定める努力しかしないぼくたちの想像力の無さを大いに嘆くべきだろう。