ドンブリ勘定の総論

「人のふり見てわがふり直せ」とつくづく思い知った次第である。正しく言い換えれば、「人のコメントを聞いてわがコメントを直せ」となる。昨日の話だ。

民主党による政権交代が確実になった情勢を受けて、ある経営団体のトップが「今年3月、7月と中堅中小企業は(この経済状況の中を)何とか乗り切ってきた」とコメントしていた。前後関係の文脈に意味があったのかもしれない。だが、この人のこの視点はマクロ的でありコメントは総論であった。こういう言い方が可能であるならば、どんなに困難な局面にあっても中堅中小企業は「いつの時代も」何とか乗り切ってきたと言えるではないか。

まるで草食動物が何とか生き延びてきたと述懐しているようである。地球上に生まれてこのかた草食動物は滅んでいない。たしかに生き延びてきた、総体としては。「いつの時代」も命を絶やさなかった。個体は次から次へと没しては新しい命へとリレーして、総体として今に残ってきた。だが、今年に限っても、アフリカの草原で肉食動物の餌食になった草食動物の個体はいくらでもいるはずだ。草食動物というグループ概念がびくともしないからと言って、少なからぬ個体が肉食動物の胃袋の中に消えたのは疑いえない事実である。

比喩が一人歩きをするとまずいから、話を中堅中小企業に戻そう。ぼくの会社――れっきとした中小企業――は、お説の通り、たしかに何とか乗り切ってきた。今のところは、幸いにして総論でくくられた一員である。だが、総論コメントは「乗り切れなかった中堅中小企業」にまったく配慮していない。中堅中小企業総体としての種は存続しているが、少なからぬ企業が乗り切りに失敗しているのが実情なのだ。


「中堅中小企業は何とか乗り切ってきた」という総論的概括は、個体に目を向けてはいない。そもそも総論とは各論の対義語なのであるから、各々おのおのに関与することはないだろう。今年に入っての倒産企業が全体の何パーセントか知らないが、まさかこれらの企業も含めたうえで「何とか生き残った」はない。とすれば、例のトップは「何パーセントかの生き残れなかった企業」を知っていて、なおかつ生き残り組から除外してコメントしたのだ。総論でさらりと片付けてしまうとはあまりにもひどい話だ。

国家にとっても、経済団体にとっても、「生き残り」は総論扱いで済ませてしまえばいいテーマのようだ。他方、中堅中小企業の各社にとっては、自社の問題であり各論課題なのである。各論で語ってほしいと待ち受けている人間に総論をぶつけるのは無神経であり冷酷だ。とりわけ倒産した企業にはたまらぬコメントになったに違いない。

「総論よりも各論」を心得としているぼくだが、他山の石とせねばならない一件ではある。マクロに語ったり一般論を唱えたりする時、論理的な誤謬に気をつけるのはもちろんだが、もっとたいせつなのは特殊や個別への思いやりである。「昨年来の金融不安の影響を受けた中堅中小企業。それぞれに企業努力を重ねたものの、緊急対策も功を奏さず、息絶えた企業も少なからずあります」。少なくともこの一言を添えてから総論を述べるだけの感受性を持ち合わせるべきだろう。