「してはいけない」という方法

幼児教育に詳しいわけではないが、「~したらダメ!」と躾けるよりも「~しようね」とおだてるほうがよさそうに思える。ぼく自身は当事者として一顧だにしなかったが、他所の親を見ていると、明けても暮れても禁止文ばかり使っていると子どもが萎縮してしまうのではないか、などと感じたものである。躾けの効果についてはムチとアメは拮抗すると察するが、「廊下で走ってはいけません」や「そんなふうに食べてはいけません」などの否定表現に対して、たしなめられたほうが微笑み返すことはむずかしい。つまり、空気が翳る。

ところが、道徳規範にまつわる何ヵ条かの教えなどが未だに功を奏していないのを見ると、呼びかけを「何々しよう」とポジティブにするくらいでは人は決して変わらないのだろう。「お客さまに笑顔で接しよう」「大きな声で挨拶しよう」「感謝の気持で日々を過ごそう」など、今さら成人にオルグしてもしかたがないではないか。いや、言わぬよりはましだとしても、陰気な表情でぶつくさ喋ってきた大人に効き目をもたらすとは到底思えない。墨で直筆した《食事の五観文》を自宅の台所に貼ってあるが、あの種の偈文げぶんは、だいたいが気休めにすぎない(もちろん、気休めも何がしかの功ではある)。

昨日、一昨日と二日連続で「愚かなこと」について書いてみると、愚者には「してはいけない」という禁止もやむをえないという気になってきた。別に性悪説に乗り換えるつもりはないが、差し障りのない道徳的教訓の香りを充満させるよりも、 “Don’t” を突きつけるほうが身に沁みるかもしれない。他人はともかく、まずは己に「してはいけない」を自覚させる。アリストテレスの愛弟子であるテオプラストスは古代ギリシアの人々を三十もの辛辣な形容詞で揶揄しているが、こういうタッチのほうがぼくなどは大いに反省を促される。


博愛・慈善・孝行などを呼びかける何ヵ条かの徳目はたしかにポジティブである。しかし、あれもこれもそれもと箇条書きが増えるにしたがい、一つひとつの教えの可動力が弱まるのではないか。論理学でもそうだが、「かつ(AND)」で概念を結んでいくと矛盾発生の可能性が高まるのだ。第一に、第二に、第三に……と励行すべきことを並列に置くと、ドサクサにまぎれて個々の教えをないがしろにしてしまう危険がある。いろんなことを前向きにやろうというワンパターンだけではなく、もっとも悪しきことのみを戒めて一意専心の思いで正す方法が再考されてよい。

よき資質があるのに、悪しき一つの習慣や性向が資質の開花を妨げる。多才であってもグズは才を潰す。大人物も保身過剰によって小さな俗物と化す。ぼくは事業にあってはかたくなに長所強化の立場を貫くが、人間においてはまず悪しき欠点を退治すべきだと思う。一芸に秀でていれば、どんな奇人変人でも許されるというのは特殊な業界の話であって、日常生活や仕事ではとりあえず足を引っ張っている愚劣を「してはいけない」と心得るべきだろう。

ちなみに、論理的に書こうと思えば、否定文が増えてくるものだ。「あれかこれか」の岐路でどちらかを消し去らなければ、限定的領域内で論理的展開ができないからである。「あれもこれも」と足し算して書き連ねていくと、いったい何を言いたいのかわからなくなる。つまり、どんどん概念が拡散していくのである。したがって、意見を明快に述べようとすれば、要所要所で無意識的に否定文を用いることになる。Aではなく、またBでもなくというふうに積荷を下ろしていき、結局残るのはCという具合に。自分が書いたり話したりしているのを振り返ってみると、「してはいけない」という方法が目立ってきたと気づく。