人称と主語のこと

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。
斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。傍に折鞄おりかばんが置いてある。
酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。

森鴎外の『牛鍋』の一節である。「鍋は」や「葱は」のようなモノの三人称が五か所現れるのに対して、主人公を示す三人称の文章は「箸のすばしこい男は」という一か所のみ。「晴着らしい印半纏を着ている」「酒を飲んでは肉を反す」「肉を反しては酒を飲む」の三か所はその箸のすばしこい男のことだが、歯切れのいい短文家の鴎外はいちいち主語を書かない。日本語では英語のように明確な人称は文法上規定されるものではない。ところが、英語でそれをしてしまうと文法違反になる。

本棚から英語で書かれた本を無作為に一冊引っ張り出して数ページ読んでみたところ、主語のない文章は一文もなかった。明らかに著者が書いているとわかっているのに、“I’ve been……” “I can……” “I suggested……と執拗なまでに”I”が出てくる。今「執拗なまでに」と書いたが、なければ文章が成り立たないから必須なのだ。中学英語を思い出せばいい。英語の五文型はS+VS+V+CS+V+OS+V+O+OS+V+O+Cであり、Sで示される主語は命令文を除いて欠くべからざる文頭決定力を持つ。


かなり腕のいい翻訳者でも、ふつうの日本文に比べると翻訳文での主語の頻度は高くなる。文脈を追えば誰のことか何のことかわかるのに、英文和訳という作業では明快性を重んじる余り主語を丹念に訳してしまう。自然な日本語なら消されるはずの主語が翻訳文で出てくるとくどい印象を受ける。翻訳文ではないが、先日新聞のスポーツ欄にすさまじいほど主語が濫発された記事を見つけた。

日本はサウジアラビア戦から……
日本は前半6分すぎ……
イランは後半12分……
日本は後半37分に浅野を投入。
日本は延長前半6分、
日本はさらに延長後半4分と同5分に……
日本はイランの反撃をしのいで逃げ切った。

悪文である。主語イランはいるが、残りの日本のうち4つは省略できるはずだ。三人称はあるほうがいいと思うけれども、ここまで畳みかける必要はない。もっとひどいのは一人称の安売りである。小学生の作文じゃあるまいし、大人がそのつど「私は」と断って文を綴ることはない。「私は」とくれば、心理描写文の文末は「思う」「考える」「感じる」で結ばれることが多いから単調になってしまう。加えて、厄介なことに日本語では「私」だけが一人称単数ではない。「おれ」や「ぼく」があり、「自分」というのもある。人称というアイデンティティの明示の他に、相手との関係における自己の表現方法までもが関わってくる。

主語としてのI

名翻訳家で知られる別宮貞徳は、「ぼくは先輩と話をするときは『わたし』といい、後輩と話をするときは『おれ』という」という一文を挙げて、これは翻訳不能な日本語であると指摘する(『裏返し文章講座――翻訳から考える日本語の品格』)。英語の一人称単数代名詞は“I”しかない。英語に置き換えて伝えようとすれば、原文を裏切って長々と説明するか、欄外注釈を設けるしかない。もっと言えば、“I”しかないから文法上絶対に消せない機能が付与されるのだろう。五文型もそうだが、ある種数理的なものを英語に垣間見る。これに比べると、日本語の主語は調子を合わせるほどの働きしか持たないように思われる。文法上必須ではないのだから。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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