「読み」と「意味」

日本語に特有のふりがな。機能と言うよりも「技」や「芸」と呼ぶにふさわしい。漢字には幾通りも読み方がある。文脈の中で読み方が変わり、それに伴って意味も変わることがある。誰もが漢字に精通していれば、わざわざ漢字の傍らに小さな文字のかなを振る必要はない。しかし、どんな漢字にでも精通することなどありえないから、ふりがなに出番がある。とりわけ使用頻度が低い専門用語で、初見で読めないような漢字には、読み手の便宜のためにふりがなを付ける。たとえば、哲学の術語である形而上学に「けいじじょうがく」、馬具の鐙に「あぶみ」と読み方を示すのは、書き手の配慮である。

専門語だけでなく、難読語にもふりがなが欲しい。葡萄牙に「ポルトガル」、麺麭に「パン」、心太に「ところてん」と書くとする。しかし、そんな漢字を使わずに最初から本文でポルトガル、パン、ところてんと書いておけば、ふりがなはいらないではないか。わざと難読語を使うのは衒学的に過ぎると指摘される(衒学的は「げんがくてき」と読み、知識をひけらかすことを意味する)。ところが、別に見せびらかすわけではないが、漢字表記が望ましいこともある。最近よく耳にする「瑕疵責任」などを最初から「かし責任」などとは書きづらい。かと言って、瑕疵では読めない人もいるから、「かし」とふりがなを付ける。

ふりがなだらけの文章は煩雑で読みづらい。できれば付けずに済ませたい。しかし、刑事を「けいじ」ではなく、「デカ」と読ませたい場合がある。あるいは、たとえば〈漢字読方〉という四字熟語を考案して、それを「ふりがな」と読ませたい。書き手自身はその造語の読み方にこだわりがあるからだ。さて、ここまで書いてきて、あることに気づく。ふりがなのお陰で漢字が読めたとしても、意味がわかったことにはならないという点である。瑕疵は「かし」と読むのだね、でも、どういう意味? ということになりかねない。ふりがなは読み方を手ほどきしても、意味までもカバーしていないことを書き手は心得ておかねばならない。


『愉快コンセプトへの誘い』と題して講演する機会があった。誘いは「いざない」である。まさか「さそい」と読まれるとは想定していなかったから、ふりがなを付けなかった。当日会場へ行くと、受付で式次第が配られていた。そのペーパーにはこう書かれていたのである。

『愉快コンセプトへのお誘い』

事務局は誘いを「いざない」ではなく「さそい」と読み、それでは聞き手に失礼だ、ここは「さそい」でなければならないと気を利かした。講師であるぼくには変更を告げなかった。余計なお節介をしてくれたものだが、不幸中の幸い、テーマがテーマなのでさほど違和感はなかった。これが『バロック音楽へのお誘い』では拍子抜けしたに違いない。

こういうこともあるので、誘の上に「いざな」とふりがなを付けておくのが無難だ。しかし、それはそれで、また別の問題が生じる。ふりがなを振るのは、読めない人が多く、読み違える可能性が大きいと踏んでいる証拠である。「倦まずたゆまず」と書いたものの、「うまず」と読めないのではないか……念のために、倦に「う」を付けておこう、というわけである。「須く」と書いて、須に「すべから」とかなを振る。いずれの場合も、そう読める人には蛇足でしかない。読めない人には蛇足ではないが、先に書いた通り、意味が伝わるわけではない。倦まずたゆまずが「飽きたり怠けたりせず」、須くが「ぜひとも」と理解してもらえる保障はない。

「紺のスーツはかれこれ10年近く着ている。よく持っているものだ」と書くとする。長持ちのことだから「持って」でいいが、所有という意味に受け取られかねない。辞書を引くと「もつ」という動詞の表記は「持つ」しかないから、やむをえない。しかし、ここでは「保って」と書いて「もって」と読んでほしい気分である。これは当て字だが、もしふりがなを振らなければ十中八九「たもって」と読まれる。「よくたもっているものだ」ではメンテナンスになり、意図と異なってしまう。結局どうするか。「よくもっているものだ」と最初からひらがなで妥協することになるのだ。ふりがなはよくできた発明だが、書き手にも使いこなす技と芸を求める。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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