イカとタコの食べ物考

『物語 食の文化 美味い話、味な知識』(北岡正三郎著)に次のくだりがある。(㊟ルビは岡野)

イカ(烏賊)は味が淡く甘味があり、脂気が少なくさっぱりしている。(……)イカはま、煮る、揚げる、焼く、漬ける、干す、いぶす、裂くなどあらゆる調理に向く。(……)イカは鮮度落ちが早いので、生食はごく最近まで水揚げ地近くに限られていたが、今は山奥でもいかそうめんが膳に上る。タコ(蛸)は欧米では悪魔の魚として食べないといわれるが、イタリア南部、ギリシア、スペインなどでは食べる。(……)

一部省略したが、イカとタコの記述する視点が異なっており、しかもイカのほうがタコよりも詳しい。勝手な解釈をするなら、タコに対するイカの優位性を感じさせる。ところで、イタリアでもスペインでもイカ料理は食べたが、タコ料理は食べていない。テレビでも見たし人からも聞いたが、ポルトガルのタコ料理がかなりうまいらしい。

本やインターネットの料理レシピを調べると、イカとタコを同時に・・・使う料理がおびただしく紹介されていて、正直驚いた。二つの具材を一緒に炊き込んだり、カルパッチョにしたり、揚げたり、アヒージョやパエリアにしたり……と何十ものレシピが出てくる。どのレシピも強引に併せている印象を受けた。

経験不足だと思うが、イカとタコが同じ器に盛られるのはチラシ寿司かにぎりの盛り合わせしか知らない。イカとタコは「対立」の関係ではないが、かと言って「協調」の関係でもないような気がする。イカとタコは対立も協調も相互補完もせず、優劣を競うこともなく、それぞれが独立性を保っている。たこ焼きのタコをイカでは代替できないし、イカソーメンが売り切れてもタコソーメンでは補えない。イカはイカであり、タコはタコであり、それぞれ固有の存在である。

イカは好物だが、タコも互角。これまで食べてきた料理を思い浮かべて列挙してみた。

【イカ料理】 関西風イカ焼き(チヂミに近い);いか飯;イカリング/フリット/イカ天;塩辛;イカと大根/里芋の煮もの;イカソーメン;活きづくり;イカ墨パスタ;カラマーリ(ガーリック風味の唐揚げ);スルメ/燻製;刺身/にぎり;カルパッチョ;イカとセロリの中華炒め、etc.
【タコ料理】 たこ焼き;ぶつ切り炒め/
ゆでダコの辛味炒め;おでん;たこ飯;カルパッチョ;唐揚げ;タコ酢;マリネ;パエリア;たこ煎餅;刺身/にぎり;サンナッチ(韓国料理のおどり食い)、etc.

どちらも魚でも貝でもなく、個性的な軟体動物なので料理に一部共通点はある。しかし、イカをタコに、タコをイカに変えると違う料理になってしまう。

盆休みの間に、イカならでは料理、タコならではの一品を食す機会があった。それぞれが食材の特徴をかなり上手に引き出した海鮮料理だと思う。

イカと野菜の葱油炒め(中華料理)
薄切り水ダコのカルパッチョ(イタリア料理)

レトロ・ロマン・モダンの広告文拝見

大阪くらしの今昔館で開催中の企画展『レトロ・ロマン・モダン、乙女のくらし』を見てきた。女性のファッション、化粧品のデザインとパッケージ、石鹸や生活雑貨、絵葉書・雑誌など、明治から昭和初期までのおびただしいコレクションが展示されている。

デザインもさることながら、かつて「引札ひきふだ」と呼ばれていた商品や店の広告チラシの文章を楽しませてもらった。知りもしない過ぎし時代を感じるのは当然だが、着眼と切り口、文案と表現のセンスの良さに感心した。

新規開店の喫茶店のチラシ

つかみのコピー、概要のコピー、本文のコピーを棲み分けして書いている。「人と話の出來る 喫茶 キューカンパ―」と店を紹介し、「新開店」であり「來易く氣安で高尚」な店だと訴求し、「喫茶と輕いお食事」ができると伝える。本文は、まるで小説か散文詩のようなタッチで綴られ、不思議な空気を醸し出している。

春です‥‥‥アスフアルトの街
路に流れる軽快な足どりの、
リヅムにあでやかな、薫香の
どよめきが踊つてゐます。春
です‥‥‥全ては芽ぐみのび立
つて享樂の階調にしたつてゐ
ます。紫の氣の立ちこめたコ
バルトの空に獨り立ちの翼を
ひろげて精一杯の呼吸をつい
た時たよりない力と希望のぞみから
を破つて巢立ちしたキユーカ
ンは皆様にお願ひいたします
キユーカンパー‥‥‥キユーカ
ンパー‥‥永しえに御引立てを

所々の旧字に味がある。二字熟語を使った「薫香のどよめき」も「享樂の諧調」も語感がいい。一瞬読み方に戸惑った「とこしえ」という、何とも大仰な言い回しが、今では逆に斬新だ。「春です‥‥‥」を二度繰り返す技を掛けられて、つい文章を読み進めてしまった。

もう一つユニークなコピーを見つけた。六個入り壹圓の石鹸。「五つの特色」と謳う。

芳香温雅
泡立良く
生地を細に
肌を荒さず
最後迄形体
崩れず。

ルビは次のように巧みに振ってある。

にほひやはらか
あわだちよく
きぢをこまかに
はだをあらさず
しまいまでかたち
くずれず

レトロとロマンとモダンの文章、思っていた以上に自由度が高く創作性が豊かである。

旧盆の仕事とランチ処探し

当社の得意先もそうだが、大企業の多くは810日㈯から18日㈰まで9連休を取っている。これに有給休暇を組み合わせれば12連続や半月ほども休みが取れる。海外へ出るなら長期休暇はありがたい。実際、スタッフが大勢いた頃は、春や秋に2年に一度のペースで半月ほど休ませてもらっていた。

遠出の予定を立てないので、夏場に長期で休むのは苦手だ。飛び石のほうがありがたい。今年も2日休んで、3日出て、3日休むという具合。出社の3日が13日~15日のドンピシャの旧盆になる。創業以来30有余年、夏は旅に出ていない。大勢の旅行客に出くわすのを避けて、旧盆の時期はなるべく仕事をするように調整してきた。

この時期、オフィス周辺は人が激減する。オフィスには電話がかからない、メールが来ない。フレックスタイムにしているので、一人の時もある。仕事の合間に読書したり文章をしたためたり、モールで買物をしたり、リラックスして瞑想したりと、マイペースな時間を謳歌する。

旧盆時の出社には一つの悩み事がある。行きつけの食事処が軒並み休みを取るのである。コンビニ弁当は買わない主義なので、営業している店を近場で探す。めったに行かない店でも一見でもやむをえない。今日もどこで食べるかと心当たりをイメージしていたら、炎天下を歩かずに済む隣のビルのラーメンが浮かんだ。

新規オープンしてから早や2年の人気店だが、入店はわずか2回。開店の11時半前に行けば、すでに7人が入店していた。定員11席の10番目。昨日か一昨日かにユーチューバーが発信して、少しバズったらしく、正午頃には店の前に10人くらい並んでいた。

ニンニクと背脂と鷹の爪がふんだんに入った濃厚スープ。さすがに最近はこの種のラーメンは控えているが、この店オリジナルの太い縮れ麵は評価できる。「無料のモヤシ増しされますか?」 何も考えずにハイとうなずく。注文後の待ち時間と食事時間合わせて35分。ラーメン1杯にしては結構時間がかかった。4コマ漫画風に紹介する。

約15分待って運ばれてきた。ようやく実食スタート。
モヤシをさばくのに5分、麺に到達。スープの全貌は見えない。
さらに5分食べ続ける。麺と具にからむ濃厚スープ。3口ほど飲む。
穴あきレンゲで具を平らげる。危険な濃厚スープはほとんど残す。

抜き書き録〈テーマ:夏の歳時記)

📖 『日常の極楽』(玉村豊男)

樹木が減ると、そのあたりは涼しさが減る。
そしてそこにコンクリートの建物でも建てられれば、ますますあたりには熱が漂い停滞することになってしまう。いわゆる、「都市気温」(……)

「地球温暖化」のせいで暑いとぼやいても現実味がない。地球温暖化という概念が大き過ぎるのだ。今住む街の昔と今を比べれば、街の「構造」が変わっていることに気づく。今日のような午前10時で33℃なら、公園沿いの木陰を歩けば34℃は低く感じる。アスファルトのない公園の中の木陰ならしばらくベンチに座っていても耐えられる。今日の午後2時に大阪の気温は38℃に達するらしいが、都市気温的に言えば、これは40℃超えを意味する。体感は優に45℃超えかもしれない。

📖 『最近日本語歳時記』(稲垣吉彦)

山梨県から静岡県へ抜けて太平洋にそそぐ富士川は、山梨県では「フジワ」で、静岡県に入ると「フジカワ」になる。「ガワ」が「カワ」へ、下流にいくと濁音が清音に、水質と反対に地元での発音が変わる。実際には、川をはさんで右岸と左岸で「カワ」「ガワ」が交錯して、そう簡単に割り切れないらしいが。

身近なところでは、上流の瀬田川と宇治川は「ガワ」、その水系を受け継ぐ、淀川は大阪湾に近づいても「ガワ」と濁り、「ヨドカワ」にはならない。

近くを流れる旧淀川の大川は「オオカワ」。海を控えているからと納得しかけたが、その大川から大阪湾に向かって分岐する堂島川も土佐堀川も「ガワ」だ。下流に行くにしたがって「ガワからカワ」という説にはもしかすると例外が多いのではないか。ともあれ、川が夏の風物詩に割り振られることに異論はない。

📖 『歳時記百話――季を生きる(高橋睦郎)

わが国の歳時記を陰翳いんえいぶかくしている重要な一つに忌日がある。俳諧、和歌、文芸、芸術、芸能をはじめ、さまざまな分野に業績のある、かの世の先人たちへの献句によって、その忌をしゅうし、徳をたたえ、魂をしずめ、自分の仕事や生活への加護を願うのが起こりだろう。

すでに実家はなく――いや、実家という概念すらほぼなく、ゆえに帰省や盆というものが世間一般に比べてきわめて希薄だった。
終戦記念日を言い換えた終戦忌、原爆忌などの忌日は、体験者が世を去ってやがて人々の記憶から消える。聞いた話もやがて忘れる。個人や小集団で伝承するのはたやすくない。だから、国や地方自治体に仕切られるのはどうかと思うが、やっぱり年に一度の忌日の式典を国や地方自治体に催し続けてもらう必要がある。

スタミナ料理の実効と気休め

体力に自信のない時にスタミナ料理は逆効果だと聞いたことがある。夏バテ防止を期待してスタミナ料理を食べても、疲れている時は胃腸も弱っているから即効回復は望めない。元気だからこそ、スタミナ料理をおいしく食べて上手に消化して効果が実感できる。

スタミナ料理とは何か? いくつもの説があるが、鰻や豚キムチやレバーのような、タンパク質、鉄、ビタミンB1/B2などの栄養素を含む料理というのが一般的。しかし、スタミナ料理と元気の因果関係はわからない。スタミナが実際につく人とつかない人がいるし、効いてはいないけれど気休めになっている場合もある。スタミナ料理を検証してみたい。


🥢 鰻丼や鰻重は「土用の丑」という語感効果で、スタミナ料理の象徴になり古典と位置づけられた。しかし、夏バテ防止や精をつけようと期待して食べるには高級過ぎる。鰻丼や鰻重は、滅多に口にしないのがよく、素直に「うまい!」と唸っていただくのがいい。お値段が高いほどうまさが増して元気になるように感じるのは錯覚である。

🥢 これでもかとばかりに鷹の爪、おろしニンニク、背脂、ネギが投入された中華そば。疑う余地のない男飯おとこめしで、早食いの客が多い。香ばしさと辛さと脂の複合スープは50メートル先の角を曲がった時点で強く匂ってくる。平らげた者はスタミナがついたと満足するが、そんなにすぐには効かない。確かなことは、ニンニク臭が翌日の昼頃まで残ることだ。

🥢 焼肉店の一番の推しはカルビということになっている。焼肉通は初めて入る店では必ずカルビを注文して品定めをするらしい。隠し包丁を巧みに入れたカルビが出てくるだけで、焼く前から味のイメージが湧き始める。とは言え、牛と豚と羊と鶏を比較すれば牛肉は人気一番で一番値も張るだろうが、スタミナ一番かどうかは検証できていない。

🥢 餃子は、ホルモンと並んで、人気のある元祖スタミナ食である。鰻が「古典」なら、餃子は親しみやすい「庶民」である。テイクアウトして自宅で焼いても十分うまい。庶民的な町中華で学生の頃からよく食べた。メインの一品だけで物足りないと思えば、必ず餃子を一、二人前追加した。瓶ビールでやるイーガーコーテルは真夏に負けない。

背の高い人と背の低い人

最初のオリンピックの記憶は1960年のローマ大会である。その4年後の1960年の東京大会はしっかり見た。日本人選手の金メダリストが全員言えるほど今もいろいろ記憶している。学校でサブノートのような五輪ガイドが販売され、それをいつも手元に置いていた。競技/種目別の金銀銅のメダリストとその国名を書き込めるようになっていた。

さて、パリ五輪もいよいよ最終盤となった。よほどのことがないかぎり、深夜に五輪観戦しないと決めていたので、テレビを見るのは夕方から零時までだ。

スポーツを見ていていつも思うのだが、柔道・レスリング・ボクシングのように体重別に階級が分かれる競技はあるが、身長別に階級を分ける競技はない。身長に関しては誰もが無差別級で闘うことになる。体重差は競技に影響するが、身長差は関係ないという見立てだ。

下記は競技別男子の平均身長である。

プロ野球選手(日本):   179cm
バスケット(世界):    192cm
サッカー代表(日本代表): 178cm
バレーボール(日本代表): 190cm

ちなみにMLBドジャースの大谷翔平は193cm。バスケット日本代表のホーキンソンは208cm。その横に体操で金3個の岡慎之介(155cm)を並べると、倍も違わないけれど、倍以上違うように見えるはず。6月に心斎橋を歩いていたら、バレー日本代表の山内晶大を見掛けたが、204cmがどれだけ目立つ存在か思い知った。

周囲に200cm越えの「日常的存在」はいなかったし、今もいない。学生野球をしていた遠戚が一番の高身長で、たぶん185cmだった。

先週末、レストランで食事を終えようとしていた時、グループが入店してきた。一人が店内を見渡すが席はない。すかさず立ち上がって「もう出ますから、どうぞ」と声を掛けた。後に続いていた中に巨人がいた。「なかなかこんな人には会えない」とつぶやいたら、グループみんなが微笑んだ。「デカいねぇ、何かスポーツやってた?」と月並みに問えば、「バスケットです」と想定内の答え。「今は会社員」と言う。「あ、そう、背が高いだけの会社員?」と、もうちょっとで言いそうになった。

昔、関東に玉川カルテットという浪曲漫才があった。メンバーの一人が身長145cm。浪曲調で「♪ 金もいらなきゃ女もいらぬ わたしゃ も少し背が欲しい」と歌った。身長が売買できるなら、ただ背が高いだけの会社員の25cmを浪曲師に売れば、175cmの会社員と170cmの浪曲師としてハッピーになれるだろうか。

背の高い人はみんな頭をよくぶつける。もう一つ、うんざりするのは「何かスポーツやってた?」と尋ねられることらしい。あの200cmの会社員はうんざり顔をしなかった。聞かれるのを喜びとする人がいても不思議ではない。

誤字・誤植、または表現の違和感

文章を書くことや編集に携わってきたので、校正や校閲の機会も多かった。原稿と仮刷りを照合して誤字を訂正するのが校正。文字に間違いはないが、文章の読みづらさや表現の分かりにくさを改めるのが校閲。自分が書いたものなら遠慮なく校閲できるが、他人様の文章だと勝手に書き換えるわけにいかず、筆者に直接確認したり文案や表現を提案したりする。


✅ 以前よく通っていたイタリア料理店の前を通り掛かった。店は閉まっていた。ドアノブに「closed: sandays and mondays」の表示板が掛かっている。がっかりした。がっかりしたのは、日曜日と月曜日が休みだからではなく、sundaysandayだったからだ。語学に自信がない人ほどマメに辞書を引かない。

✅ 私塾のテキストを京都の主催者に送った。タイトルは『愉快コンセプトへの誘い』。「誘い」は「いざない」だが、ルビを振らなかった。当日配付されたタイトルは『愉快コンセプトへのお誘い・・・』に変更されていた。校閲者は「誘い」を「さそい」と読み、受講者に失礼だと判断して、「お誘い」としたようであった。力抜けしそうなタイトルになった。

✅ ある本に「(……)レストランのシェフと家庭のシュフとは、そこが違う」という一文があった。誤植ではない。家庭のシュフを「家庭のシェフ」に勝手に校閲してはいけない。「シェフとシュフ」だからおもしろいのである。

✅ 「さっさと食事を済ませて、出掛けることにした」。この一文に校正の余地はなさそうだが、「さっさと」でいいのか、「ささっと」ではないのかとちょっと立ち止まる。「さっさと」だと食事の扱いが軽くなる。「ささっと食事を済ませて」なら動作やスピードなので否定的ではない。「さっさと」と「ささっと」は同じ意味だが、書き手の気分の伝わり方が違ってくる。

✅ あまり見聞きしなかった「日常着」。知らない所で、まずまず使われていることを知った。普段着との細やかなニュアンスの違いがわからない。日常着という表現に出合ったら、違和感を覚えるので、ぼくなら「普段着」に書き換えるだろう。しかし日常着を常用している人もいるようなので、その人が校閲したら朱が入らない。校閲には校閲者の語彙体系が反映される。

✅ 二十代の頃の話。一回り以上年上の先輩からの手紙に、「(……)扨て、いよいよ来週に迫ってきましたね」という一文があった。「扨て」が読めない。読めないが、新しい段落の始めなので、「さて」と読んだ。まぐれで正解。この人は著名な文人の甥で、大正生まれでは? と思うほど、ひらがなで済ませられる箇所を漢字表記する人だった(「就中」と平気で書いたりもした)。
「さて」で事足りるのだから、「扨て」でなくてもいいはずと思い、その頃から、「有難う御座います」や「如何」などもひらがなで書くようになった。現代文では機能語はすべてひらがなでいい。

ランダムなメモの文字起こし

録音テープ(あるいは動画)から音声を拾って文字に書き起こすことを「テープ起こし」という。今となっては誰もテープに録音していないのに、昔の名残でそう言う。インタビューした当事者なら臨場感も記憶もよみがえるので、少々聞きづらい録音箇所でも再現できる。しかし、その場に居合わせていない人がバイトでテープ起こしをすると、トンチンカンな話が出来上がりやすい。

さて、わがノートにメモを書いているのは、他の誰でもなく、自分自身である。メモには文としてまずまず完成しているものと、脈絡のないランダムな覚え書きとがある。大半は後者なので、まともな文章にするためには「(読みづらいメモの文字から)文字起こし」をすることになる。少し手がすいた今週、数年前のメモから文字起こしをしてみた。


📝 耳に残るのは好ましい話や音だけではない。いや、むしろ耳障りなことのほうが記憶として長く残る。耳障りは耳残り。

📝 嗅がされるのが匂い、嗅ぎたくなるのが香り。さて、においを「匂い」と書くか「臭い」と書くか。かおりを「香り」と書くか「かほり」と書くか。
「かほりは変でしょ?」 いや、そうでもない。小椋佳のあの名曲は「シクラメンのかほり」。

📝 午後七時四〇分の視線。♪ゆ、ゆ、夕焼け、今宵は赤い、と即興で口ずさむ。
夕焼けはいつも赤いとは限らない。都会の人工の光にけがされた紫っぽく
蒼ざめた夕暮れに出合うこともある。

📝 一方通行で使うのでないかぎり、階段は上がったら下りてこなければならない、あるいは下りたら上がってこなければならない。これを「階段の二重構造性」と勝手に呼んでいる。エッシャーの絵に現れる無限階段も、この「上がったら下りる、下りたら上がる」という構造を持つ。

📝 ノートの間から付箋紙がぽとり。BS放送を見ていた時のメモだ。インタビューに淡々と答えたイタリアの初老の職人のことばである。

「靴屋に仕立て屋にチーズ職人。別に難しいことをしているわけじゃないが、昔から引き継いでやっているのさ。」

これこそプロなんだなあと感じ入る。かつて職人と世襲は同義だったのだろう。

まだまだ続く二字熟語遊び

木材もくざい材木ざいもく
(例文)木材は、原木を切って材(材料)に用いるもの。つまり、木から材を作る。その材を長さや大きさの規格に合わせて製材したのが材木である。

厳密に言えば、木材店と材木店の扱うものは同じではない。かつて街中でもよく見かけたのは材木店で、すでに製材された板が立ててあったり加工された角材が積んであったりした。他方、木材店にあるのは、表皮を取り除いた、汎用性のある丸太や大きな一枚板。木材は、人の手による加工が入って材木になっていくのである。

人海じんかい海人あま
(例文)大勢の人が集まる様子を広い海にたとえる表現が人海。漁師や漁業などの海の仕事に従事する人は、多くても少なくても海人

人海を二字熟語として見ることはめったになく、たいてい人海戦術という四字熟語で使われる。「海女」を連想するので、「あま」というおんから女性を指すと思いがちだが、実は、海人、海女、海士、塰はすべて「あま」と読む。沖縄では海人は「うみんちゅ」と言い、職業は「あま」である。

文明ぶんめい明文めいぶん
(例文)ルールや法が高度になるにつれ、
文明社会ではそれらを文書として明文化するようになった。

稗田阿礼が完璧に暗誦しているからそれでいいとは誰も言わず、暗誦したものを太安万侶が筆録して『古事記』として編纂した。同じく、農耕や牧畜、都市と社会、技術と物資などにまつわる約束事は人々の記憶だけで共有できない。と言うわけで、文章として明確に書き留めたのである。もっとも書き留めたからと言って安心はできない。一般大衆はそんな難解なものを読まないからだ。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

語句の断章(55)「便利」

日常語ほど定義に苦労する。その語だけで十分明快なのに、説明を加えて逆にわかりづらくなる。「便利」などはその最たる例だ。この語を初めて辞書で引いてみた。「それを使う(そこにある)ことによって何かが都合よく(楽に)行なわれていること(様子)」と『新明解』には書いてある。あまり明解ではない。執筆者、ちょっと困っているのではないか。

便利とは何かと説明するよりも、便利を使った用例を示すほうがわかりやすい。たとえば、「今住んでいる所は買物に便利がいい」とか「知人にもらった8-in-1エイトインワンの多機能道具は想像していたほど便利ではない」とか。

『徒然草』は、長年書きためた随筆を吉田兼好が1300年の半ばにまとめた鎌倉時代の随筆集。この第一〇八段に「便利」という語が登場する。

一日のうちに、飲食おんじき便利べんり睡眠すゐめん言語ごんご行歩ぎやうぶ、やむ事をえずして多くの時を失ふ。そのあまりのいとまいくばくならぬうちに、無益むやくの事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟しゆゐして時を移すのみならず、日をせうし月をわたりて、一生を送る、最も愚かなり。

文中の便利は、現代の意味とは違う。古語辞典でチェックしたら、当時は仏教由来の「大小便のお通じ」の意味だった。

食べたり飲んだり、大小便をしたり、眠ったり、しゃべったり、歩いたりと、やめるわけにはいかないことに一日中時間を費やしている。残された時間が多くもないのに、役にも立たないことをやり、役にも立たないことを言い、役にも立たないことを考えて時が流れる。日を送り月を過ごして一生を送ってしまうとは、きわめて愚かなことだ。(拙訳)

食事、排泄、睡眠、会話、散歩が無駄だと言っているように聞こえるが、むしろ、それ以外のことをしていない日々の過ごし方への批評だと読むべきだろう。ともあれ、便利は大小便のことだった。役に立たないと片付けてしまうわけにはいかない。便利が滞ると「便秘」になってしまう。便利には「利便性」があるのだ。