文章を書くことや編集に携わってきたので、校正や校閲の機会も多かった。原稿と仮刷りを照合して誤字を訂正するのが校正。文字に間違いはないが、文章の読みづらさや表現の分かりにくさを改めるのが校閲。自分が書いたものなら遠慮なく校閲できるが、他人様の文章だと勝手に書き換えるわけにいかず、筆者に直接確認したり文案や表現を提案したりする。
✅ 以前よく通っていたイタリア料理店の前を通り掛かった。店は閉まっていた。ドアノブに「closed: sandays and mondays」の表示板が掛かっている。がっかりした。がっかりしたのは、日曜日と月曜日が休みだからではなく、sundayがsandayだったからだ。語学に自信がない人ほどマメに辞書を引かない。
✅ 私塾のテキストを京都の主催者に送った。タイトルは『愉快コンセプトへの誘い』。「誘い」は「いざない」だが、ルビを振らなかった。当日配付されたタイトルは『愉快コンセプトへのお誘い』に変更されていた。校閲者は「誘い」を「さそい」と読み、受講者に失礼だと判断して、「お誘い」としたようであった。力抜けしそうなタイトルになった。
✅ ある本に「(……)レストランのシェフと家庭のシュフとは、そこが違う」という一文があった。誤植ではない。家庭のシュフを「家庭のシェフ」に勝手に校閲してはいけない。「シェフとシュフ」だからおもしろいのである。
✅ 「さっさと食事を済ませて、出掛けることにした」。この一文に校正の余地はなさそうだが、「さっさと」でいいのか、「ささっと」ではないのかとちょっと立ち止まる。「さっさと」だと食事の扱いが軽くなる。「ささっと食事を済ませて」なら動作やスピードなので否定的ではない。「さっさと」と「ささっと」は同じ意味だが、書き手の気分の伝わり方が違ってくる。
✅ あまり見聞きしなかった「日常着」。知らない所で、まずまず使われていることを知った。普段着との細やかなニュアンスの違いがわからない。日常着という表現に出合ったら、違和感を覚えるので、ぼくなら「普段着」に書き換えるだろう。しかし日常着を常用している人もいるようなので、その人が校閲したら朱が入らない。校閲には校閲者の語彙体系が反映される。
✅ 二十代の頃の話。一回り以上年上の先輩からの手紙に、「(……)扨て、いよいよ来週に迫ってきましたね」という一文があった。「扨て」が読めない。読めないが、新しい段落の始めなので、「さて」と読んだ。まぐれで正解。この人は著名な文人の甥で、大正生まれでは? と思うほど、ひらがなで済ませられる箇所を漢字表記する人だった(「就中」と平気で書いたりもした)。
「さて」で事足りるのだから、「扨て」でなくてもいいはずと思い、その頃から、「有難う御座います」や「如何」などもひらがなで書くようになった。現代文では機能語はすべてひらがなでいい。