あるカフェの印象

rosarian 2

コーヒーはおいしくて安いし、窯だしのパンもいい……店のしつらえは落ち着いたオーガニック系……自宅から徒歩数分と近いこともあり、足繁く通っている……と、ここまで褒めれば合格も合格、「たいへんよくできました」のスタンプが押せる。しかし、とても残念なのだけれど、「もうすこしがんばりましょう」と言わねばならない。

ここはカフェコーナーが併設された焼き立てベーカリー。かなりの繁盛店である。七、八人のスタッフが常時顔の見える所にいてきびきびと動く。パンの種類も多い。パンは時間差で焼き上がり窯から出される。そのたび、パンをトレイに盛る担当の女性が「ただいまチョコレートクロワッサン、焼き上がりましたぁ~」と店内に告げる。よく通る声で「いかがでしょうかぁ~」ととどめを刺す。この声に応じて他のスタッフ全員が「いかがでしょうかぁ~」と声をそろえる。

パンがのべつまくなしに焼かれるわけではないから、コーラスは5分か10分ごとである。しかし、この店では、コーヒー1杯の客にもパン一つの客にもこの調子、しかも店を後にする客に対しても同様に「ありがとうございますぅ~」。来店の際にも「いらっしゃいませぇ~」と礼を尽くすので、およそ30秒に一度のペースで店内に声が響き渡る。当然、本を読むぼくの耳をもつんざく。


座ってからの状態がこれである。ぼく自身はカウンターでコーヒーを注文しパンも一緒に買っているから、目と鼻の先の距離で「ごゆっくりどうぞぉ~」とすでに叫ばれ済み。そう言ってもらったにもかかわらず、ゆっくりとくつろげないのが情けない。おいしいコーヒーと焼き立てパンを賞味する気分に棘が刺さり、棘が刺さったまま本に向かうが、落ち着いて本を読ませてくれないのである。

大学生の頃に製麺所や鉄工所でアルバイトを経験した。みんな黙々と仕事をしていて発声らしきものはほとんどなかった。ただ単調な機械音が間断なく繰り返されるばかりだった。間が開かない機械音は意外にもノイズにはならず、ある種の環境音として場に同化する。物理的には聞こえているのだが、手先や目先の作業に集中しているからまったく気にならなくなるのである。

カフェにはしばしの静寂も生まれるので、耳が声を雑音としてキャッチしてしまう。このカフェのほとんどの客はおしゃべりもせずに、本や雑誌を読んだりスマホやPCでネットやメールを見たりしている。先日、珍しく閑散とした時間帯があった。スタッフの声が途切れ、2分、3分と時間が過ぎた。その時初めて、ぼくはその店にBGMが流れていることに気づいたのである。そうか、音楽がかかっていたのか……。「もうすこしがんばりましょう」とつぶやきながら、せめて「よくできました」になることを願いながら、ぼくは性懲りもなく通っている。

未完の書

「はじめに」の一文の後に19943月とある。そこにはこんな文章が書かれている。

本書『成功への触媒』は、混迷を極める市場環境、ひいては企業活動、組織、人材を、ぼくたちのささやかな仕事のフィロソフィを光に変えて精一杯照らし出そうと試みたものです。
その光――きわめて日常的視点からの光――が、既成の事実や価値観に新しい意味を与え、「触媒」として機能し、成功を生み出す小さな発想やきっかけになればと願っています。
「成功」ということばには数限りない定義と意味が与えられてきました。その中からベン・スイートランドのことばを借りることにします。
“Success is a journey, not a destination.”(成功は旅である。目的地ではない。)
『成功への触媒』はさしずめ「旅のお供」というところでしょうか。邪魔にならないお供にになれば幸いです。

成功への触媒

全原稿の7割ほどをぼくが書き、スタッフ78名が残りの原稿をそれぞれの視点で書いた。百数十ページの小さな本が出来上がるはずであったが、いくつかの理由があってそのまま放置された。もはや日の目を見ることはないだろう。「はじめに」で書いているように、時代性を反映するタイミングが肝心であったから、今となってはほとんどの原稿が色褪せてしまったはずである。

実際に色褪せた紙の束を手に取って懐かしく読み返してみた。ぼくの思いとは裏腹に、今でも発想の触媒になりそうな普遍的な気づきが忍んでいることに気づいた。出版しておけばよかったと、ほんの少し自責の念にかられる。未練はさておき、今もしっかりと記憶に刻まれている一つのエピソードを紹介する。


水漏れしない蛇口

 ずいぶん前にリンカーン・ステファンというアメリカ人が書いた『未完の仕事』と題するエッセイを読んだ。冒頭はこう始まる。

「水道の蛇口から水が漏れている。きつく締められない。よろしい。七歳の息子に人生のレッスンとしてやらせてみよう。息子は蛇口をつかみ、必死にねじる。無理! 息子は嘆く。『どうした、ピート』と私。息子は笑みを浮かべながら言う、『パパ、これは大人の仕事でしょ』」

 著者は続ける。
 「大人はちゃんとした蛇口さえ作れないのだ。息子のほうが水漏れしない蛇口を作れる可能性を持っている。どんな仕事においても、可能性の大きさは次の世代のほうが上回っている。何事も究極的に最善におこなわれたことはない。何事も明晰に完璧に突き止められたことはない。」
 ステファンによれば、われわれの世代が作った鉄道、学校、新聞、銀行、劇場、工場には完璧なものはない。さらには、理想的な事業を築き経営している企業も存在しない。われわれは未知なるものの1パーセントすらも発見していない。
もちろん極論であり、1パーセントという根拠もない。しかし、共感せずに通り過ぎることはできない。
 スペースシャトルが宇宙へ旅立ち、バイオが遺伝子を操作し始め、超LSIがものの見事に情報をつかさどる。ステファンの主張に反して、ぼくたちの社会の進歩は道の壁をどんどん崩していくように見える。
 しかし、ぼくたちの住まいでは、寝静まった夜に締まりの悪い水道の蛇口からは相も変わらず水が一滴ずつしたたり落ち睡眠を妨げる。大雨の日に背中や足元を濡れぬように雨をしのいでくれる傘は未だに発明されていない。車は依然として通行人にやさしくはなく、歯磨きは歯周病を完璧に防いでくれない。
 ひと頃、ハイテク型のニッチビジネスがもてはやされ、異業種交流会花盛りの趣があった。ほとんどの試みは大した成果もなく霧散した。足元のローテクに改善の余地があるのに、遠くのハイテクが優先される。緻密をモットーとし予算もリスクも大きいハイテクに比べ、ローテクは人間的で泥臭い。心意気と一工夫で見違えるような改善も可能なのだ。水道の蛇口のようなモノはもちろん、日常のサービスも、ほんの少しのテコ入れを待っているのである。


リンカーン・ステファンのように、水道の蛇口一つで息子や娘に教育できるような父親になりたいものである。ぼくたちときたら、子どもがわざわざ「なぜタイ米がダメなの?」と経済社会的問題に関心を抱いて質問してきても、めったなことではまともに受け答えしてやらない。「タイ米はまずいから」などといい加減だ。すると、子どもに「なぜまずいの?」と聞かれ、苦しまぎれに「パサパサだから」と言うと、「なぜパサパサだったらまずいの?」と追い打ちを食らう。こうなると困るので、たいていの父親は最初の質問時点で「大人になったらわかるさ」と逃げの一手で対応する。これは無責任である。大人になってもわかるようにならないのは、自分自身が証明しているではないか。

眺める

観測データは観測のための光や観測者の存在によって変化を被る。

元々は誰かが言ったことばなのだろうが、あいにく覚えていない。〈観察者効果〉と呼ばれる現象のことである。真っ暗だと何も見えない。何かを見るためには光が必要である。その光を照射した瞬間、観測対象は変化する。同様に、観察しようとしてぼくがそこにいることによって対象はすでに変化を受けている。つまり、観測環境がつねに一定することなどありえない。

野生動物の生態を調査するという目的で、小屋を作って人が入りずっとカメラを回し続ける。そこに棲息する野生動物が小屋の存在に気づかぬはずはない。小屋ができた時点から彼らの生態は変化を被る。自然な生態というものは、観測装置や観測者不在のもとでしか存在しえないのである。


湯治村3

風景を眺める。繊細な色合いで落ち着き払っている。青系統の色が連続的な変化を織り成し重なり合う。ぼくの好む青系統の風景であってみれば、惚れ惚れと見入ってしまう。その風景にはすでにぼくの感覚的な観察視点が入り込み、他者の眺めとは違う印象と効果が生まれている。

一朝一夕にしてしつらえられた風景ではない。この眺望の一瞬のために、長い年月にわたって風土的条件が用意されてきた。そして、そこに今という時の気象条件やぼくの眺めの諸条件が加わっている。しかし、観察者としての自分がその風景の見方を「歪めている」などとは誰も思わない。お膳立てされた風景をただ堪能するだけである。対象内に人や人工的な介在物がない時、ぼくたちは一切の過去への推察から解き放たれている。理性的に理解しようなどという動機は芽生えず、ただ無意味にそこに佇んで忘我の境地で眺めるのである。

シネリーブルから地上

街中にあって窓外を眺める。先日こんな光景を目にした。自然がお膳立てしたような風景はそこにない。コンクリート空間の中に造形されたモノがあり、複数の人々がいて独特のシーンを描き出している。人々は目的があってそこに居合わせたり行動したりしている。

詮索することなしにこの光景には向き合えない。この都会的な構図における「点景」は状況理解を迫ってくる。観察時間を増やして点景を線として手繰ってみれば、意味を探れるかもしれない。しかし、この観察は疲れる。風景を眺めるのとは違って、街、人、造形物を眺める時、無意味だと片付けて知らん顔できないのである。都会に生きる者はそういう宿命を背負って生きる。

牽強付会の説

最初通読して「なるほど」と感じ入った見解だったが、もう一度読み直してみたら「ちょっと待てよ」と再考したくなることがある。そのつど、一度だけではわからないものだと痛感する。もう一度読んでみて「やっぱりそうなんだろう」と思えば、知の度合はともかく、暫定的に納得しておくしかない。逆に、「おかしい」と感じたことを二度目に読んで「間違いなくおかしい」と思い至ることもある。

煉瓦

ある建築史家の講演での話を引いた新聞記事があった。「日本人がなぜ赤レンガの建物が好きなのか」という理由が二つあるという。一つは縄文時代以来、日本人が延々と土を焼いてきて、焼き物や瓦が生活の原風景にあり、レンガで心が休まるというもの。もう一つは、日本のレンガ建築の多くは英国にルーツを持ち、近代日本人の英国への思いが愛着の背後にあるというもの。この話を読んで、ぼくは最初に「何か変」と直観的に反応し、もう一度読み直しても「変」という思いは変わらなかった。

まず、縄文時代以来土を焼いてきた日本人の生活の原風景にレンガはずっと存在してなどいなかった。もしレンガへの憧憬があったのなら、メソポタミア文明のようにレンガで建造物を作っていたはずである。わが国がレンガ工場を作ってレンガを生産し始めたのは1870年になってからのことだ。次に、仮に縄文時代以来の「レンガDNA」を唱えるのなら、わざわざ近代になってからの英国の影響を引き合いに出すこともない。もし確かに英国の影響を受け、それがDNAと相まってレンガ建築好きを助長したのだとしても、では、日本人はなぜ明治・大正期の数々のレンガ建築を解体して、代わりに無味乾燥な建築物を量産していったのかという説明がつかない。経済成長はDNAを駆逐する?


縄文時代と英国という二つの事象を一つにまとめ、本来相互に関係がないのに、無理にこじつけているかのようだ。これを「牽強付会けんきょうふかい」と言う。なぜこういう話になってしまうのか。おそらく最近東京駅がレンガ造りに再現されたり、古いレンガの建築物を一部でも保存しようという動きがごく稀に出てきたりするからだろう。個人的には赤レンガが好きである。しかし、赤レンガの家を建てようとは思わない。観賞者として赤レンガを好むことと、それを生活に自ら取り込むこととは別のものである。赤い色をこよなく愛しても赤いスーツを着ることにつながらないように。

土を焼いて器や瓦を作りはしたが、レンガによって住まいを囲おうとしなかった日本人。他方、レンガを積んで住居や周辺の壁を固めた民族がある。この相違点にこそ考察に値する妙味があると思うのだ。この点については、たとえば芦原義信『続・街並みの美学』の次の一節に興味を覚える。

オットー・ボルノーやハイデッガーはその実存主義的立場から、建築における壁の存在の重要性を強調している。そして堅固な人為的な壁によって内部に庇護性ひごせいのある空間をつくりだし、そこに人間が住むことによってのみ自己の本質の実現に到達する(……)

空間とは、言うまでもなく、「場」である。人が生活する場である。もし人がそこに居合わせないなら、それは場にはなりえない。その場を堅固にレンガの壁で固めることを「生きること、命を守ること」としたヨーロッパの人々がいたのであり、いるのである。英国の話を持ち出すのなら、“An Englishman’s house is his castle.”(英国人の家は彼の城である)こそがレンガの意味を説くのにふさわしい。強くなければ家ではない、というわけだ。赤レンガが好きだからレンガを積んだのではなく、庇護性のある空間のために居住空間を囲ったのである……と考えるほうが素直ではないか。最後になるが、ぼくは居住者ではあるが、建築の素人である、念のため。

ユーモアの哲学、哲学のユーモア

プラトンとかものはし

Thomas Cathcart & Daniel Klein
“Plato and a Platypus Walk into a Bar…” Understanding philosophy through jokes

たまに読み返す本。2008年に翻訳され、『プラトンとかものはしバーに寄り道――ジョークで理解する哲学』が邦題。主宰する書評読書会で取り上げて解説したことがある。

哲学の大半は〈アポリア〉を取り扱う。行き詰まりや解決不能性のことである。だから〈無限後退〉などという概念も顔を出す。たとえば、アトラスの神が地球を持ち上げる。アトラスは何に乗っかっているかと言えば、カメの背中だ。でも、そのカメは何の上に? もう一匹別のカメの上だ。それじゃ、そのカメは……。もちろんさらに別のカメ。こうして延々と問いは続く。

本書が扱うテーマは、著者の次のことばに凝縮されている。

哲学とジョークは同じ衝動から生まれている。物事のあり方にかかわる感覚を混乱させたい、世界をひっくり返したい、隠された人生の真実をあばきたててバツの悪い思いをさせたい……などという衝動である。哲学者が洞察力と呼ぶものを、悪ふざけをする連中はシャレと呼んでいる。

まったく同感である。どちらも理解できないとストレスがたまる。さて、哲学と笑いのはざまと言うべきか、融合の形と言うべきか、ジョーク満載のこの一冊から拾い読みして紹介することにする。もし笑えなかったら哲学的思索力の不足かもしれないし、もしむずかしいと感じたらユーモアセンスの欠如かもしれない。


形而上学けいじじょうがく

見ることも確かめたりすることもできないことを考えること。「宇宙に目的はあるか」などはその代表的テーマであるが、身近なところでは25万本ある頭髪の一本一本を抜いていったとき、いつからハゲになるか」なども俎上に乗る。

(^’^) 目的論
あるおばあさんが二人の孫を連れて歩いていた。そこに知り合いがやってきて尋ねた、「お孫さんはおいくつですか?」 おばあさんは答えた、「お医者さんのほうが5歳で、法律家のほうが7歳です」

もし人に達成しなければならない〈テロス内的目標)〉が備わっているのならば、おばあさんの答えは必ずしも間違いではない。孫の実名であるジョンやニコラスなどよりも、達成すべき将来のプロフェッショナルの呼び名が妥当かもしれない。

(^’^) 本質論
「ゾウはどうして大きくて、灰色で、シワだらけなの?」
「小さくて、白くて、丸かったら、アスピリン錠になっちゃうからさ」

すべての存在の本質は、他の存在の本質との差異を持つ。こんなに簡単に説明されてしまうと、大きい、灰色、シワはゾウの本質的な特質としては十分ではないような気がしてくる。


〈論理学〉

論理に筋道が立たなければ、いくら理屈をこねてもムダである。論理は導き方であって、結論の是非を問うような野暮なことをしない。

(^’^) 虚偽の論理
「ヘロインに溺れる多くの人はマリファナから始めたのだ」という主張がある。しかし、「ヘロインに溺れる人のうちほとんどすべての人がミルクから始めたのである」という反論も成り立つ。

(^’^) ゼノンのパラドックス
セールスマン「奥さん、この掃除機を使えば、仕事量が半分になりますよ」
主婦「まあ、すてき! それを二台ちょうだい」


〈認識論〉

あなたが知っていると思っていること、それをあなたはどうやって知るのか? 「知っているから知っているんです!」とあなたが答えないなら、残るは認識論である。

(^’^) 認識論に対する経験論の反発
三人の女性がテニスクラブのロッカールームで着替えているところに、顔を隠した素っ裸の男が走り抜けた。一物は丸見えだった。
「うちの主人じゃないわよ!」
「たしかに。おたくの主人じゃないわ」
「このクラブの会員じゃないわ」

クリントン大統領のネタで、よく似たのがある。
100人の女性に「クリントン大統領と寝たいか?」と聞いた。
二人がイエスと答え、98人が「二度と寝たくない」と答えた。


〈倫理学〉

よいことと悪いことを分類するのが、倫理学の領域である。しかし、分類をする時点で、どこか「えいやっ!」と無理をしている可能性がある。

(^’^) ストア哲学
「よい」ということばにはいろんな意味がある。ある男が500ヤードの距離から母親を銃で撃ったら、わたしは彼が腕のよい射撃手と言わざるをえない。だが、必ずしもよい男ではない。(チェスタートン)

(^’^) 功利主義
「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という黄金律がある。しかし、人は違う好みを持っているかもしれないから、人にしてもらいたいと思うことを人にしてはいけないことがある。あなたがいじめられたいタイプだからといって、人をいじめてはいけないのである。マゾとサドの切り替えはそう簡単ではないのだから。


〈言語哲学〉

「日本は近い将来どうなるでしょうか?」と聞かれて答えられないとき、「日本も近い将来も意味はわかります。でも、お答えする前に『は』の定義を教えてもらいたい」と、逆に相手を困らせる手がある。

(^’^) 日常言語哲学
「フレディ、ぼくはきみに100歳まで生きてほしい。そして、できればさらに3ヵ月……」
「ありがとう。でも、アレックス、どうして3ヵ月なんだい?」
「ぼくはきみに突然死してほしくないんだ」

(^’^) ファジー哲学
自然史博物館での話。一人の見学者がガードマンに尋ねた。
見学者 「この恐竜の骨はどれほど古いかご存じですか?」

ガードマン 「2億と46ヵ月です」
見学者「やけに細かい数字ですね。なぜそんなに正確な年代がわかるんですか?」
ガードマン 「わたしがここで働き始めたときに、この骨が2億年前のものと聞きました。それから46ヵ月経ちましたから、そうなります」


〈相対主義〉

相対主義のもと、われわれは何が正しいと断言できるのだろうか。いや、そもそも相対主義という術語自体が、ぼくとあなたとに対して違う意味を持っているのではないだろうか。

(^’^) 時間の相対性
ドアがノックされたので女性が出てみると、カタツムリしかいなかった。
カタツムリをつまみあげた彼女は、庭の向こうに投げ捨てた。
その2週間後に、またノックの音が聞こえた。
女性がドアを開けると、またあのカタツムリがいた。カタツムリは言った。
「いったいどういうつもりなんですか?」

哲学はやさしくない。考えることもことばもむずかしい。だが、それならジョークも同じことだ。哲学嫌いはユーモアセンスに恵まれないだろう。笑うためには、そして考えるためには、いろいろと知らねばならないことがたくさんあるのだ。そして、知っていれば人生はいくらかでも楽しくなるはずである。

語彙と理解

「講師の話には聞き慣れないことばが多く、一部ついていけなかった。可能であれば、事前に講義で出てくる用語を知らせてもらえれば、ことばの意味を調べる予習ができ、研修内容の理解が深まると思われる。」

ある研修が終わった後に送られてきたアンケートの中に上記のコメントがあった。一流企業に勤めるエリートの述懐に気分は複雑である。

プレゼンテーションの準備はできるだろう。しかし、それは自分が発話したり表現したりする時の話である。何かを認識したり理解することに関しては予習などできない。やってもやらなくてもどちらでいいという型通りの予習なら可能かもしれないが、たいていの打ち合わせや商談などは臨機応変を特徴とする。そこではこれまで蓄えてきた経験と知識がものを言う。相手が何を語るかをいくらかシミュレーションできたとしても、何から何まで予習するなど叶わぬことである。わからないことは、本番でわからなくなる場面を何度も体験してやがて理解できるようになってくる。

辞書

自宅とオフィスに十数冊ずつ各種辞書を座右に揃えている。マニアックな『民俗学辞典』や『実存主義辞典』も所有しているし、ソシュール言語学を理解するための『ソシュール小事典』なども揃えている。暇つぶしに本を読むように開くこともあるが、たいていの場合は、なじみのない術語やわからない事柄に出くわすたびに、意味を調べるために活用している。将来何ごとかをよく理解するために辞書を使ったり覚えたりすることはありえない。高校時代に英単語をABC……順に覚えようとした愚を社会人になって繰り返すつもりはない。


ぼくたちは、辞書によって用語を一つ一つ覚えた上で対話をしているのではない。仮に部品のように単語を覚えるとする。たとえば英単語の丸暗記。それが当面のテストの空欄を埋めるのに役立つことはあっても、実践的な英語力の醸成につながる望みは薄い。ことばは他のことばとの配置関係、ネットワークや差異によって文脈上で意味を持つ。人と人とが繰り広げる対話は、文脈や構文から切り離された単語の足し算でおこなわれるのではないのだ。

冒頭のコメントを書いた研修生のために、ぼくが使う術語を事前に知らせてあげるとしよう。それでもなお、研修生が術語の意味を踏まえてぼくの話の文脈の線を追える保障はない。話を聴いて理解し、あるいは本を読んで理解できるのは、単語がわかるからではなく、メッセージに当たって砕けろの思いで対峙するからである。文脈が単語の意味を決定する。そして、わからない単語はそのつど復習するほかない。

『広辞苑』を電子的に脳内に埋め込んでみればいい。あなたの頭脳は24万語の語彙を内蔵することになる。その語彙によってはたして表現豊かな文章が紡げるか。その語彙によって誰かが書いた文章を、誰かが論う話を絡め取って意味あるメッセージとして理解できるか。語彙力は理解力に反映しない。理解力とは文脈を読み取る能力にほかならない。その能力があれば、少々知らない単語に出くわしても意味を類推することができるのである。もしそれで不安ならば、面倒ではあるが、そのつど辞書をひもとくしかない。語彙とはそういうふうにして増強されていくものだ。決して予習するものではない。

座右の散歩道

「座右の散歩道」などというものは、現実にどこを探しても存在しない。そんなことはわかっている。仮に一度か二度歩いた道であっても、部屋の中にいるかぎり、そんな散歩道は想像の世界にしかない。しかし、気の向くままに出掛け、心弾ませて歩けるような道が机の上のどこかにあれば――もしあれば――愉快この上ないし、「ぼくには座右の散歩道があるんだよ」とちょっぴり自慢できる。

座右というのは、元々はその名の通り、座席の右のことだった。これが転じて「かたわら」を意味するようになったのである。座右と言えば、最初に浮かぶ連語は、ぼくの場合は「座右の銘」。つねに身近に備えて教訓としたり戒めとしたりする格言や名言である。「座右の書」を思い浮かべる人もいるだろう。あいにくぼくにはそのような終生繰り返し読むような本はない。机上には今月読む予定の本が十数冊置いてあるが、どれも座右になることはないはず。おまけに、すべての本は座席の左に積んである。

座右をもっと広義にとらえてみれば、つまり、身の周辺とか身近な場所にまで広げてみれば、座右の書店があってもいいし座右のカフェや居酒屋があってもいい。すぐに駆けつけることはできないが、訪れた経験さえあれば想像上で立ち寄ることはできる。したがって、座右の散歩道も記憶の中に存在し、居ながらにして遊歩を楽しめる機会を与えてくれる。


きみの持っていないものをぼくは持っている
誰かにもらった宝石箱には宝石は入っていないけれど
捨てがたい小物のガラクタがいっぱい詰まっている
そんなことよりも一番の自慢は座右の散歩道
きみの知らない道が日替わりで座右になっていく
気に入ったときに足を踏み出せば
そこがぼくの座右の散歩道
手を差し伸べたら愛読書がそこにあるように
座右の散歩道はぼくがやって来るのを待っている
(岡野勝志)

座右の散歩道2

座右の散歩道に出掛けるのに着替えはいらないし、革靴を履かなくていい。とても気が楽である。気楽というのは当てのないそぞろ歩きをするには絶対の条件だ。とっておきの座右の散歩道の一つがフィレンツェにある。観光客はバスで目的地に行ってしまうが、ぼくには彼らが見えない道が見える。あの有名なポンテヴェッキオの左岸から勾配のある裏道を上がっていく。瀟洒しょうしゃな古い家が点在する中をのどかに歩く。

この道はサン・ミニアート・アル・モンテ教会へと歩く人を誘う。アル・モンテとは「丘の上の」という意味。そこまで歩くと、やがてミケランジェロ広場を見下ろせる。広場のさらに先にはフィレンツェの中世の名残色濃い歴史地区を眺望できる。圧巻は花の大聖堂である。無言のまま軽めの動悸が収まるのを待つ。現地にいれば、そこからアルノ川に沿って旧市街へと戻るのだが、自宅にいる今は目薬をさしてからおもむろに地図を広げることになる。気がつけば実際の散歩と同じ時間が過ぎていた。

三人寄れば……

「三人寄れば」とくれば「文殊の知恵」。なぜ「三」であって「二」ではないのか。三のほうが和するというのは根拠不十分だし、二は対立や背反を感じさせてネガティブであるというのも深読みすぎる。生半可に考察するわけにはいかない。「女三人寄ればかしましい」というのもあるから、三が二よりも優位であるとも言い切れない。二よりも三が座りが良い感じがしないでもないが、これも偏見かもしれない。

三人寄れば

「三人寄れば文殊の知恵」に相当する英語は、“Two heads are better than one.”である。直訳すると「二つの頭は一つよりもすぐれている」。三人ではなくて二つの頭、つまり、二人の頭脳なのである。英英辞典をひも解くと、“Two people working together can solve a problem quicker and better than a person working alone.”と説明されている。「一人でするよりも二人一緒にするほうがより速く上手に問題が解決できる」と言っている。

「一人より二人のほうがいい」と明言する英語に対して、「三人が二人や一人よりも優れている」などと言わずに、ポツンと(あるいはさらりと)三人を持ち出し、それが文殊の知恵になるんだよと言うのは日本的なのだろうか。ちょっと気になるので、他言語ではどういう表現をしているのか調べてみた。


“Deux avis valent mieux qu’un.” フランス語では「二人の意見は一人の意見よりも価値が高い」と言う。英語で頭だったのが意見に変わるが、「2>1」である。“Due teste valgono più di una.” イタリア語は英語と同じで、「二つの頭」であり、これも「21」。ドイツ語はどうか。“Vier Angen sehen mehr als zwei.”  英仏伊と違い、「四つの目が二つの目よりもよく見える」である。意見や思考が眼力に変わる。しかし、お化けでないかぎり、四つの目とは二人のことだから、これもまた「21」だ。

ここで、欧米では「21」というのが一般的と書こうと思ったが、念のためにスペイン語をチェックしてみた。“De un consejo de tres emana la sabiduria.” 調べてよかった。「三人の助言から知恵が生まれる」。「三が二や一よりも優れている」とも言っていない。これは「三人寄れば文殊の知恵」に酷似している。他にも例外があるに違いない。しかし、少なくとも英仏伊独の「二」と日本の「三」は対照的である。東洋思想では「三」が縁起のいい数字であると何かに書いてあった記憶があるが、確証はない。

さて、「三人寄れば文殊の知恵」の三人がどんな人間を想定しているのかが気になる。「全体は部分の総和に勝る」(アリストテレス)に従えば、全体が文殊の知恵であるから、部分は文殊の知恵以下ということになる。おそらくこの三人はどこにでもいる凡人なのに違いない。凡人でも頭を寄せ合って意見を言い合い相談してみたら、文殊菩薩レベルのアイデアが出るということなのだろう。但し、誰もが経験する通り、その確率は高くない。これは一種の励ましと見るのが正しい。一人でできることが三人寄ってたかっておじゃんになることも稀ではないのだから。

オーダーと接客

料理を注文すると、注文を聞いた店員が「オーダー入りました」と厨房に告げる。「ご新規さま、ご注文いただきました」というのもあるが、店員が若い店では「オーダー」という言い方が目立つ。忙しくしている店員を呼び止めてぼく自らが「オーダーしていいですか?」などとは言わない。「注文していいですか?」か「注文を聞いてくれますか?」と、注文ということばを使う。

注文に相当する英語の“order”は多義語で、手元の英和辞典では名詞だけで21もの意味がある。もっともこれらすべてを覚える必要はなく、だいたい二つの原義さえわかっていれば文脈から意味を類推することはできる。一つ目は「順、秩序」という共通の意味を持つもの、二つ目は「命令、指令」という含みのあるものである。注文という意味のオーダーはこの二つ目から汲み取られたものだ。

ラーメン

オーダーに「注文」という日本語をあてがったのだが、オーダーそのものはある種の「命令、指令」であることに変わりはない。つまり、客であるぼくは「半トロ卵のラーメンと高菜ご飯のセット」が食べたいので、その商品名Cセットを店員に告げる。「Cセットを作って持って来い」と命令しているのである。店員は命令に従うのが使命であるから、厨房担当者に「Cセットというオーダーが入ったこと」を告げる。オーダーという注文にはオーダーという順番があり、客であるぼくに注文通りに運ばれたらオーダーという秩序が生まれる。そしてラーメンはオーダー通りに胃袋に収まる。こういう一連の流れが完了して金870円也が請求できるというわけである。


昨日のランチタイムはそのようになるはずだった。しかし、そうならなかった。ぼくに出されたのはラーメンAの単品。そのことを知るのは、Cセットについている高菜ご飯がなかなか出て来ず、店員に確かめた時点であった。ラーメンACセットのラーメンだと思い込んでいるぼくは、針金のような硬い麵を「変だなあ」と思いながら半分近く食べた。そこで店員をつかまえて聞いたのである。「これは高菜ご飯のセットでしょ? ご飯のほうがまだ来ていないんだけど……」。店員、確かめる。

すぐに高菜ご飯が運ばれてきた。食事再開ということで箸で麺をつまみ上げようとした瞬間、別の店員がラーメンを持って来た。「お客さま、お出ししたのはラーメンAでした。こちらのほうがCセットのラーメンになります」。と言うわけで、食べかけのラーメンが下げられ、熱々のラーメンが代わりに目の前に置かれた。100メートル走で50メートルまで走ってからフライングと告げられて、スタートラインまで戻された感じである。こうしてぼくは出来立てのCセットに向かい仕切り直しとなった。食べ終わったら超満腹だった。なにしろラーメンを一杯半食べたのだから。

接客マナーが重要だと言い、そのことについては、いかにも取って付けたような体裁ではあるが、まずまずできるようになった。しかし、客の欲しいものを厨房にリレーして、さらに厨房で作られた料理を注文した客に出すという基本は、マナー向上とは別のものである。その基本は一つのシステムなのであり、個の記憶と注意深さに関わるものだ。先日も、注文した焼肉が通っておらず、その後に頼んだ生ビールもなかなか出てこなかった。促されて初めて店員が気づくというケースは依然として珍しくない。伝言ゲームの多い店ほどその傾向が強く、そのつど紙に書いて✔印を入れている店ほどミスが少ない。

時は流れているのか

(a) ある事件が起こったのは一か月前なのに、それがつい先週のことのように甦る。
(b) ある人物と再会した。10年ぶりくらいかなと直感したが、実は2年ぶりだと知って驚いた。

(a)は現実の時間よりも感覚的時間のほうが短く、逆に(b)は感覚的時間よりも現実の時間のほうが短かったという例である。

「歳をとるにつれ時間(月日)の経つのを早く感じるのはなぜ?」 歳をとったと自覚する人なら一度は自問したり誰かに尋ねたりしたことがあるだろう。このことについてぼくは過去何度か考えたことがある。本ブログでも《いま・ここ》の明快さというタイトルで書いたことがある。そして、時間のことを考えるたびにいつも繰り返し問うている、「はたして時間は流れているのか?」と。

人々が時の流れのあまりにすみやかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

螺旋状の時計2

ダ・ヴィンチは「時の流れ」という表現を用いている。天才が言うのだから素直に従えばいいのかもしれないが、ぼくには時が流れているようには感じられないのである。過去の瞬間や断片的体験を記憶の中でつなぎ、あたかも動画のように再生しているだけではないのか。時間が流れているように感じるのは、記憶を過去から現在へと呼び寄せ、現在から未来へと想像を馳せるからである。つい「時の流れ」などと言ってしまうが、実は「時間とは瞬間である」と思う。


いま思い返しているのが過去であり、いま洞察しているのが未来である。過去も未来も現実の内にしかない。

「現実は生命にかかわるもの、触れることのできるもの」
(大森荘蔵『流れとよどみ』)

もしそうならば、現実以外に〈いま・ここ〉の時間など存在しない。過去も未来も現実ほど明快ではないし、過去や未来が現実を凌ぐほどの説得力で迫ってくることは稀である。

にもかかわらず、いまビジョンを描いているうちに、人は現実よりもビジョンに軸足を置いてものを考えてしまう。今日が終わらないうちは明日は来ないのだが、今日よりも明日に期待してしまったりする。あるいは、過去を回顧しているうちに、人は現実よりも過去の経験を甦らせて懐かしさに酔いながら――時には後悔に苛まれて――人生を眺めてしまう。

昨夜見た夢も数年先を見据えたビジョンも、今という現実の中でしか実感できないはずだ。そして、過去も未来も、手で触れられるような現実感覚に比べて曖昧であり、輪郭のはっきりしない表象でしかない。過去や未来を起点として発想するなどと言えば何だか体裁が良さそうだが、現実直視が後回しになるのが常である。〈いま・ここ〉から逃れて行き着ける場所などない。逃避したくても、時間は流れてなどいないのだから、流れを遡ってもそこに過去はないし、下流へと辿って行ってもそこに未来はないのである。