まことに失礼ですが……

このブログの名称は〈Okano Noteオカノノートである。別によそ行きにすまし顔しているわけではなく、日々気になったことや発想したことを書き綴る〈本家オカノノート〉があって、その中から特に考察したものや愉快に思ったことを紹介しているのである。この意味では、ぼくの普段着のメモの公開記事ということになる。

一日に二つや三つのメモを書き留める日もあるから、一年で500くらいの話のネタが収まることになる。あまりにもパーソナルな視点のものはブログの対象外。それでも積もり積もってノートは飽和状態になる。飽和したから適当に吐き出せばいいというものでもないが、不条理や不自然や不可解への批判的な目線で書いたページが増えてくると、つい放出したくなってくる。たぶん精神的エントロピー増大の危うさを感じて自浄作用が起こるのだろう。

たとえばこんな話が書いてある。ふと小学校時代の転入生のことを思い出した。彼が「ぼくの名前は鎌倉です」と自己紹介したとき、なぜかクラスの中の半数ほどが笑った。彼が山本や鈴木や田中であったなら誰も笑いはしなかっただろうが、なにしろ鎌倉だ。大阪の小学校高学年の子らにとっては歴史で勉強した時代や大仏と同じ苗字が妙に響いたのは想像に難くない。不思議なことにぼく自身が笑ったかどうかを覚えていないが、話し方や苗字からこの男子が関東出身であることが推測できた(その後、彼とは結構親しくなった)。


紹介が終って担任が彼に尋ねた。「鎌倉君、きみは神奈川県出身やろ?」 「はい」と彼は答えた。「やっぱりな」と言って先生は鼻高々になっている。そりゃそうだろう、鎌倉という地名は神奈川なんだから、ふつうに考えればそう類推するものだ。たまたまピンポーンと正解になっただけで、たとえば「ぼくは松本です」と名乗っても、「きみは長野出身だな?」が当たる確率はさほど高くない。

先生、まことに失礼ですが、鎌倉で神奈川出身が当たったからと言って自慢にはなりません。おまけに、あなたは彼の前の在籍地や出身地が事前にわかる立場ではありませんか。

焼肉の食べ放題・飲み放題の話。二十代の若者が言った、「金がないので、オレたちはもっぱら2,980円の焼肉食べ放題・飲み放題のセットなんですよ。」 おいおい、金がなければ焼肉は贅沢だろう。食も酒も控えるのが筋ではないか。

まことに失礼ですが、きみたち、金がなくて、それでも焼肉と酒を時々楽しみたいのなら、一皿300円のホルモンと一杯280円の生ビールの店で粘り、それでも腹が一杯にならないのなら、小ライス150円を追加して合計730円で済ますのが分相応ではないですか。

目的・手段不在の話。気をつけないとつい聞き過ごしてしまう誰かの所信表明。「得意先のニーズに応えていきたい。それを実現するために頑張りたい」――よく若手の営業マンが会議で決意の程を語っている。ゆるいアタマの課長など、メッセージの論理構造よりも彼の毅然とした声の大きさに相好を崩してしまう。

課長、まことに失礼ですが、彼のメッセージに「目的と手段」はないのに気づいておられないようですな。「単なる二つの願望」になっていることがお分かりになりませんか。

ぼくのノートには「まことに失礼ですが……」で締め括らざるをえない、バカバカしいノンフィクションがいくらでもある。

熟成一年のノート

少数ながら、本ブログをフォローしてくれている研修受講生がいる。ほとんどの人とは一期一会だが、縁をきっかけにしてぼくの小さなテーマを何かの足しにしてもらえるのはありがたい。書き綴る内容は「思いつき」がほとんどだ。それでも、行き当たりばったりではない。思いついて考えたことをノートに書いているから、ほんのわずかな時間でも熟成はさせている。その日のことを取り上げても、紙のノート経由でこのオカノノートに至っている。

気まぐれに過去のノートをペラペラとめくる。現在取り組んでいる研修や私塾での話のネタ探しである。自分が書いたノートだから、詳細はともかく、ほとんど覚えている。なにしろ短時間でも熟成させてから読み直しているからだ。しかし、思いついてすぐに書きとめ、そのままにしておいて一年でも過ぎてしまうと、「こんなことを書いたかな?」という事態が発生する。一年という熟成期間のうちに、味がまったく変わってしまっている場合もある。


ほとんど記憶外であったが、昨年の85日に「みんなの党」について書いている(この日付の以前にも「みんな」という党名について難癖をつけたのだが、いつ頃どのノートに書いたのかはわからない)。今般の参院選挙で大躍進した党だ、その党についての何をメモしていたのだろうかと少々わくわくしながら読んでみた。次のように書いてある(原文のまま)。

みんなの党。政党にこのネーミングがありえるのだから、何にでも「みんな」を付ければいい。みんなの会社(という社名)、みんなの広場(という広場の名称)、みんなの電車(という各駅停車)……。「みんなのみんな」などは哲学的な響きさえする。最大多数の最大幸福? 一人残らず「みんな」? 万人を前提にしているからと言って正解でもないだろう。マーケティングでは不特定多数を対象にする戦略はだいたい失敗に終わる。しかし、もしかすると、ぼんやりとした、サークル活動のようなこの名称によって、民主や自民のいずれにもない、「何となく感が漂う不思議な魅力」を無党派層にアピールすることになるかもしれない。ことばは力である。サークルの名称のようだからこそ、大それた動機でなくても集まりやすいということがありうる。

先日の結果はこの通りとなった。別に己の洞察力を自慢しているわけではない。この程度の推論なら、昨今のリーダーシップ不在、信の不在を凝視したら、容易に導くことはできるだろう。そして、おもしろいことに、比例代表に関しては、有権者はみんなの党の候補者みんなに投じたのである。なんと個人名得票の10倍もの政党名得票を達成したのだ。これは、ほとんど共産党の比率に等しい。これが何を意味するか、今日のところはアナロジーを急ぐことはないだろう。

政党名を書くのと個人名を書くのは、同じ党を支持するにしても、有権者の動機なり党主導の戦略なりは異なっている。民主党は政党名が個人名の3倍強、自民党もほぼ3倍。ところが公明党は政党名得票が個人名得票を下回っている。有権者の裁量任せならこうはならないから、党戦略が支持者に広く浸透した結果に違いない。

政治の話がテーマではなかった。一年の熟成期間を経たノートの話である。A地点とB地点に立てば異なった眺望が得られる。情報Aと情報Bを同時に見れば何らかの複合価値に気づくかもしれない。同じテーマでも時期Aと時期Bのような時間差があれば、少しでも線的思考が可能になる。やっぱり書いたノートは読み返さなくてはならない。それは記憶の底に沈殿してしまった気づきや考えを攪拌することでもある。

続きが思い出せない

自分からぷつんと集中の糸を切ってしまうこともある。集中には危なっかしいところがあるので、自動停止して浄化するようになっているような気がする。たとえば、これ以上集中的に考えるとちっぽけな頭がもたないような時、無意識のうちに集中をやめてしまうのだろう。オーバーヒートに対する自己冷却機能みたいなものだろうか。

しかし、経験を積んで集中力に筋金が入ってくると、集中の糸も丈夫になり、危険域までの緩衝ゾーンが広くなってくる。つまり、集中力が強く深く続くようになる。裏返せば、集中を浅い段階でしょっちゅう途切れさせていると、弱々しくて甘くなってくるわけだ。休めすぎてはいけないのである。小中学校の時間割の一時限は45分だが、これに慣れてしまうと「45分脳」になる。実社会の仕事や生活はもっと長時間の集中を求めるので、一時間にも満たない集中脳ではなかなかやっていけない。

さて、集中が途切れるのは、自発的沈静作用だけによらない。おおむね電話と他人が土足で入ってきて、せっかくの集中時間を遠慮なく踏みにじってくれる。電話は遠隔の人と交信する装置でもあるが、人の都合を推し量ることなく、ふいに邪魔をしてくる機械でもある。さらに厄介なのが、同じ職場で働く上司、同僚、部下たちだろう。二人三脚やチームワークを組む一方で、彼らはお互いの集中を乱し足を引っ張り合う。


ノートに書きかけのページがある。「歩くこと(1)」という見出しをつけて、途中まで書いてある。そして、この途中までしか書いていないメモを元にして散歩に関するブログもすでに書いている。しかし、そのブログのタイトルにはノートのような(1)なる番号は付いていない。実は、ぼくが集中してノートを書いている時に邪魔が入ったのである。その時、間違いなくぼくは「シリーズ発想」していた。そうでなければ、何の根拠もなく(1)などとは書かない。きっと(2)も(3)も(4)も構想したうえで書き始めたのだ。しかし、さっぱり思い起こせないのである。途切れた集中の損失は大きい。しかも、誰もその損失を補填してくれはしない。

ところで、なぜ(2)も(3)も(4)もと言い切れるのか。ぼくの性格からすると、2回に分けて書くときには(上) (下)、3回なら(上) (中) (下)とするからである。(1)としたからには、おそらく4回以上あれこれと考えていたに違いないのである。いや、ちょっと待てよ。そこまでの確証がほんとにあるのか。上下の2回だと分かっていても、敢えて「○○○」と「続○○○」ということもあるではないか。あるいは、「歩くこと」なら複数ページにわたって書けると目算して、たまたま(1)と書いただけではないのか。

こんなことを思っているうちに、ふと團伊玖磨の有名なエッセイの題名を思い出した。第1巻から第27巻までは次のように命名されている。

パイプのけむり、続パイプのけむり、続々パイプのけむり、又パイプのけむり、又々パイプのけむり、まだパイプのけむり、まだまだパイプのけむり、も一つパイプのけむり、なおパイプのけむり、なおなおパイプのけむり、重ねてパイプのけむり、重ね重ねパイプのけむり、なおかつパイプのけむり、またしてもパイプのけむり、さてパイプのけむり、さてさてパイプのけむり、ひねもすパイプのけむり、よもすがらパイプのけむり、明けてもパイプのけむり、暮れてもパイプのけむり、晴れてもパイプのけむり、降ってもパイプのけむり、さわやかパイプのけむり、じわじわパイプのけむり、どっこいパイプのけむり、しっとりパイプのけむり、さよならパイプのけむり。

最後の巻『さよならパイプのけむり』が発行されて数ヵ月後に著者は没した。「さよなら」に意味があったのか、単に筆を置こうとした偶然なのかわからない。ちなみにぼくは最初の2巻だけ読んだ記憶がある。タイトルの付け方に行き当たりばったりもあっただろうし、次も考えたうえでのたくらみもあっただろう。本文を読まずとも、題名だけでいろんな想像が掻き立てられて愉快である。

意識という志向性

久しぶりにここ一ヵ月のノートを繰ってみた。〈意識〉という概念でくくれそうな話題やことばをいくつか書き綴っているので紹介しておこう。


無から何かを推理・推論することはできない。「何もないこと」を想像しようとしても、気がつけば何事かについて考えている。情報が多いから多様な推理・推論の道筋が生まれるとはかぎらない。また、情報が少ないからという理由で推理・推論がまったく立たないわけでもない。「船頭多くして船山に登る」という譬えの一方で、一人の船頭がすいすいと船を御していくことだってある。情報過多であろうと情報不足であろうと、意識が推理・推論に向いていなければ話にならない。意識がどこに向いているか――それを意識の志向性と言う。現象学の重要な概念の一つだ。


悩んでいる人がいる。「意識は強く持っているつもりなのだが、なかなか行動につながらない」としんみりとつぶやく。「フロイト流の無意識に対する意識じゃダメなんだろうね」とぼく。「と言うと?」と尋ねるから、こう言った、「フッサール流の意識でないといけない」。「つまり、〈~についての意識〉。日本語を英語に翻訳する時、意識ということばは悩ましいんだ。ぼくたちは意識に志向性を表現しない傾向があるけれど、英語では“be conscious ofとなって、『~について意識する』としなければ成り立たない。この”~”の部分が希薄であったり欠落してしまうから、意識が意識だけで終わってしまう」。

そして、こう締めくくった――「意識と行動をワンセットで使ってあっけらかんとしているけれど、実は、意識と行動の間には何光年もの距離がある。いまぼくたちが行動側で見ているのは、何年も何十年も前に意識側を出発した光かもしれない。茫洋とした意識が行動の形を取るには歳月を要するんだ。しかし、行動についての意識をたくましくすれば、時間を大いに短縮できると思う」。


フランスの思想家ローラン・ジューベールに次のようなことばがある。

まとは必ずしも命中させるために立てるのではなく、目印の役にも立つ。」

的を理想や理念に置き換えればいい。理想や理念を掲げるのは必ずしも実現するためだけではない。「日本一の何々」や「金メダル」を目標にしても、現在の力量からすれば天文学的な確率であることがほとんどだ。だからと言って、理想を膨らませ理念を崇高にすることが無意義ではあるまい。理想や理念は意識が向かう目印になってくれる。意識の志向性を失わないためにも対象は見えるほうがいい。


バンクーバー五輪で日本人選手が凡ミスを犯した。戦う前に失格である。体重が重いほど加速がつくリュージュの競技では、体重の軽い選手に10キログラムのおもりを装着することが許されている。ところが、その女子の選手は計量で200グラム超過してしまって失格となった。また、スケルトンの競技では、国際連盟が認定するそりの刃に正規のステッカーを貼り忘れるミスがあり、この女子選手も競技に参加できなかった。

日本を代表する選手クラスである。国際試合経験豊富な役員やコーチもついている。当然ながら一流選手の意識が強く備わっていたに違いない。しかしだ、対象への志向性がない意識はリスクマネジメントにつながらない。ここで言う意識の志向性は、具体的な体重管理とステッカー貼付に向けられねばならなかった。

あなたの「やらねばならない」という意識、「さあ、頑張ろう」という意識、きちんと「何か」に向けられているだろうか。先週のぼくの意識は空回りだった。仕事の、やるべき作業対象があまりにも漠然としていたからである

いろいろあります、年賀状

自宅と事務所合わせて四百枚ほどの年賀状をいただく。ぼくも同数近く書いて投函しているつもりだが、一昨年から宛名書きをラベルに変更したので、更新漏れや出し忘れ、重複差し出しが発生しているかもしれない。宛名を手書きでしたためていれば、どなたに出したかを覚えているものである。

日本郵便のくじは毎年切手セットが1015セットくらい当たる。これとは別に「独自のお年玉くじ制度」を採用している知人が数名いて、年初にホームページで当選番号を発表しているらしい。「らしい」と書いたのは、これまで一度も当たっているかどうかを確かめたことがないからだ。今年の分はチェックしてみようと思っている。

正月早々、塾生の一人がぼくの年賀状をブログで取り上げていた。一言一句引用したわけではなく、テーマの紹介だ。しかし、ご苦労なことに、彼はその年賀状についてあれこれと考えを巡らして、なんと数時間ほど付き合ってくれたというのである。ありがたいことだ。彼のような一種マニアックな性格の持主がいるからこそ、ぼくのしたためるマニアックな賀状も意味をもつ。なお、すべてのいただいた年賀状は、たとえ無味乾燥で無個性な文面であっても、ぼくはしっかりと読むようにしている。自分の長文の年賀状をお読みいただく労力に比べれば、一、二行の紋切り型の挨拶文など楽勝である。

☆     ☆     ☆

15日現在、いいことが書いてある年賀状が10枚ほどあった。昨年に続いて、まったく同じ年賀状を二枚くれた人が二人いる。この二人は昨年も同様に二枚ずつ送ってくれた。プリンターで出力されたもので、手書きの文章は一行も書かれていない。リストの宛名重複だけの話なのだろうが、ぼくが指摘してあげないかぎり来年も繰り返されるだろう。おそらく誰かにすべて任せているのに違いない。

ありきたりではない文章の傑作が一枚。十行分ほどと思われる前半の文章が印字されていないのである。紙面の右半分が完全に白紙で、印字されている文章とのつながりがまったくわからない。一文が長いので類推すらできない。文章は短文で書けというのは、こういう事態に備えてのセオリーだったのか。ぼくだけに生じたプリンターのトラブルであることを切に祈る。

もう一つの傑作は、前代未聞の裏面白紙の年賀状。年賀はがきを使っているから年賀状に違いない。おそらく謹賀新年、あけましておめでとうございます、賀正などのいずれかで始まり、プラスアルファが書かれているのだろう。なにしろ白紙だから手掛かりの一つもない。これはちょっと恥ずかしい話ではないのか。いったい誰? と思って表面を見れば、差出人の住所・氏名がない。つまり、この年賀状でたしかなことは、誰かがぼくに出したという事実だけである。もちろん、誰かわからないから恥じることもない。仮に本人がこのブログの読者であっても、「バカなやつだなあ~」とはつぶやくだろうが、まさかそれが自分のことだとは思うまい。

その揚げ足、取ります

先々月に別役実の『当世 悪魔の辞典』を紹介した。同じ著者が『ことわざ悪魔の辞典』も書いている劇作家別役実の脚本はほとんど知らないが、エッセイ風小説あるいは小説的エッセイはよく読んでいる。「ことわざ版」に【あげあしをとる】という項目があり、次のように解説されている。

ひょいと持ち上げた足をつかまえてしまうと、一本足では安定を欠くから、必然的によろめくことになるというわけだが、相撲取りに言わせると、「どうしてその挙げてない方の足をとらないのか」ということになる。その方が、よろめかすだけでなく、もっとダイナミックに、ひっくりかえすことが出来るというわけだ。こういうことはやはり、専門家に聞いてみないといけない。今後は、「据え足をとる」と言うべきであろう。

この説によれば、ぼくが他人の揚げ足を取って議論でやりこめたりするのは良心的ということになる。相手が揚げた足を取るだけで、据えているほうの足にはまったく触れないのだから。そう、転ばすつもりなど毛頭ないのである。

最近取ってあげた揚げ足がこれだ。「こちらの役所では定額給付金を日本で初めて支給しました」。「日本で」を「国内で」としているテレビ局もあった。いずれも揚げ足を取られてもしかたのない表現だ。なんだか「有史以来わが国初」と響いてくるではないか。あるいは、「その役所が日本以外ではすでに給付していた」というニュアンスもこもっている。これじゃダメ、ここは「こちらの役所では他府県に(他市町村に)先駆けて定額給付金を支給しました」と言うべきところである。


なお、別役実には隠れた読者か、隠れざるをえない読者か、隠れたくて隠れているわけではない読者がいるようである。ぼくの知り合いに熱烈なファンが一人いた。その人はぼくに『道具づくし』という本をくれた。もう一人、ぼくが貸してあげた『日々の暮し方』にいきなり嵌まってしまって、大ファンになった人がいた。両人ともに「いた」と過去形にしたのは、消息不明で十数年会っていないから。後者の本は「正しい退屈の仕方」に始まり、「正しい風邪のひき方」「正しい黙り方」「正しい禿げ方」「正しい小指の曲げ方」などの傑作な作法が紹介され、最後が「正しい『あとがき』の書き方」で終わる。

ぼくに『道具づくし』をくれた彼が言ったことがある。「別役実の本をある人に貸してあげたんですよ。何日か後に会ったら、「いったいどういうつもりなんですか!? ふざけるのもいい加減にしてください!」と怒られました。岡野さんも誰かに別役実を貸すときはお気をつけて」。ぼくの場合、一人だけに貸して大受けした。ラッキーだったというほかない。

『日々の暮し方』の正真正銘のあとがきは次のように結ばれている。

ともかく、このようにして連載された原稿であっても、一冊にまとめてあらためて世に送り出した以上、私の責任の範囲からはずれたものと見なすべきであろう。著作というものはすべて、その著者の「息子のようなもの」とされている。そしてその「息子のようなもの」は、息子というものが常にそうであるように、独立するのである。従って、以後この著書に対する「苦情」「いちゃもん」「非難」「中傷」「嘲笑」の類いは、著者ではなく、むしろ著書自体が引き受けるべきものであると、私は考える。

ツケの大きい先送り

今夜、今から3時間後にマーケティングについて2時間弱の講演をおこなう。この内容についてすでに3週間前に資料を主催者側に送り、準備万端であった。ところが、講演で使用するパワーポイントを今朝チェックしていてふと思った――あまり早く準備するのも考えものだと。

全体の流れや構成はすべて頭に入っている(自作自演するのだから当たり前)。しかし、集中して編み出したアイデアやディテールについては、別にダメだなどとは思わないが、時間の経過にともなってピンと来ない箇所があったりする。「これ、何を言おうとしたのかなあ?」という戸惑いだ。それも無理はないと自己弁護しておく。話であれ書いたものであれ、話して書いた瞬間から賞味期限が迫り、やがて切れていくのだから。

しかし、効率という点からすれば、講演なら1週間くらい前に準備を終えておくのが、ちょうどいい加減なのかもしれない。そんなことを午前中につらつらと考えていた。


「先手必勝」や「善は急げ」や「機先を制する」などという言い伝えと同時に、「急がば回れ」や「いては事を仕損じる」などの価値が対立する諺や格言が存在する。いずれにも真理ありと先人は教え諭してきたのだろうが、凡人にとってはどちらかにして欲しいものである。つまり、急ぐのがいいのかゆっくりがいいのか、あるいは、早めがいいのか遅めがいいのか、ズバッと結論を下してもらったほうがありがたい。すべての諺を集大成すると、堂々たる「優柔不断集」になってしまう。

だが、ぼくは自分なりに決めている。自分一人ならゆっくり、他人がからむならお急ぎである。講演は他人がからむ、資料は他人に配付する。だから早めに準備しておくのが正しい。二度手間になってもかまわない。できる時に早めにしておくのがいい。善は急げとばかりに、さっき1ヵ月後の研修レジュメをすでに書き上げスタンバイさせた。


膨大な企画書を何10部もコピーしてプレゼンテーションしなければならない。そんな企画書が提案当日の午前にやっと出来上がる。プレゼンテーションはお昼一番だ。一台しかない複写機がフル稼働する。ランチをパスしてホッチキス留めして一目散に得意先に向かう。何とか30分後に到着し、無事に会合に間に合った。しかし……

企画書を手にした部長が一言。「この企画書、まだ温かいね」。そう、鋭くも的確な皮肉である。「この企画はたぶん熟成していない。したがって、検証不十分のまま編集されたのだろう」と暗に示唆するコメントであった。ご名答! である。ぼくの体験ではない。若い頃に目撃した、ウソのようなホントの一件である(実際にコピー用紙は温かかったのだ)。仕事の先送りは、熟成を遅らせることになり、ひいては検証不能状態を招きかねない。

グズだから怠け者だから先送りするのだろう。しかし、生真面目な人間であっても、ついつい先送りを容認して習慣化していくと、グズになり怠け者になっていく。ぼくは、その両方のパターンを知っている。その二人とも働き盛りなのに、ツケの返済に日々追われて創造的な先手必勝の仕事に手が届かず、日々苦しんでいる。 

ノルマという強迫観念と習慣形成

親愛なる読者の皆さん、どうか透明な心でお読みいただきたい。ぼくにはまったく悪意などないし、誰か特定の方々に向けて嫌味を言うのではない。ブログでは当たり前のことだが、もし気に入らないくだりに差しかかったら即刻退出していただいて結構である。今日のテーマは、ブログに関する「観念と習慣」の話。

気が向いたら毎日、そうでないと一ヵ月も二ヵ月も空くブログ。こんな気まぐれと付き合う気はしない。規則正しい頻度なら週刊でもいいが、月刊は間が長すぎる。「待ちに待った」というほど読者は期待していないだろう。

この〈Okano Note/オカノノート〉は、自分なりにはリズムはあるものの、不定期更新である。しかし、月平均20日くらい更新しているので週に5日の頻度で記事を書き公開し、一ヵ月のうち60から80パーセント「埋めている」ことになる。書くテーマがあっても書く時間がないときがあるし、時間がたっぷりあってもテーマがさっぱり浮かんでこないこともある。もちろん、テーマ・時間ともに豊富であっても「その気」にならないこともある。ぼくに関して言えば、テーマも時間もないのに自分だけが「その気」になって書くことはない。


「毎日ブログを書く」にもいろいろある。数日間更新しなかったが、後日まとめて記事を書いて抜けた日々を埋めていくやり方―この場合、更新されたその日の分はしっかり読んでもらえるかもしれないが、その二日、三日前のはざっとしか目を通してもらえない可能性が高い。毎日日付が入っているという意味では「日々更新」というノルマは達成されてはいるが、意地と強迫観念が見え隠れする。

毎日一つの記事を更新する――これが純正の「日々更新」なのだろう。強迫観念だけではやり遂げられるものではない。もはや朝の歯磨きに近いほど習慣が完璧に形成されていないとできない。ある意味で、歯磨き以上の習慣力が必要だ。なぜなら歯磨きは3分間で済むし、毎日異なったテーマを求めてこない。ブログのエネルギーは歯磨きの比ではない。

数日間空いたのを後日穴埋めすることもなく、毎日更新する――それは感嘆に値する習慣形成である(たとえば、テレビでお馴染みの脳科学者・茂木健一郎のブログ「クオリア日記」がそれだ)。


昨年6月からブログを始めたが、ノルマを公表しなくてよかったとつくづく思う。ぼくは三日坊主の性分ではないが、毎日と決めるとアマノジャク的に嫌になってしまう。「気の向いたときに書いてみよう」という軽い動機くらいのとき、ぼくは結構マメにこなす。さほど暇人でもなく出張が多い身で、週45回更新していたら一応合格ではないかと思っている。

ここで話を終えてしまうと、「なんだ、やっぱり毎日更新しているオレに対する嫌味じゃないか!?」と思われてしまう。そうではない。ブログは一種の観念であり習慣であり、場合によっては意地であり修行である。そんなブログを毎日更新している方々に敬意を表しておきたい。マラソンにたとえると、ぼくの前を走るペースメーカーのようだ。背中を見ていると何とかついていけそうな気がする。しかも、強迫観念の風はぼくには当たらないのが何よりである。 

もしかして自分のことではないか?

小さな日々の観察なら披露することもある。けれども、自分の身の上話について大仰な表現を蕩尽して語ることを好まない。わざわざ自分自身を題材にしなくても、綴るに値する知り合いには困らない。昨日のブログも知人ネタであった。言うまでもなく、このブログを読んでいる大半の方々は知人である。ぼくと面識のない人を「ぼくの知り合いで……」という書き出しによってネタにすることはありえない。未だ見ぬ人は不特定多数の一人として別のテーマの対象になる。

ある知人は「ぼくの知り合いで……」というくだりを読むときに、「もしかして自分のことではないだろうか?」とちらっと思うらしい。不安げにそう思うらしいのである。なぜ不安になるかと言えば、ぼくが知人の話を持ち出すときは、たいてい批判的論調で退治するからだ。「世の中には変な人がいるものだ。ぼくの友人に……」と書けば、その標的が本ブログの記事を読んでいる確率は高いかもしれない。しかも、ぼくが友人と呼べる人間はきわめて少ないので、登場人物を「知人という匿名」で紹介しても、思い当たる本人にとっては種明かしされたも同然である。

なお、昨日のブログで登場した知り合いはオカノノートを読んでいないと確信する。したがって、昨日、「もしかして自分のこと?」と思われた方は心配には及ばない。ブログを読んだ時点で「その知り合い」ではないからだ。但し、一瞬でも「自分?」とよぎったのであれば、その知り合いと同質的な性格の持ち主であるかもしれず、かつ迎合術なるものを時々使っている可能性が高い。


貶してやろうという悪意は毛頭ない。知り合い相手だからこそ、ちょっぴり毒気があってもいいだろうという思惑がある。完膚なきまでに罵倒したいなら、公開などしないだろう。そんな冒険をしなくても、口の堅い連中にメシでもおごって言いたい放題すればいい。何よりも、そこまでやり込めたい人間を題材にすることもない。ちょっと変だがエピソードとしておもしろいから取り上げるわけだ。愛らしさもなく憎さだけがつのる知り合いでは主役がつとまらない。

 かつて悪口や陰口は誰からともなく噂として聞こえてきた。「ここだけの話」という断りは、「自己責任で誰かに言ってもよい」という許可でもあった。「絶対に言うな」と口封じをすれば、必ず誰かが誰かにヒソヒソ話を暴いてくれたものである。だが、情報化社会とは程遠かった時代、口述で聞こえてくる情報などたかが知れていた。聞いた悪口の何十倍も実際は語られていたに違いない。

さて、今日のこの記事は、実はブログ論でもあった。オカノノートは店にたとえれば閑古鳥が鳴くようなブログページだ。それでも、あれやこれやの情報を集約していくと、人名こそ特定できないが、ある程度まで読者層を想定できるものである。ぼくの知り合いと読者が大部分重なっていることも想像できる。リレーのように複数の人物が介在しなければ、噂は当の本人まで伝播しない。だが、ブログ上では、読むはずがないだろうと思う知り合いが「クリック一回分の隣」にいる。ご無沙汰していて遠方に住む知人だと思っていても、ある日突然、共時的な近しい知人になっているかもしれないのだ。

顔――この神妙なる正面

「立てたと思えば潰したり、曇らせたり、赤くしたり、出したり、合わせたりつないだりするものなあ~に」となぞかけされると、意外に難しい。顔は面目であり、表情であり、怒りや恥じらいであり、自分自身であり、関係であったりもする。

解剖学的に言えば、顔は頭部の一部である。後頭部が背面で顔が正面ということになっている。後頭部ということばはよく使う。しかし、用語が存在するにもかかわらず、あまり「前頭部」とは言わない。「きみ、もう四十歳になったのだから、自分の前頭部に責任を持ちなさい」などと部下を説教することはない。わたしたちは、それを顔と呼んでいる。

顔。額と眉と目と鼻と口が存在している側である。顔は名刺代わりにもなり、それゆえに責任を持たねばならないのだろうが、後頭部は名刺代わりにはならないし責任も持ちにくい。顔には複数の部品とやや複雑な起伏もある。それらが千変万化のバリエーションを演出し、人物を認識する際に後頭部よりも多くの材料を提供してくれるのだ。

慣れ親しんだ人物ならば、後姿を見るだけで特定することも可能だろう。場合によっては、後頭部の形状と髪の刈り込み方やスタイルを見て、「よっ、〇〇さん!」と肩を叩くこともできる。もちろん時たま人違いなんていうこともあるが、相当に親しいからこそ「よっ」と声に出して肩に触ろうとするのだ。自信の裏打ちがあるはず。それでもなお、顔に比べれば後頭部の情報は圧倒的に少ない。

☆     ☆     ☆

したがって、後頭部ではなく、人物の正面、つまり顔を自動販売機に認証させようとしたのは正しい試みである。どんなに立派なセンサー機能をもつ自販機であっても、後頭部から年齢を認証せよと命じられても、いかんともしがたいだろう。後頭部なら、とりあえずカツラでしのげそうだし、人毛のカツラであれば自販機は見破れないだろう。

もしわずかのズレやムレ具合を感知させようとしたら、莫大な開発費がかかってしまう。いや、それがカツラであることがわかったとしても、年齢認証にはつながらない。二十歳以上のれっきとしたオトナのカツラを見破って「あ・な・た・は・カ・ツ・ラ・で・す」とか「バ・レ・バ・レ・で・す」などと音声合成で告げてもお客を怒らせるだけだ。それは、自販機に課せられた顔認証の仕事ではない。自販機の仕事は、二十歳のラインの上下を見極めることなのだ。

繰り返すが、人間も自販機も人物を顔によって認識するのが正しい。しかし、丸刈りの六十歳の男性は「二十歳未満」と認識されたためタバコを買えなかった。その自販機には「丸刈りイコール中高生」という偏見がプログラムされていたのだろうか。他方、高校生が顔をしかめるようにクシャクシャにしたら、オトナと認識されてタバコが買えた。自販機は皺だらけの高齢者と丸刈りの青少年だけしか認識できないのではないかと疑ってしまう。

オトナと子どもに年齢差があるのは当たり前だ。しかし、顔というものは年齢に必ずしも比例しない。老けた十代もいるし、童顔の二十代もいれば、若さを自慢する三十代もいる。しかしだ、二十歳以上と二十歳未満の認識は人間にも機械にも無理だろう。

街角で時々見かけるが、自販機の前ですまし顔をしているのは滑稽である。まるで自販機におべっかを使っているみたいではないか。顔というものは、自販機に正しく認証されるために首の上で正面を向いているのではない。この顔、決して威張れるほどではないにせよ、機械なんぞに認められてたまるか! そんな自尊心だけは持ち続けたい。自販機の失態事例を聞くにつけ、神妙にして不思議なる顔への関心が強まる。