シェアは功罪相半ばする

「シェア」について考えてみた。

SNSを使えば、自分や他人が別のメディアで投稿した記事や写真をそのまま・・・・シェアすることができる。ぼくは、自分が書いているこのブログの記事をFacebookでシェアしている。ここにアクセスしなくても、読みたい人は自分が慣れた「場」に居ながらにして記事が読める。発信者にも受信者にもメリットがある。

シェアするに値する情報とそうでない情報がある。誰が見ても常識的で共感しやすい記事がよくシェアされる。逆に、批判したり反論したりするために記事を自分の場に転載する場合もある。シェアする人がシェアに値すると考えた意味や何がしかのコメントを入れるのが望ましいが、ほとんどの場合、転載だけして知らん顔、何かあっても責任を負わない人だらけだ。

おそらく価値ある情報だと判断するからシェアするのだろう。他人にも知らせたいという動機、お節介、親切心によってシェアが成り立っている。しかし、共感したので適当にシェアしただけという説明で済む話ではない。出所を示さず、自分の所見も明かさずにコピペだけしていては「剽窃ひょうせつ」と寸分変わらない。

「料理(やケーキ)をシェアして食べる」などの用例では、シェアは「分配」という意味になる。厳密に言えば、食べ物を不公平がないように均等に分配するのは難しい。小うるさいのがいれば「そっちの方が大きいぞ」と言い出しかねない。そうならないように、ケーキなどは、たとえば3切れにカットした者があとの二人に選ばせて平等を期すやり方が生まれた。みんなが「どうぞどうぞ」と相手に勧めていれば良好なシェア関係が保てる。

空間もシェアできるからシェアハウスが生まれたし、ルームをシェアするという言い方をするようになった。この場合は「共有」という意味になる。しかし、食べ物と違って、施設や道具が絡んでくると、単純に面積を等分するだけでは済まなくなる。さらに、金額、時間、役割などの基準が入ってくると、相互理解や協調が求められるようになる。共有は一筋縄ではいかないので、いちいち面倒な取り決めを余儀なくされる。

なお、シェアにはもう一つ別の意味がある。マーケットシェアという時のシェアがそれ。すなわち、市場占有・・率である。共有と占有はまったく別物なのだが、一つ間違うと共有のつもりが占有になってしまう。みんなで仲良く公園で遊ぼうね、と言い合ったはずなのに、ブランコをなかなか替わってくれない子が出てくるのだ。

サインプレートの”NO!”

オフィス近くのシーン。公道とマンションの境界をマンション側の敷地内に少し入ったところにサインプレートがある。言うまでもなく、散歩する犬に向けたものではなく、犬を散歩させる飼主に「ここで犬にトイレをさせるな」と注意を促している図である。

手作りだと思っていたが、ネットで売られていた。「ステーク付きの庭のサイン」という商品。ステークだから、地面に杭か支柱を打ち込んであるタイプ。キャッチコピーは「犬があなたの芝生の上でウンチやオシッコをするのを止めます」。犬が自発的に「止める」わけがないから、正しくは犬に「止めさせる」。

犬が今まさにウンチかオシッコをしようとしている瞬間がリアルだ。そこにNOの文字。しかも犬の背中にである。ところで、Noは質問や依頼に対しての否定の返事で、一般的には「いいえ」を意味する。しかし、NOと感嘆符を付けると強い主張が込められる。「絶対ダメ!」と言っているのである。

単発で発するNOには、場面に応じて「まさか!」とか「なんてこった!」などのニュアンスが出る。「まさか、こんな所でもよおすとは……ああ、なんてこった!」と、NOを背負った犬自身の思い? ダメだとわかっていても、つい習性が出てしまった? と読めなくはないが、考えすぎだろう。反対側にはNOの文字はない。つまり、公道側からやってくるよそ者の飼主へのメッセージなのだ。

ところで、ネットの商品説明の続きを読んでみた。「庭や庭で・・・・広く使用されています」(傍点ママ)とか「頑丈な・・・鋳鉄製で、頑丈・・です」(傍点ママ)と念には念を入れて繰り返しているのは、かなり商品に自信があるからか。ぎこちない日本語なので、どうやら日本製ではなさそうだ。「それは、犬と隣人がそのエリアが糞が禁止されているエリアであることを知るための微妙な方法を提供します」という一文で、中国製か近隣のアジアの国で作られたと確信した。

地面に立てられた小さなサインの類にはほとんど気づかずに通り過ぎる日々。NOという一言の小ネタで文章が書けた。サインプレートの効果のほどを知りたいが、誰に聞けばいいのか。

10日間の習慣見直し実験

去る85日にブログを書いて以来、今日までの10日間PCに触れなかった。盆休みを挟むこともあって急ぎの仕事がなく、PC作業が不要不急だったからだ。そうだ、ついでにスマホとも距離を置いてみよう、と思った。1990年代前半まで当たり前だった日常のスタイルが復活した。

現代人はスマホに触れないと手持ちぶさたになる。それが証拠にメトロの車内では乗客の8割がスマホを操っている。「要」にして「急」な様子も雰囲気もうかがえない。暇を持て余すのは、何かすべきことが決まっていないからである。暇とは「しなければならないことがない状態」にほかならない。

3日に一度iPadでメールだけチェックしたが、すべて不要不急。このように脱デジタルすると、必然SNS上の親しい人たちの投稿もチェックしない。ほとんどの情報は不要不急の類ということになるが、不要不急が悪いわけではない。触れなくても困らないというだけのことだ。ともあれ、メールもSNSも一切受発信せずに今日に至り、いま11日ぶりにブログを書いている。


数年前に比べてSNS上では発信機会に比べて受信機会が減っているような気がする。つまり、投稿はするが他人のはあまり読まない。マメにコメントしていたが、今は義理の「いいね」で済ます向きが増えている。外部と情報が隔絶されても困ることがほとんどなく、要にして急なことはテレビで間に合う。テレビはスマホの小さな画面よりはよほど見やすい。

暇にあかしてスマホをいじるよりも、かけがえのない時間の過ごし方があるのではないか。見ようと思わないのについ見てしまうスマホの電源をしばしオフにして、読もうと思いながら読めていない本を読むことにした。何冊も読んでいると、いま考えていることと呼応する一節に出合うものである。たとえば次の一冊。

(……)彼はたまたま自分の内部に溜まった一連の決まり文句、偏見、観念の切れっ端、あるいは意味のない語彙を後生大事に神棚に祀ったあと、天真爛漫としか説明しようのない大胆さをもってそれらを相手かまわず押しつけている。(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

90年も前に書かれた文章である。現在のSNS上の現象を言い当てているかのよう。同一の投稿者がよく似た投稿を繰り返す。そのことの好き嫌いや是非は人それぞれだが、スマホを触ると目に入ってくる。日記もそうだが、毎日書いているとよく似たことばかり書くようになる。マンネリズムは必ずしも忌むべきものではないが、マンネリズムというものは、自分よりも他人の方が先に感知する。

SNS同様、このブログもそうだが、この先も生き残らせて日々の楽しみや慰みとするためには、あの手この手を繰り出すしかなさそうだ。ちょっとした習慣見直し実験をしたわけだが、いろいろと気づかされた10日間だった。

見極めの作法

行政の事業やイベントの審査をこの10手伝ってきた。毎年4つか5つの案件を見てきたので、かなりの数になる。コンペやプロポーザル方式で専門事業者の企画提案内容を評価し、複数の審査員で審議して最優秀事業者を選ぶ。審査員は3人~5人。数社がエントリーしてくるので、満場一致で決まることはめったにない。

審査と言えば、ディベート大会には40年以上関わってきた。練習も含めると、たぶん千に近い試合を審査してきたはず。ディベート審査では、3名、5名、7名など、奇数の審査員が一人1票を肯定側か否定側に投じる(引き分け判定はない)。拮抗しても必ずどちらかの票が他方を上回る。

行政の選定会議は投票方式ではなく、個々の事業者を採点して審査員の点数を合計する。合計点の多い事業者が最優秀になる。たとえば、事業者A社、B社、C社を4人の審査員が審査。3人の審査員の採点でA社が1位になったとしても、残る一人の審査員が大差の点数でC社をトップ評価したら、合計点でC社がA社を上回ることがある。実際、そんなことが二度あった。最高点と最低点をつけた審査員の点数を除く「上下カット方式」がフェアだが、あまり採用されない。


最初の事業者のプレゼンテーションはその内容だけを絶対評価する(フィギュアスケートやアーティスティックスイミングの最初の競技者に対する採点と同じ)。しかし、二番目以降は、たとえ絶対評価のつもりで採点しても、先に終えたプレゼンテーションと比較しながらの評価にならざるをえない。天秤にかけながら優劣判断をすることになる。

ある一つの物事だけが対象なら、その物事の本質や出来栄えなどを評価して最終的に「イエスかノー」の判定を下す。他方、二つの物事の評価となると必然的に比較をして優劣を決めることになる。こう書けば簡単そうに見えるが、優劣の判断には感覚や経験が含まれる。また、「鼎立ていりつ」という、三者対立などもあって評価は一筋縄ではいかない。

事業者選定や議論の勝敗に関わる審査は、利害関係を抜きにしたロールプレイ的ミッションである。しかし、仕事や生活上の人柄と所業の見極めや大小様々な意思決定は生身の自分事だ。得失を優先するあまり善悪を棚上げする者がいるし、「美しいと思うから美しいのだ」と短絡的な論法で決めつける者もいる。何を根底に置いて評価すればいいのか、見極めの作法は定まりにくい。しかし、少なくとも、得失の判断を真偽・善悪・幸不幸の見極めよりも優先させてはいけない。自然界に得失はない。得失は人の邪心にほかならないのである。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

今時の距離感覚

〈距離〉ということばは、実は思っているほどやさしくはない。小学6年の算数の授業で時間と距離の問題が出てくる。しかし、距離ということばを学ぶのは中学になってから。だから、小学校では距離の代わりに「道のり」が使われる。距離は長さを表すが、道のりは長さとともに時間も意識される。

距離の「距」の意味は「へだたる」。X地点とY地点の隔たりを長さで表わしたもの。二つの地点間に使われる距離は、対人関係――たとえばA君とBさんの隔たりの程度――にも使われる。A君とBさんは仲が良い、さほど親しくない、面識がない、等々。親密度という距離である。

対人または対外関係における距離について、新明解国語辞典は「ある程度以上には親密な関係になるのを拒んで、意図的に設ける隔たり」と説明している。この語釈によれば、人がらみの距離には「親密になり過ぎないように配慮する」という意味があらかじめ備わっていることになる。


当世、老いも若きもすっかりソーシャルディスタンスの制約を受けることになった。場に応じたしかるべき距離を守っているうちに、日常の磁場が異様に動き、場所感覚が落ち着かなくなった。それまで複数あったはずの居場所の数が減り、行動空間がどんどん縮んできているように感じる。

ぼくの仕事部屋の隣りには読書室を設けていて、コーヒーを啜りながら好き勝手に本を読むことができた。勉強会をしたり頻繁に外部の人たちと雑談したりしていた。それが今はどうなったか。あまり使わなくなって読書室が遠ざかったのである。窓を開けて換気し、掃除して観葉植物の世話をするというルーティンは毎朝こなしているものの、その空間に入ると自分がよそ者になったような感覚に陥る。

いいことも悪いことも時間が忘れさせてくれるし、遠く離ればなれになっているとやがて疎遠にも慣れてくる。つまり、時間があいたり一定の距離を置いたりすると、よそよそしさが常態になるのである。コロナ時代の今、誰もがこれまで経験しなかったよそよそしい距離感に面食らっている。そして、いつかコロナが収まるその先では、生じてしまった隔たりをいかに埋めていくかという難問が待ち構えている。

並ぶ、待つ

大都会特有とは言わないが、「並び、待つ」という光景は大都会でよく見られる日常だ。人が大勢いて集合的なイベントが増えれば、並ぶ目的も待つ理由もTPOに応じておびただしく派生する。

人々は一定の秩序を保ちながら指定された場所に位置して並ぶ。並ぶという動作の内には整然とした配列が含まれている。いつまで並ぶかと言えば、順番が回ってきたり何かが現れたりするまでである。つまり、並んでいる間は待っているのである。待つとは時間を過ごすことで、時間を過ごせるのは予期することがあるからだ。

都会生活者としていろいろと便宜を享受している。そのためにはある程度忍耐が求められる。都会度が高くなるほど人々は並び、そして待たねばならないのである。手持ちぶさたの時間も長くなるが、昨今はスマホをいじって時間をやり過ごせばいいので、より長い時間待ちができる人たちが増えたに違いない。


オフィスから数分の所を東から西へ川が流れている。対岸に造幣局があり、全国的にも知られた「桜の通り抜け」というイベントが4月中旬の一週間開催される。写真は2017年に実施された時のもので、ここから造幣局の門までまだ500メートル以上あるのにこんな様子なのだ。人々は列を成して牛歩状態で少しずつ入場門へ向かう。

昨年も一昨年もコロナ禍で中止になった。このイベントに生きがいを見出している中高年たちは悔しがった。今年は3年ぶりに開催された。インターネットでの事前受付のみで、人数も大幅に制限して実施された。並びもせず待ちもせずの通り抜けに、逆にがっかりしたのではないか。

出張のたびに思うが、東京では人々は秩序正しく並び忍耐強く順番を待つ。福袋を求めるデパートの前で、ラーメン店の前で、通勤電車の前で。一極集中の東京では生きる上で並ばねばならず待たねばならない。都会であるから、当然大阪でも並び待つ場面は多い。しかし、東京を「メガ盛り」とすれば大阪は「大盛り」程度である。

中年男が愛人のアパートにやって来た。女性が言った、「ちょっと待ってね」。男は笑みを浮かべて言った、「待たせなければならない。しかし、待たせすぎてはいけない」。高校生の頃、テレビで観たくだらない外国映画だが、このワンシーンとセリフだけが記憶に残っている。

ほどよい時間なら並べるという、そんな待ちがいのあることが少なくなった。

簡単そうなのに、うまくいかない

おおってあるものを外し封や蓋を開けて中のものを取り出す。毎日とは言わないが、このように手先を使う場面は少なくない。外して開けて取り出すという一連の動きがスムーズに流れれば気分がいい。逆に、少しでも滞って所作がぎこちなくなるとイライラする。手先は器用なほうだと思うが、些事で時々不器用を演じてしまうことがある。


乾電池が4個または2個、フィルムでパックして売られている。単3電池の4個パックは両手で持って2個ずつ分離するように真ん中で折れば、フィルムが簡単に破れる。ところが、一回り小さい単4電池の、しかも2個パックになると、同じ要領で試みても1個ずつに分離しづらい。力が伝わりにくくフィルムがなかなか破れてくれないのだ。4電池の2個パックのフィルム破り、侮るべからず。爪を当てて切ろうとしてもうまく行かず、結局ハサミを持ち出してくることになる。

かけうどんをテイクアウトする。熱々のダシとうどんだから、オフィスに戻ると発泡スチロールの鉢にプラスチックの蓋がぴったり吸着している。蓋のツメをつまんで持ち上げても鉢もいっしょに付いてくる。不用意に力を入れ過ぎると蓋が思い切り開いて、熱いダシがこぼれ散り、「熱っ!」 年配のバイトのおばさんが手際よく蓋をしたのだから、理屈上はその逆の作業をすれば手際よく開けられるはずなのに。火傷を免れたとしても、うどんといっしょに敗北感も味わう。

古本屋で背表紙を眺め、題名がよさそうなら手に取ってみる。それが函入りの上製本だったりする。本をチェックすべく函から取り出す。たいてい函と本の間にはほどよい「遊び」があるので、背に近い溝をつかんで取り出すことができる。右手で函を持ち左手のてのひらにトントンと当てれば、たいていの本は滑り出してくる。
しかし、函の内寸と本がぴったり合っているものがある。
本が函にキレイに収まるという超絶技巧ゆえに、指先が背表紙のどこにもかからないのである。必死に取り出そうとトントンしてみてもびくともしない。見られたら怪しまれるほど、本との格闘がますます派手な動きになっていく。こんな本を買うと読む前から苦労する。そう自分に言い聞かせて元の本棚に戻す。

スーツが売れない

スーツが売れないのは男性どもがスーツを買わなくなったからである。スーツを買わなくなったのは、スーツを着る出番が以前に比べて激減したからだ。「夏物スーツ在庫一掃セール」とか「秋物ジャケット1万円より」とか「スーツ2着まとめ買いで40%オフ」とかのメルマガのキャッチコピーも店に足を運ぶ動機付けにならない。

これまでに56着買ったことのあるアウトレットのスーツ専門店、2年前に買ったのが最後になる。ランチ処が多く入るビルの一角にあるので、たまに冷やかすが、店長は普通の表情がすでに泣き顔である。何とか売上に貢献してあげたいが、要らないものは要らない。

およそ30にわたって、毎年スーツを34着オーダーしていたほどのヘビーユーザーだった。ここ数年、出張機会が激減し、スーツを着るほうがいいと判断する場面も数えるほどしかなくなった。加えて、異常な高温多湿でクールビズはすっかり浸透し、79月だった適用期間は半年以上に及ぶ。スーツを着なくなった。ぼくだけでなく、みんなが着なくなった。


一年を通じてスーツは苦戦している。とりわけ夏場の紳士服の不調は今に始まったわけではない。新型コロナ感染が収まらないから人流を減らせと言われれば無視するわけにはいかず、在宅テレワーク族が増えた。在宅、クールビズ、ハレの場に出掛けない……高級スーツが大幅値下げになっても着ることがなければ手を出さない。

スーツは“suit”から派生して、元は「合う」という意味なのに、夏に合わない、今の時代に合わない、フォーマル色が弱くなったTPOに合わない。

見ないのにテレビを買うことはない。テレビを買えばたいてい毎日見ることになる。他方、使わないのについ買ってしまうものがある。百円で手に入るようになった雑貨がそうだし、着もしないのについ衝動買いしてしまう洋服がそうだ。着る気満々で買ったスーツなのに、所有する10数着のうち常時着るものはたいてい23着だ。

スーツを買ったもののあまり着ない……たしかにそんな時代があったが、もはや過去の話。いまスーツを買うにあたっては合理性が働く。着ないなら買わないというまっとうな判断だ。買わない、すなわち売れない、ゆえに紳士服の店は軒並み大苦戦なのだが、諸々の逆風もさることながら、男性どもがスーツを厳しく合理的に評価するようになったのである。

店じまいの戦術と現実

靴下を買おうと、店じまいと貼り紙してある肌着のディスカウントショップに入った。「店じまい」の文字を目にしてから数年が経つ。アパレルの卸売りや雑貨問屋が多い土地柄なので、閉店セールを年がら年中やっている店が少なくない。閉店と謳いながら閉店しない店ほど目立つ。

店頭で店じまいを通知するが、ほどなく無事に・・・閉店するのはごくわずか。ほとんどの店じまい宣言店は宣言後もずっと続く。これらの店では「店じまい」は「閉店しない」の同義語だ。「閉店を告げ、在庫一掃して安く売る」という恒常的な業態戦術である。これを閉店商法と言うが、万が一本当に閉まってしまうと逆に驚いたりする。

ギャグ①
「この閉店セール、いつまで?」
「うちが潰れるまでやりますよ」
ギャグ②
「閉店セール大好評につき、閉店は延期!」
ギャグ③
「お店、いつ閉めるの?」
「その時が来たらね」
ギャグ④
「毎週土曜日は閉店セール。年中無休」


本気で店じまいしようと安売りしたところ、話題になって客が殺到した。そんな日が毎日続いて、想定外の大きな利益が出た。閉店なんかしている場合ではない。こういう店は閉店を宣言したまま商売を続ける。「やめようと思ったし、今もそう思っているけれど、顧客満足優先です」。

冒頭のディスカウントショップでは、閉店セール中、レジカウンター内で社員がだいぶ先までの仕入れの話をしているのを聞いたことがある。やる気満々だ。

大阪に閉店セールで有名な店があった。何年どころではない。よく知る人によれば十数年ずっと「もうアカン!」という看板を掲げていたらしい。そしてついに閉店商法にピリオドが打たれ、正真正銘の店じまいの日がきた。大きなニュースになった。

コロナが蔓延して止みそうにない昨今、閉店商法はもはやギャグではなくなった。閉店セールの貼り紙は戦術ではなく現実なので、下手にいじることもできない。閉店商法華やかなりし日々は、ある意味でものがよく売れた平和な時代だったのである。