「考える」ことも「ヒント」を授けられるのも三度のメシよりも好きなわけではない。だが、これら二つがくっついて「考えるヒント」になると、俄然目の色が変わってくる。うまく言い表せないが、仕事柄、この言い回しと語感に色めき立つ。自覚などしないが、もしかすると知への憧れとコンプレックスが錯綜する結果なのかもしれない。
カテゴリー: 本棚と読書
続・食にまつわる語義と語源
食にまつわる語義と語源
数日前、食に関する本を10数冊そばに置いて、気の向くままにページをめくっていると書いた。まだ途中だが、昨夜はこの本の第一章と第二章を興味深く読んだ。
ネタばらし
目新しいものやアイデアは、ある日突然、「無」のうちから出てきたりはしない。たいていは外部からの刺激や情報に突き動かされている。もし外部ではなくて、内なる触発であるとしても、脳がそれまでに絡め取ってきたことばや経験の知がきっかけになっている。
もう一つの読書
怠けてしまって読書会を10ヵ月近く主宰していない。名前を連ねてくれている20名近くのメンバーには申し訳ないと思っている。しかし、誰も何も言ってこない。遠慮しているのか、忘れてしまったのか、もう熱が冷めてしまったのか……真相はわからない。
この読書会は「書評会」もしくは「会読会」と呼ぶにふさわしい性格のものである。会読会にはみんなが同じ本を読むニュアンスがあるが、自分で選んだ本を読み、それについてA4一枚程度に書評をしたためて発表するという勉強会だ。出席するとなれば、必ず読まねばならない。よほどの読書家でないかぎり、このような動機づけがないと読書は長続きしないし、集中して読むこともできない。
決してそんな素振りをしたことはないが、ぼくは読書家だと思われている。思ってもらって結構だが、相当なまくらに読むタイプである。一冊の本を隅から隅まで読んでも、書いてあることなど覚えることは不可能である。読書はそんな、誰かの知を自分に移植するような作業ではない。だから、拾い読みして触発されることに重きを置く。ページに書かれていることをヒントや触媒と見なして、そこから自分なりに推論を働かせて考えるようにしている。読書をして知識を身につけるのではなく、読書しながら考えるというわけだ。

本をしっかりと読むことを否定しない。それも重要である。しかし、読書を思考の源泉と考えるのであれば、上記の写真のように切り抜きを1ヵ月分ほど束ねて、フラッシュバック的に次から次へと異なったテーマを迅速に読みこなしていく方法もありうる。写真は日本経済新聞の『あすへの話題』。別に他紙のものでもいい。スタッフがぼくのために切り抜いてくれるので、30枚ホッチキスでとめて、一気に読む。一枚が原稿用紙二枚弱、新書版に換算すれば40ページ程度だ。半時間あれば30のテーマに触れることができる。
「1テーマ1冊数時間」という集中的線的精読もあれば、新聞の切り抜きを束ねて読む「30テーマ30分」という集合的断片的多読もありうる。時には荒行のような読書をして脳の回路を活性化することが必要だろう。
愉快な名言格言辞典
レストランのメニューは勝手に決まらない。何がしかの意図に基づいて決まっている。その意図を〈編集視点〉と呼んでみると、同じようなことが辞典にも言える。辞典のコンテンツも適当に決まるのではなく、特殊な知識や文化などを背負った編集者が、ある種の編集視点からコンテンツを取捨選択している。
名言や格言、ことわざの類に大いに関心があったので、若い頃からいろんな書物や辞典を読みあさってきた。ただ、箴言しんげんというものはおおむね単発短文であるから、覚えてもすぐに忘れてしまう。記憶にとどめようとすれば、文脈の中に置いたり他の概念と関連づけたりする必要がある。しかし、別に覚えなくても、手元に置いて頻繁に活用していれば、自然と身につくものだ。
国語辞典の定義や表現にも編者の視点が反映されるが、名言格言ではさらに顕著になる。「世界」と銘打てばなおさらで、日本人が拾ってくる名言格言はフランス人のものと大いに異なる。写真の辞典はフランス人が編集したもの。索引を拾い読みするだけで、ぼくたちの発想との類似と相違が一目瞭然である。
まずギリシア、ラテン、聖書由来がおびただしい。中国・インド・アラビアがたまに出てくるが、この辞典の世界とは「西洋世界」と言っても過言ではない。それはともかく、おもしろいのは「各人は自己の運命の職人」というような長たらしい見出しが独立しているという点。名言格言をこの見出しにするとは、かなり主観的な視点と言わざるをえない。
「神」にかかわる名言格言はきわめて多い。「神」と「神々」を分けてあるし、「神の正義」という独立の項目もある。「ぶどう酒」に関する名言もさすがにいろいろと収録されている。「前払いをする」という項目は日本の辞典ではありえないだろう。
見出しの項目だけでも、日本人と西洋人の編集視点の特徴が見えてくる。ぼくたちにとって後景と思えるものが前景になっている(その逆もある)。世界というものへの視点がきわめてローカルだということも勉強になる。
読んだふり
会読会を3年前から主宰している。ずいぶんごぶさただと薄々気づいていたが、調べてみたら昨年6月以来集まっていない。そのことを反省するものの、メンバーの誰からもプッシュも問い合わせもないのも不思議な話だ。なければないで済むのならいっそやめようか。いや、むしろ逆で、無用の用と割り切って意地でも続けたくなる。 来月あたりに再開するつもり。
どんどんページを捲って楽しめる本もあれば、宿題として強制でもされないと読めない本もある。ましてや、読んだ本について仲間に語るとなると、単に読むだけではない、読解咀嚼力を試されるプレッシャーもかかる。しかし、ここに「読んだふり」という方法がある。これをテーマにした二冊の本を紹介する。
一冊は『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著)。目次に目を通しただけで、ろくに本文を読みもせずに薀蓄できる方法を指南する。但し、タイトルに似つかわしくなく、まったく胡散臭い本ではない。ちなみに、一部の本について、ぼくはかねてからろくに読まずに「類推読み」をしてきた。たとえば一章のみ、いや、場合によっては一頁だけ読んで本について語ろうと思えばできないことではない。
もう一冊は『読んだふり』(河谷史夫著)。著者の書評を集めた本だ。読みもしていないのに読んだふりして書評を書くようなニュアンスがあるが、これも別に怪しい本ではない。むしろ、この本は前著とはまったく逆のコンセプトで題名を付けている。
「あなたのあの書評はいいですねぇ。相当深く読み込んでおられますねぇ」と褒められた時に、「いえいえ、ろくに読んでいませんよ。ただ読んだふりしてるだけです」と答えるのだ。実は、ものすごい読み方をしているにもかかわらず。こちらは、よく読んでいるくせに齧っただけのふりをする、読書ダンディズム。
古典も新刊書も読みたい、しかも熟読も多読もしたいと欲張るのなら、これら二冊が象徴する読書法を取り入れざるをえないだろう。ところで、ここで紹介した二冊をぼくがどの程度読んだのか。それは想像にお任せする。ある本について語る時、読んだのか読んでいないのかは案外見破られないものである。
立ち読み以前
オフィスから歩いて5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階に書店が入っている。その書店は洋書に強い老舗書店とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度覗いてみようと思う。
なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いまずまずの規模の書店で十分なのである(そこにしても大型書店に分類される)。
その書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。出版文化を支えるのは買う読者である。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。
表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが……。
『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。
話は簡単である。即答は一種の技であって、頭の良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか――あるいは「速答 vs 遅答」――には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。
つかみのセンス
劈頭と掉尾という難解語がある。それぞれ「へきとう」、「ちょうび」と読む。始まりと終わりでもいいのだが、なかなか強い語感を備えている。他に、導入と結論、冒頭と末尾などもある。文章なら文頭と文末、お笑いならつかみとオチ。と、ここまで書いて思い出した。玄関と奥座敷というのもある。二年半前にそのことについて書いている。
極力儀礼的に話に入らないようにするなど、つかみの研究には熱心なほうだが、まだまだ芸が浅い。うまくいく時もあるが、初見参の場に臨んで傾向と対策が不十分ゆえ、無難に話に入ってしまう。少数のうるさ型への気兼ねもある。こんなことでは、つかみの焦点がボケる。つかみは何よりも印象的でなければならない。お笑い芸人ではないのだから、必ずしも笑わせるネタでなくてもよい。しかし、印象的とは、ある意味で普通と違うことである。普通と違う出だしには、奇異や緊張という要素もある。
「分析を好む人間とは、どんな人間なのだろう。これ自体、なかなか分析しづらいことである。発揮された結果としてしか目に見えない。この才能が抜群であるとしたら、分析の作業は楽しくて仕方ないだろう。(……)」
(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』)
本題に入るまでに、こんな理屈が4ページにわたって述べられる。
「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。もっとも、事態をすぐに飲み込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。」
(安部公房『無関係な死』)
常態ではなく、行き場のないこの気分が最後まで続くが、この書き出しだけで完全につかまれてしまっている。
「その小男はいかにもくたびれていた。彼はのろのろと人ごみを縫いながら、駅の構内を横切ると、出札口へとやってきた。そこで行列に並んで、じっと順番を待っていたが、肩を落とした格好には疲れがにじみ出ており、茶色の背広もかなりくたびれていた。」
(フィリップ・K・ディック『地図にない町』)
数年前までずっと電車通勤していたから、ぼくには見慣れた光景が描写されているにすぎない。だが、その慣れの向こうから異様な匂いが漂ってくる。
「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。(……)」
(カフカ『変身』)
あまりにも有名な冒頭である。あまりにもあっけらんかんと書かれているので、クールに真実として受け止めようとしてしまう。
以上掲げた例は若い頃に読んだ小説であり、すべてが不可解のつかみ、不条理のつかみ、不自然なつかみのいずれかから作品を始めている。この類は人前での話向きではないが、凝視させ次を待たせるにはどうすればいいかを示すお手本になってくれる。
大工のサクランボ親方が、子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれと、どんなふうに出会ったか、その一部始終。
むかしむかし、あるところに……
「王様だ!」 小さい読者のみんなは、すぐにそういうだろうね。
残念ながら、そうではないんだ。むかし、あるところに一本の棒っきれがあった。(……)
これはよくご存知の『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)の冒頭だ。このパターンは軽快でほほえましい。一工夫すればさらにユーモラスに、あるいは一転してシニカルにも応用できる。なお、つかみばかり読んでいてもつかみのセンスは身につかない。すべて読むからこそ劈頭の効果がわかるのである。
愉しい本、美しい本
書棚のスペースに余裕がなくなってきたので、最近はかさばらない文庫と新書ばかり買っている。昔読んだが手元に残っていない古典の類を再読するためである。お手頃価格で買うハードカバーの古本もあるが、床に積んである状態だ。電子化すればさぞかしすっきりするだろう。電子書籍の是非はさておき、ぼくは紙のページを指で捲るのが好きなのである。しかも、2Bくらいの太い芯のシャープペンシルでマーキングしながら読む。
読んでためになる本よりも、読んで愉しい本がいい。本だから吟味するのはもちろん内容だ。しかし、かつて書物は貴重であり希少であった。そして、読む愉しみだけではなく、蔵書として愛でたり飾ったりすることにも意味があった。一種の芸術品である。グーテンベルクの活版印刷が普及してからも、印刷されたページが製本も装丁もされずに売られていた時期が長かった。わずかな発行部数を求めて、購入者は刷りっ放しのページを自分の好みに応じて装丁し製本していたのである。
以上のような、本にまつわる初耳のエピソードに感嘆しきりだった。実は、広島出張の機会に、ひろしま美術館で開催中の特別展『本を彩る美の歴史』をじっくりと鑑賞してきたのである。わが国の平安時代の経典の前でしばし立ち止まり、ルネサンスから近代までのヨーロッパの本、活字、装丁、挿絵に目を奪われた。『グーテンベルク聖書』(1455年)の文字組みの美しさは圧巻だったし、シャガールの挿絵の斬新さにも感嘆した。
ルネサンス期のお宝本の数々を超至近距離で見れるとは想定外だった。ユークリッド『幾何学原論』(1482年)、トマス・アクィナス『神学大全』(1485年)、ルター『ドイツ語新約聖書』(1522年)、コペルニクス『天体の回転について』(1543年)、デカルト『方法序説』(1637年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(1651年)……すべて初版だ。第2版ではあるが、ダンテの『神曲』(1487年)もあった。14世紀初めに書かれたこの作品は、ラテン語で書かれるのが当たり前の時代に当時のイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれた。
「世界三大美本」も展示されていた。いずれも19世紀終りから20世紀初頭の書物である。解説のプレートには次のように書かれていた。
「産業革命の結果、本の世界も、安価であるが安直なものが多く出回るようになった。その動きに逆らうかのように出てきたのがプライベート・プレスで、営利を目的とせずに、手作りにこだわった本作りをおこなった」
プライベート・プレスは伝統工芸ないしは芸術としての書物への回帰にほかならない。下記がその三大美本。
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