『考えるヒント』のこと

「考える」ことも「ヒント」を授けられるのも三度のメシよりも好きなわけではない。だが、これら二つがくっついて「考えるヒント」になると、俄然目の色が変わってくる。うまく言い表せないが、仕事柄、この言い回しと語感に色めき立つ。自覚などしないが、もしかすると知への憧れとコンプレックスが錯綜する結果なのかもしれない。

文芸評論家の小林秀雄に『考へるヒント』という著作がある。受験必読書だったはずで、60年代末から70年代初めにかけて読んだ記憶がある。最近では「へ」から「え」に変わって『考えるヒント』として文春文庫から出ている。数年前に久々に読んでみたが、かつてさっぱりわからなかったことが普通に読める。四十年間のうちに少しは年季が入ったのかもしれぬと勝手に思っている。

『考えるヒント』の「言葉」というエッセイの冒頭にこうある。

本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。(……)ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。
唐突に読むとわかりにくいが、ことばとその意味を比較すれば、「ことばが第一、意味はその後」ということだ。「ことばはマネできても意味までマネできない」という常識的な見方に対して正反対のことを主張しているからユニークなのである。このエッセイを再読した頃はちょうどソシュールも勉強し直していたので、大いに共感した。本居宣長の言語と意味への洞察に関心したものの、1978年に小林秀雄が日本文学大賞を受賞した『本居宣長』を読まずに現在に至った。そこまでは手が回らなかった。

小林秀雄がある講演で自著に触れた。決して安くもない単行本、しかも通常の教養程度ではちょっと読んでもすぐさま理解できる内容でもない。もっと言えば、本居宣長に関心がなければ読むはずもない本である。ぼくの回りを見渡しても、本居宣長に通じている知性はほとんどいない。
この本が著者と出版社の予想をはるかに超えるほど売れた。何万部も売れたと出版社から知らされた小林本人が驚く。そんなに売れるのはおかしいじゃないかと言わんばかりである。行きつけの鰻屋に行ったら、女将が「買って読んでいますよ、先生」と聞かされてたまげたらしい。
数か月前、これを古本屋で見つけた。貼ってある小さなラベルに300円とある。買ってそのままにしていたのは、これを読む前にもう一度『考えるヒント』『考えるヒント2』『考えるヒント3』などに目を通しておこうと思ったからである。と言うわけで、遅ればせながら読んでみようと思っているが、他にも読みたい本が何冊もあるし併読型飽き性でもあるので、どうなることやら……。

続・食にまつわる語義と語源

今年に入ってからのテレビ番組だったと思う。分子生物学者で農学博士の福岡伸一が「もし宇宙人がはるか彼方から地球を眺めたら、地球の最大勢力をトウモロコシだと推論するだろう」というような話をしていて、強い興味を覚えた。コメやムギ同様、トウモロコシはイネ科の穀物だ。そして穀物の中で最大の生産量を誇る。地球外生命からすれば、トウモロコシこそが人類や家畜を支配しているという構図である。
さて、食養生を強く意識してからおよそ二ヵ月が経つ。ひもじい思いをしているわけではないが、上記のような食糧や食生活にまつわる知識への関心が別次元にシフトしたような気がする。先週、このブログで『知っておきたい食の世界史』からいくつかエピソードを拾って紹介した。読了して別の本を併読しているが、このまま通り過ごすには惜しい話があるので少々書いておきたい。

【オリーブ】 ジェラート専門店でバニラを注文した。店主が「オリーブオイル」を垂らしてみませんか?」と言うから、好奇心のおもむくままうなずいた。経験上明らかなミスマッチだが、悪くはなかった。イタリア料理でもスペイン料理でもふんだんにオリーブオイルを使う。健康オイルとしてのイメージと相まって、ぼくたちの食生活にもずいぶん浸透し和食に用いられるのも珍しくなくなった。
ギリシア語でオリーブは“elaia”、油は“elaion”という。ほぼ同じ語根もしくは語幹である。オリーブオイルこそがオイルだったという証だそうだ。英語の“olive”のほうはラテン語の“oliva”から派生した。オイル(oil)はこれが訛った呼び名という説がある。そうすると、オリーブオイルは「オリーブオリーブ」または「オイルオイル」という冗長な言い回しをしていることになる。
【膾なます】 なますと言えば、大根と人参の酢の物というイメージが強い。魚へんの「鱠」という漢字もあって、この場合は細く切り刻んだ魚の身も入れた。しかし、通常、なますを漢字にすると、にくづきの「膾」である。「羹あつものに懲こりて膾を吹く」というとき、この膾は生の肉を意味している。熱いスープで痛い目に遭ったから、冷たいものでもふぅふぅするという意味だから、生の肉でなければならない。
膾はもともと肉だったのである。その名残が韓国の「肉膾ユッケ」だ。古代中国では生の細切りの焼き肉が人気で、誰もがよく食べた。よく食べるということはよく知られたということだ。ここから、広く知れ渡るという意味の「人口に膾炙する」という表現が生まれた。この熟語の膾炙は「炙り肉」のことである。

食にまつわる語義と語源

知っておきたい食の世界史 web.jpg数日前、食に関する本を10数冊そばに置いて、気の向くままにページをめくっていると書いた。まだ途中だが、昨夜はこの本の第一章と第二章を興味深く読んだ。

食の話が楽しいのは言うまでもないが、ことばの由来に並々ならぬ関心を抱くぼくとしては、著者の語義と語源の薀蓄に何度も「へぇ、なるほど」を繰り返していた。知っていて損はないので、いくつか紹介しておくことにする。

【塩】 英語でsalt、ラテン語でsalである。ソーセージ(sausage)もサラミ(salami)もsal語源で塩漬けを意味している。なお、サラダ――フランス語でsalade――も塩なんだそうである。
【ピラフ】 トルコ語で「一椀の飯」を意味する炊き込みご飯である。この変形がイタリアのリゾットであり、スペインはバレンシア地方ではパエリャに変化した。
【サーロイン】 この知識はぼくの雑学に入っていたが、エピソードがおもしろい。17世紀の英国のジェームズ1世がある宴で風味豊かな牛肉を口にして感激した。「どの部位か?」「腰の背側の肩からももにかけてのロイン(loin)でございます」「ようし、その部位に貴族の称号サー(sir)を与えよう」……いうことになり、サーロイン(sirloin)。
【ポタージュ】 人類の食文化を一変させたのが加熱。粘土で壺を作って水分と食材の加熱が可能になった。これを「セラミック革命」と呼ぶ。壺を意味するポット(pot)から濃厚なスープ「ポタージュ(potage)」が派生した。

ネタばらし

目新しいものやアイデアは、ある日突然、「無」のうちから出てきたりはしない。たいていは外部からの刺激や情報に突き動かされている。もし外部ではなくて、内なる触発であるとしても、脳がそれまでに絡め取ってきたことばや経験の知がきっかけになっている。

ぼくたちはいろんな知識を足し算し、場合によっては引き算もして、気づいたり発見したりする。その気づきや発見は独創的かもしれないが、決して無の状態から生まれたのではない。何事にも下地がある。「何でもよく知ってますねぇ」と褒められても、アタマの良さが褒められたわけではない。何でも知っているのは、どこかでひそかに仕入れているからにほかならない。とりわけ、ジョークの大半には出所がある。オリジナルのジョークもいろいろと作ったが、ジョークの構造や類型に関しては無意識のうちに先例を真似ているものだ。

プラトンとかものはし.jpgのサムネール画像
2009年6月にサンフランシスコからロサンジェルスへと旅した折りに、サンフランシスコで書店に入り一冊の本を手にした。表紙に“The New York Times Bestseller”というふれこみがある。ページ数200足らずの本なので帰りのフライトで読もうと思い買った。“Plato and a Platypus Walk into a Bar…”というタイトル。プラトンとカモノハシ、何という奇抜な組み合わせだろう。“Understanding Philosophy through Jokes”がサブタイトル。
結論から言うと、難解な哲学術語も少なくなかったが一気に読んだ。そして後日、難解と愉快をモットーとする私塾で、同年と翌年にこれぞというジョークを次から次へと紹介して大受けしたのである。ジョークを披露するとき、ふつうは出典まで明かさない。このネタ本についても触れなかった。
旅行の翌年の秋頃だったと思うが、大阪本町の紀伊國屋書店で『プラトンとかものはし、バーに寄り道』という本を見つけた。言うまでもなく、「あれっ?」と気づく。そしてサブタイトルが「ジョークで理解する哲学」ではないか。そう、サンフランシスコで買った本の邦訳版だ。奥付を見て驚いた。2008年10月である。
さんざんネタを使った後に見つけてよかった。翻訳のほうを先に見つけていたら買わなかったかもしれないし、仮に買ったとしても、誰もが手にできる可能性があるから、これはネタ本にならなかったかもしれない。いずれにせよ、この二年間、ぼくが披露して笑ってもらったジョークの2、3割はこの本由来であることを告白しておく。なお、当然と言えば当然だが、原書が12ドルなのに対し翻訳本は1800円もする。

もう一つの読書

怠けてしまって読書会を10ヵ月近く主宰していない。名前を連ねてくれている20名近くのメンバーには申し訳ないと思っている。しかし、誰も何も言ってこない。遠慮しているのか、忘れてしまったのか、もう熱が冷めてしまったのか……真相はわからない。
 
この読書会は「書評会」もしくは「会読会」と呼ぶにふさわしい性格のものである。会読会にはみんなが同じ本を読むニュアンスがあるが、自分で選んだ本を読み、それについてA4一枚程度に書評をしたためて発表するという勉強会だ。出席するとなれば、必ず読まねばならない。よほどの読書家でないかぎり、このような動機づけがないと読書は長続きしないし、集中して読むこともできない。
 
決してそんな素振りをしたことはないが、ぼくは読書家だと思われている。思ってもらって結構だが、相当なまくらに読むタイプである。一冊の本を隅から隅まで読んでも、書いてあることなど覚えることは不可能である。読書はそんな、誰かの知を自分に移植するような作業ではない。だから、拾い読みして触発されることに重きを置く。ページに書かれていることをヒントや触媒と見なして、そこから自分なりに推論を働かせて考えるようにしている。読書をして知識を身につけるのではなく、読書しながら考えるというわけだ。


 本をしっかりと読むことを否定しない。それも重要である。しかし、読書を思考の源泉と考えるのであれば、上記の写真のように切り抜きを1ヵ月分ほど束ねて、フラッシュバック的に次から次へと異なったテーマを迅速に読みこなしていく方法もありうる。写真は日本経済新聞の『あすへの話題』。別に他紙のものでもいい。スタッフがぼくのために切り抜いてくれるので、30枚ホッチキスでとめて、一気に読む。一枚が原稿用紙二枚弱、新書版に換算すれば40ページ程度だ。半時間あれば30のテーマに触れることができる。
 
「1テーマ1冊数時間」という集中的線的精読もあれば、新聞の切り抜きを束ねて読む「30テーマ30分」という集合的断片的多読もありうる。時には荒行のような読書をして脳の回路を活性化することが必要だろう。

愉快な名言格言辞典

レストランのメニューは勝手に決まらない。何がしかの意図に基づいて決まっている。その意図を〈編集視点〉と呼んでみると、同じようなことが辞典にも言える。辞典のコンテンツも適当に決まるのではなく、特殊な知識や文化などを背負った編集者が、ある種の編集視点からコンテンツを取捨選択している。

名言や格言、ことわざの類に大いに関心があったので、若い頃からいろんな書物や辞典を読みあさってきた。ただ、箴言しんげんというものはおおむね単発短文であるから、覚えてもすぐに忘れてしまう。記憶にとどめようとすれば、文脈の中に置いたり他の概念と関連づけたりする必要がある。しかし、別に覚えなくても、手元に置いて頻繁に活用していれば、自然と身につくものだ。

国語辞典の定義や表現にも編者の視点が反映されるが、名言格言ではさらに顕著になる。「世界」と銘打てばなおさらで、日本人が拾ってくる名言格言はフランス人のものと大いに異なる。写真の辞典はフランス人が編集したもの。索引を拾い読みするだけで、ぼくたちの発想との類似と相違が一目瞭然である。

まずギリシア、ラテン、聖書由来がおびただしい。中国・インド・アラビアがたまに出てくるが、この辞典の世界とは「西洋世界」と言っても過言ではない。それはともかく、おもしろいのは「各人は自己の運命の職人」というような長たらしい見出しが独立しているという点。名言格言をこの見出しにするとは、かなり主観的な視点と言わざるをえない。

「神」にかかわる名言格言はきわめて多い。「神」と「神々」を分けてあるし、「神の正義」という独立の項目もある。「ぶどう酒」に関する名言もさすがにいろいろと収録されている。「前払いをする」という項目は日本の辞典ではありえないだろう。

見出しの項目だけでも、日本人と西洋人の編集視点の特徴が見えてくる。ぼくたちにとって後景と思えるものが前景になっている(その逆もある)。世界というものへの視点がきわめてローカルだということも勉強になる。

読んだふり

会読会を3年前から主宰している。ずいぶんごぶさただと薄々気づいていたが、調べてみたら昨年6月以来集まっていない。そのことを反省するものの、メンバーの誰からもプッシュも問い合わせもないのも不思議な話だ。なければないで済むのならいっそやめようか。いや、むしろ逆で、無用の用と割り切って意地でも続けたくなる。 来月あたりに再開するつもり。

どんどんページを捲って楽しめる本もあれば、宿題として強制でもされないと読めない本もある。ましてや、読んだ本について仲間に語るとなると、単に読むだけではない、読解咀嚼力を試されるプレッシャーもかかる。しかし、ここに「読んだふり」という方法がある。これをテーマにした二冊の本を紹介する。 


一冊は『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著)。目次に目を通しただけで、ろくに本文を読みもせずに薀蓄できる方法を指南する。但し、タイトルに似つかわしくなく、まったく胡散臭い本ではない。ちなみに、一部の本について、ぼくはかねてからろくに読まずに「類推読み」をしてきた。たとえば一章のみ、いや、場合によっては一頁だけ読んで本について語ろうと思えばできないことではない。

もう一冊は『読んだふり』(河谷史夫著)。著者の書評を集めた本だ。読みもしていないのに読んだふりして書評を書くようなニュアンスがあるが、これも別に怪しい本ではない。むしろ、この本は前著とはまったく逆のコンセプトで題名を付けている。

「あなたのあの書評はいいですねぇ。相当深く読み込んでおられますねぇ」と褒められた時に、「いえいえ、ろくに読んでいませんよ。ただ読んだふりしてるだけです」と答えるのだ。実は、ものすごい読み方をしているにもかかわらず。こちらは、よく読んでいるくせに齧っただけのふりをする、読書ダンディズム。

古典も新刊書も読みたい、しかも熟読も多読もしたいと欲張るのなら、これら二冊が象徴する読書法を取り入れざるをえないだろう。ところで、ここで紹介した二冊をぼくがどの程度読んだのか。それは想像にお任せする。ある本について語る時、読んだのか読んでいないのかは案外見破られないものである。

立ち読み以前

オフィスから歩いて5分のところにコンパクトな都市型モールがあり、その7階に書店が入っている。その書店は洋書に強い老舗書店とコラボして、大阪梅田に日本最大級の、在庫200万冊規模の売場をオープンした。この種の超広大なスペースを誇る店を「ダブルブランド巨艦店舗」と言うそうだ。一度覗いてみようと思う。

なぜ「一度だけ」かと言うと、だだっ広い書店が苦手だから。品揃えの少ない書店も困るが、在庫豊富で書棚が林立すると、森の中で一粒の木の実を探すような気分になってしまう。ぼく自身、読書ジャンルが広く、人が読まないような異本を買い求める傾向がある。それでも珍本奇本を探しているわけではないので、仕事場から近いまずまずの規模の書店で十分なのである(そこにしても大型書店に分類される)。

その書店はどこの店にもテーブルと椅子が置いてあって、好きな本を書棚から引っ張り出して腰掛けて読んでもいいことになっている。まるで図書館。そのありがたいテーブルと椅子、実は一度も利用したことがない。元来、あまり立ち読みもしない。少しペラペラと捲って「買ってみよう」と直感が働けばそれ以上は読まない。もう一度書く。ぼくは、まず「買ってみよう」と思うのであって、「読んでみよう」とは思わないのである。読んでよければ買うのではなく、買って読む。関心があれば読む、のではなく、関心があれば買う。出版文化を支えるのは買う読者である。さっさと買ってしまうのだから、長時間座り読みする必要がない。


表紙と書名は見るし目次にも目を通す。次いで、適当に捲ったページに目を落とし、相性がよさそうなら買うと決める。この間、たぶん30秒もかかからない。世間ではこれを立ち読みとは言わないだろう。このほんのわずかの時間は、同時に不買決定のための儀式でもある。先週、こうして「買わなかった」のが『即答するバカ』という本である。『バカの壁』は例外的に読んだが、あまり下品な書名を好まない。経験上、下品系はタイトルと中身が一致せず、また読後のがっかり度が高い。「即答するバカ」という書名で、よくも200ページも書けるものだと感心はするが……。

『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール)に倣って、上記の本を寸評してみる。ちらっと読んだページで「考えないで直感的に喋ったり答えたりする若者」に対する批判がある。しかし、よくよく考えてみれば、「浅慮即答するバカ」もいるが、それすらできないバカも大勢いる。しかも、「熟慮してもやっぱりバカ」もいる。同じバカなら「即答するバカ」に軍配をあげたいが、どうだろう。この本に対抗して『即答しないアホ』という本も著せる。こちらはモラトリアム論になりそうだ。

話は簡単である。即答は一種の技であって、頭の良し悪しとは別だろうと思う。むしろ、即答できるかできないか――あるいは「速答 vs 遅答」――には性格が絡んでくる。いや、もしかすると、力関係で上位に立つ者が「安直に即答するバカ」を作っているのかもしれない。ところで、もう一冊、買わなかった本がある。『40才からの知的生産術』がそれ。この本を手に取る40才が、過去に知的生産の方法について何一つ試みもせず、この一冊から出発しようとするなら、おそらく手遅れである。ぼくなら別の本を書く。『40才からの知的消費術』。こっちなら可能性がありそうではないか。

つかみのセンス

劈頭と掉尾という難解語がある。それぞれ「へきとう」、「ちょうび」と読む。始まりと終わりでもいいのだが、なかなか強い語感を備えている。他に、導入と結論、冒頭と末尾などもある。文章なら文頭と文末、お笑いならつかみとオチ。と、ここまで書いて思い出した。玄関と奥座敷というのもある。二年半前にそのことについて書いている。

極力儀礼的に話に入らないようにするなど、つかみの研究には熱心なほうだが、まだまだ芸が浅い。うまくいく時もあるが、初見参の場に臨んで傾向と対策が不十分ゆえ、無難に話に入ってしまう。少数のうるさ型への気兼ねもある。こんなことでは、つかみの焦点がボケる。つかみは何よりも印象的でなければならない。お笑い芸人ではないのだから、必ずしも笑わせるネタでなくてもよい。しかし、印象的とは、ある意味で普通と違うことである。普通と違う出だしには、奇異や緊張という要素もある。


「分析を好む人間とは、どんな人間なのだろう。これ自体、なかなか分析しづらいことである。発揮された結果としてしか目に見えない。この才能が抜群であるとしたら、分析の作業は楽しくて仕方ないだろう。(……)」
(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』)

 本題に入るまでに、こんな理屈が4ページにわたって述べられる。

「客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。もっとも、事態をすぐに飲み込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づく静けさがこめられていた。」
(安部公房『無関係な死』)

常態ではなく、行き場のないこの気分が最後まで続くが、この書き出しだけで完全につかまれてしまっている。

「その小男はいかにもくたびれていた。彼はのろのろと人ごみを縫いながら、駅の構内を横切ると、出札口へとやってきた。そこで行列に並んで、じっと順番を待っていたが、肩を落とした格好には疲れがにじみ出ており、茶色の背広もかなりくたびれていた。」
(フィリップ・K・ディック『地図にない町』)

数年前までずっと電車通勤していたから、ぼくには見慣れた光景が描写されているにすぎない。だが、その慣れの向こうから異様な匂いが漂ってくる。

「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。(……)」
(カフカ『変身』)

あまりにも有名な冒頭である。あまりにもあっけらんかんと書かれているので、クールに真実として受け止めようとしてしまう。

以上掲げた例は若い頃に読んだ小説であり、すべてが不可解のつかみ、不条理のつかみ、不自然なつかみのいずれかから作品を始めている。この類は人前での話向きではないが、凝視させ次を待たせるにはどうすればいいかを示すお手本になってくれる。


大工のサクランボ親方が、子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれと、どんなふうに出会ったか、その一部始終。

むかしむかし、あるところに……
「王様だ!」 小さい読者のみんなは、すぐにそういうだろうね。
残念ながら、そうではないんだ。むかし、あるところに一本の棒っきれがあった。(……)

これはよくご存知の『ピノッキオの冒険』(カルロ・コッローディ)の冒頭だ。このパターンは軽快でほほえましい。一工夫すればさらにユーモラスに、あるいは一転してシニカルにも応用できる。なお、つかみばかり読んでいてもつかみのセンスは身につかない。すべて読むからこそ劈頭の効果がわかるのである。

愉しい本、美しい本

書棚のスペースに余裕がなくなってきたので、最近はかさばらない文庫と新書ばかり買っている。昔読んだが手元に残っていない古典の類を再読するためである。お手頃価格で買うハードカバーの古本もあるが、床に積んである状態だ。電子化すればさぞかしすっきりするだろう。電子書籍の是非はさておき、ぼくは紙のページを指で捲るのが好きなのである。しかも、2Bくらいの太い芯のシャープペンシルでマーキングしながら読む。

読んでためになる本よりも、読んで愉しい本がいい。本だから吟味するのはもちろん内容だ。しかし、かつて書物は貴重であり希少であった。そして、読む愉しみだけではなく、蔵書として愛でたり飾ったりすることにも意味があった。一種の芸術品である。グーテンベルクの活版印刷が普及してからも、印刷されたページが製本も装丁もされずに売られていた時期が長かった。わずかな発行部数を求めて、購入者は刷りっ放しのページを自分の好みに応じて装丁し製本していたのである。

以上のような、本にまつわる初耳のエピソードに感嘆しきりだった。実は、広島出張の機会に、ひろしま美術館で開催中の特別展『本を彩る美の歴史』をじっくりと鑑賞してきたのである。わが国の平安時代の経典の前でしばし立ち止まり、ルネサンスから近代までのヨーロッパの本、活字、装丁、挿絵に目を奪われた。『グーテンベルク聖書』(1455年)の文字組みの美しさは圧巻だったし、シャガールの挿絵の斬新さにも感嘆した。


ルネサンス期のお宝本の数々を超至近距離で見れるとは想定外だった。ユークリッド『幾何学原論』(1482年)、トマス・アクィナス『神学大全』(1485年)、ルター『ドイツ語新約聖書』(1522年)、コペルニクス『天体の回転について』(1543年)、デカルト『方法序説』(1637年)、レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画論』(1651年)……すべて初版だ。第2版ではあるが、ダンテの『神曲』(1487年)もあった。14世紀初めに書かれたこの作品は、ラテン語で書かれるのが当たり前の時代に当時のイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれた。

「世界三大美本」も展示されていた。いずれも19世紀終りから20世紀初頭の書物である。解説のプレートには次のように書かれていた。

「産業革命の結果、本の世界も、安価であるが安直なものが多く出回るようになった。その動きに逆らうかのように出てきたのがプライベート・プレスで、営利を目的とせずに、手作りにこだわった本作りをおこなった」

プライベート・プレスは伝統工芸ないしは芸術としての書物への回帰にほかならない。下記がその三大美本。

ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフリー・チョーサー著作集』.jpg
ケルムスコット・プレス刊『(エリス編)ジェフェリー・チョーサー著作集』(1896年)。タイポグラフィに装飾。何という凝りようだろう。
アシュテン・プレス刊『ダンテ著作集』.jpg
アシェンデン・プレス刊『ダンテ著作集』(1909年)。これほど余白の美しさを感じさせる見開きページ構成にはめったにお目にかかれない。
ダブス・プレス刊『聖書』(全5巻).jpg
ダブス・プレス刊『聖書』全5巻(1903-05年)。『創世記』の冒頭”In the beginning God created the heavens and the earth.”(はじめに神は天と地を創造された)の”In the beginning”が赤い大きな文字で見出しになり、しかも、アルファベットの”I”がテキストの頭を揃えるように長く縦に伸びて装飾効果を添えている。