速読は「読み方」なのか

昨年一月に会読会を始めてから、読書について考える機会が増えた。「同じ本を二度読むほうがいいのか」、「読みながら傍線を引き付箋紙を貼るべきか」、あるいはもっと根本的な「どんな本をどのように読むか」などを問うては答え、その答えの理由も考える。とりわけ、古典的な「速読か精読か」という問いを無視できない。今のところ、平均的読書人が本を速く読む必要などないという立場を取る。速読とは本の内容に向けられた行為ではなく、本の冊数をこなす行為にほかならない、と考えるからである。

趣味が多読なら、浅く広く速く読めばよろしい。また、特定テーマにすでに詳しい職業人の場合は、関連図書をいくらでも速読できるに違いない。あるいは、課題として読書を迫られている人は、とりあえず急いで通読しておきたいだろう。速読はこれらの人々の願望やニーズに応えることができそうだ。ここで言う速読とは「速やかに目を通すこと」であって、よく理解することまでは約束しない。まったく知らないことが書かれた本を30分やそこらで読むことはできない。ある程度理解できている内容なら、知識量に応じた速度で読めるのである。

英文ライティングを生業とし始めた二十代の後半に英語上達の方法をいろいろと独学していた。文章スタイルも英文雑誌のエディトリアルも広告コピーの勉強もした。その勉強の一つに速読があった。アルファベットという26の表音文字だけの文章と日本語の文章の速読をまったく同列で語ることはできない。また、外国語と母語という相違も決定的である。しかし、視野を広げてパターンを認識するという点はまったく同じだ。

英語では速読をスキミング(skimming)とスキャニング(scanning)に大きく分ける。スキミングは要点の読み取りであり、重要な記述とそうでない記述を嗅ぎ分ける作業である。要点や重要な箇所は読者それぞれだから、スキミングという速読の結果、読み取った内容も読者それぞれである(このことは読書行為の特性であって、速読や精読とは無関係だ)。他方、スキャニングは検索型の読み取りである。パソコンのウィルスソフトと同じで、スキャンしてウィルスを探すように、ある特定のキーワードや目当ての用語をさっと見つけ出す。いずれも速読のための技術としてトレーニングも考えられている。


速読は精読よりも理解と記憶にすぐれているという説もある。これには一理ある。たとえば、ゆっくり喋る人の話が分りやすいとはかぎらない。意味はことばのつながりや文脈において成されるので、間が空くと理解に時間を要する。音声を聴き取れさえすれば、早口のほうが理解しやすく記憶に残りやすいという側面もたしかにあるのだ。しかし、他者ペースの話を聞くにせよ自分ペースで本を読むにせよ、結局はスピードの遅速ではなく、頭がついていくかどうかの問題になってくる。

功罪という点では、速読そのものに「罪」などない。過ちは人に起こる。それまでの自分の読書体験の貧しさを顧みず、ただひたすら速読すれば本の内容がよく理解できるという早とちりである。「功」については、先にも書いた、見える文章群の範囲を広げるという点が最大だろう。しかし、広角認識ができるから速読できるのか、それとも速読するから広角認識が得られるのかのどちらが真なのか判然としない。まるでニワトリとタマゴの関係に思えてくる。

速読するために別の訓練があるのか、あるいは速読そのものが何かの訓練なのかという問い方もできる。ぼくにとっては、広角認識もスキミングも、速読がらみのスキルはすべてトレーニングに思えてくる。しかも読書のためではなく、スピード思考のためのトレーニングなのである。速読は本の読み方の一つのメソッドと言うよりも、思考や言語の活性化に役立つのではないか。本の理解と記憶を保証はできないが、頭を働かせる功ならありそうなのである。

速読は「読み飛ばし」の技術でもある。読み飛ばせるのは、内容をある程度分かっているからだ。ある方面の本を何冊も読んでいれば、類似の本ならば要点も分かるだろうし読み飛ばしもできる。しかし、断言してもいいが、まったく知らないことをハイスピードで読むことはできない。仮に速読できたとしても、理解はいい加減、後日記憶にも残っていない。いや、理解も記憶も完璧だと言うのなら、その御仁はモーツァルト級の天才に違いないのである。