何も聴かない、何も読まない

有名な酒造メーカーの高級ブランドウィスキーの広告に「何も足さない、何も引かない」というのがある。ご存知の方も多いだろう。「純」であることを訴えるのに純粋という陳腐な言い回しをしないのがいい。足しも引きもしないという表現からぼくたちは自然をイメージしてしまう。なかなか秀逸なコピーだと感心したものである。

けしからぬミート加工業者が数年前に摘発されたとき、ぼくはこのコピーを本歌にして「何でも足す、何でも挽く」なるパロディーを創作した。表示された食肉以外の肉を足し、何でもかんでもミンチ状に挽いたありさまを諷刺してみたのである。それをきっかけにもう一丁とばかりにひねったのが「何も聴かない、何も読まない」である。音楽も聴かなければ本も読まないという見たままの文意ではない。実は、もう少し意味深長のつもりである。

作意を披露する前に、もったいぶって伏線を張っておこう。先日、書店で平積みしてある『日本人へ リーダー篇』と題された本を手にした。著者は、全三十数巻の大作『ローマ人の物語』の塩野七生。平積みの最新刊を求めることはめったにないが、携行した本を出張先で読み切った時には、その種の本を買うことがある。いきなり「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」というユリウス・カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)のことばが紹介される。著者はこのことばが気に入っているようで、『ルネサンスとは何であったのか』の中でも使っている。そこでは、「人間性の真実を突いてこれにまさる言辞はなし」というマキアヴェッリの賞賛も添えている。


ここで注目すべきは「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」という後段である。見たいという行為だけにとどまらず、「したいことしかしない」や「考えたいことしか考えない」や「欲しい情報しか求めない」などへ敷衍することができる。これらの性向を説明してくれるのが、〈認知的不協和理論〉だ。人は自分の考えに合っていることや自分の都合によくなる情報だけを使い、都合の悪いことから目線を逸らす。すなわち、人は欲求するところを中心に推論する癖を持つのである。

さて、「何も聴かない、何も読まない」に話を戻そう。これは、聴いているようで実は何も聴いておらず、読んでいるようで実は何も読んでいないという意味なのである。「聴きたいことだけを聴き、読みたいことだけを読む」のならまだしも、多くの人は、聞き覚えのあることや読み覚えのあることにはあまり集中しようとはしない。いや、わざわざ意識して集中しなくても、聞き流し読み流すだけで十分とタカをくくっているのである。困ったことに、すでに知っていることに対してはきわめて御座なりに済ませてしまうのだ。

では、聴いても読んでも難解な事柄に対してはどんな態度をとるのか。今度は、聞き飛ばし読み飛ばす。要するに、わかっていることにはいい加減に相槌を打ち、わからないことには聞かざる見ざるを決め込むのだ。こうして、「何も聴かない、何も読まない人間」が出来上がってしまう。事柄が既知であろうと未知であろうと、聴く・読むという認知は集中を要する。集中を怠れば、聴ける範囲内で聴き、読める範囲内で読むという惰性に流れる。聴けたり読めたりするはずの事柄すらうわの空という状態だ。好きなものばかり食べていたら、やがてその好物の味そのものがわからなくなるのである。

知はどのように鍛えられるか(1/2)

自分では正論だと思っていつも書くのだが、正論を聞かされたり読まされたりする側はさぞかし面倒臭いのだろう。インスタントな学びなどない、学びとは厳しいものであるという趣旨のことをいつぞや書いたら、「そんな硬派なことばかり語っているから、あなたの話はとっつきにくいのです。もっとオブラートに包まないと」と指摘された。「いい歳になってオブラートなんかいらないだろう」と言ったら、「その通りですが、正論は可愛げがないのです」とも言われた。いつの時代も意見はちょっと胡散臭いくらいがちょうどいいのだろうか。

千や万に一つの成功事例を取り上げて、誰もが容易に成し遂げられるかのように「法則」に仕立てる風潮が強くなっている気がする。困ったものだ。たしかに法則そのものは誤っていないのかもしれない。しかし、よく目を凝らせば、そこらじゅうにいる誰もが実践できるような法則ではない。艱難辛苦を要する。しかも、立ちはだかる壁が怠慢という、手に負えない内なる敵であったりする。この際、はっきり認めておこうではないか。簡単にマスターできることは簡単なことであり、なかなか身につかないことはむずかしい。「簡易ハウツーによる高度な知の無努力達成」などありえないのだ。

何年にもわたって学んできたのに、満足できるほど身につかないヒューマンスキル。とりわけ上手に読み書きし、しっかりと考える力などは、左にあるものを右へ動かすような単純学習では手の内に入らない。また、単発知識を記憶するのはさほど難しくはないが、記憶した知を統合したり、別の何かへと連想を逞しくしたり、あるいは臨機応変に応用したりするなどのリテラシー能力は「道なり学習」ではものにならない。

たとえば、『「思考」が運命を変える』という書物でジェームズ・アレンが説く法則を実践できれば見違えるような結果を期待できるだろう。しかし、その肝心の思考は誰かから学べるものではなく、その知の働きは自力に委ねられる。また、『グズをなおせば人生はうまくいく』(斎藤茂太)での話もほぼ絶対の法則だと思う。しかし、人生失敗の根源であるグズそのものがなかなか直らないし、誰にも直してもらうわけにはいかない類いのものだ。なお、この二冊は昨今のトンデモ促成本とは質が違う。誤解があっては困るので申し添えておく。


『英語は音読だ!』(岩村圭南)という本があるらしい。これを紹介するNHK出版のサイトでは、次のように謳っている。

音読なくして英語は話せるようにならない! 音読をくり返すことで、正しく発音するための口の筋肉が鍛えられ、同時に、まとまりのある内容を表現するための会話の引き出しが増えます。さらに、CDをくり返し聞くことで正しい音を聞き取るリスニング力も身につく。『英語を話せるようになりたい』――あなたのその願いは、音読を続ければ必ず叶えられる!」

ぼく自身が手に取りすらしていないから、この本を推薦するわけではない。だが、少なくともここに書かれている紹介文には賛意を示しておきたい。古い拙著の中でぼくも次のように書いた。

ただひたすら読むこと――目が慣れ、口が慣れる。文字と音声が身体の一部になってくる。たいていの人は、この感触がわかるまでにギブアップしてしまうのです。試してみればわかりますが、意味すら十分に理解できていないのに、同じ文章を何度も何度も、それこそ百回以上も声に出して読むのは苦痛以外の何物でもありません。(中略)そう、この只管朗読こそが将来英語が続けられるかどうかのリトマス試験紙になるのです。」(『英語は独習』)

答えははっきりとわかっている。テレビのコマーシャルで「英語は音読」と唱える某予備校の英語教師も正しい(同じコマーシャルで二人目の英語教師が言う「英語はことばだ。ことばは誰でもできる」は励ましとしてはいいが、厳しい鍛錬を前提とせずに言っているのであれば怪しげなメッセージとなる)。英語のみならず、語学一般、最強の学習が音読であることに疑問の余地はない。音読以外の方法としては、現地で生まれて話しことばをどっぷり浴びることくらいだろう(ならば、この国のほとんどすべての人々は人生一度きりの機会をすでに失っている)。語学における音読は、繰り返しの重要性を物語る。 

この只管法則による習慣形成は知の鍛錬一般においても証明できる。但し、ただひたすら繰り返す日々のノルマはとてもきついのである。昨今の胡散臭いベストセラーには、入口をオブラートに包んで招き入れ、最終ゴールイメージまで「容易であること」を装う傾向がある。書物だけではなく、平然と講演でもそう言ってのける講師がいる。「このやり方なら、誰でもできます!」と幻想を植え付けるのはほとんど詐欺罪に等しい。並大抵ではないことを強調して、学ぶ側に覚悟を決めさせることこそがよき導きではないのか。

未成年状態ということ

「情報依存は親依存、友達依存、先輩依存に酷似している。その姿は独立独歩できない未熟な青少年そっくりだ」と、一昨日のブログの末尾に書いた。そして、こう書いてから、カントの啓蒙論にこれらしきものがあったのを思い出し、久しぶりに読んでみた。『啓蒙とは何か』。えらく難しそうな本のようだが、とてもわかりやすい話である。しかも、わずか15ページほどの小論なのだ。

少し前置きしておくと、現在「啓蒙」という用語は微妙な位置にある。これを上位者から下位者への高飛車な教え導きととらえる人たちがいるからだ。実際、ぼくのテキスト中の啓蒙を啓発に変えるよう主催者側から要請されたことがある。その啓発も「知識を増やして理解を深める」というニュアンスだが、これとて「自己啓発セミナー」などのイメージを引き摺っている(『ディベートで知的自己啓発』はぼくの著書のタイトルだ)。結論を言えば、啓蒙という語を使うときは、17世紀末に遡るヨーロッパ啓蒙思想の流れを汲んでおくのがいい。啓蒙に差別的ニュアンスを感じる人々にはそういう立場を見せておくべきだろう。

では、当時の啓蒙思想とはどうだったのか。古い価値観や旧弊を打破して人間的理性を尊ぼうとする革新的なものだったとされる。無知蒙昧はよくない、だからよく啓発すべく教えようというのが啓蒙の原初的意味だった。要するに、闇から光のある方へと導くことであり、無知ゆえの幼さから脱皮して理性的人間に至ろうとする考え方である。錚々たる啓蒙主義哲学者が名を連ねたが、カントもその一人だった。


「人間が自分の未成年状態から抜け出ること」。これがカントによる啓蒙の定義である。カントが念頭に置いているのは、未成年ではなく成人である。成人になっているにもかかわらず、未だに未成年の状態にあるのは、誰のせいでもなく、お前さん自身が招いたものだよ、と言っているのである。いいおとなが幼稚なのは、悟性を用いないから。大雑把に悟性を理性と言い換えれば、未成年状態にある成人は、理性そのものを欠くのではなく、理性を用いようとする決意と勇気を欠いているのである。彼らは独力で未成年状態から脱することはできず、誰かの指導を必要とする。

今はカントの時代よりもさらに成人の幼児化が進んでいるように思われる。ぼくが少し小難しい話をするだけで、もっとやさしく説明してほしいと甘える。いいおとながわずか千語や二千語程度の語彙レベルで何を知ろうというのか。カントは言う、「身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、(……)その原因は実に人間の怠惰と怯懦きょうだとにある。未成年でいることは、確かに気楽である」。はたして、こういう状態に居続けるとどうなるか。抜け出すどころか、安住し愛着すら抱くようになってしまう。ここにおいて、幼児性と理性は相反することがわかる。成人になっても一人歩きしないのは、カントの指摘するように、本人が責められることなのだが、一人歩きさせなかった取り巻きも遠因の一つに違いない。

「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分」とまで言い切るカント。成人が未成年状態であることは恥なのである。下位者に対しては成熟を示し、都合が悪くなると幼稚へと逃げ込む。理性の非運用は、思考状態に端的に表れる。まず自分で考えない、仮に考えるとしても陳腐な一つの正解探しに終始する。一つの正解を求める教育がいかに青少年を未成年状態に長く止めているかがわかるだろう。自ら解答をひねり出すべく理性を用い、そのつど暫定的な意思決定を下し、後日その判断を自己検証する――これら一連の思考習慣に啓蒙された成人の姿を見る。未成年状態の成人を大勢抱える社会的コストは大きいが、もっと憂うべきは集団的に危機や批判を疎隔してしまうことだろう。

ヨーロッパの鑑定

ヨーロッパが悲鳴を上げている。誇張し過ぎなら、嘆いていると言い換えてもいい。ぼくは政治経済分野のヨーロッパ事情にさほど詳しくなく、現在の状況について確信的に語る資格はない。それでも、報道を通じて現状を察すれば、少なくとも二年前の「天」に対して今は「地」、まさに雲泥の差がある。ギリシアショックのだいぶ前から、さしたる根拠もなく変調の兆しを嗅ぎ取ってはいた。

パリとローマに10数日滞在していたのが二年前。ユーロが円に対してもっとも強かった時期で、ぼくの滞在中に1ユーロ165円のレートになった。安い航空券を手に入れて小躍りしていたが、現地に行ってからは毎日しょんぼりしていた。一万円札はどんどん財布から消えていくし、国際キャッシュカードの残高も心細くなっていった。それがいまではどうだ、昨日の時点で1ユーロ110円である。「散財」した当時との差は何と55円! 昨年118円のユーロ安の時に将来の旅行に備えてユーロを買っておいたが、差損になるとは思いもよらなかった。

数年前に『アメリカもアジアも欧州にかなわない』という本を読んだ。冒頭で「ヨーロッパにこそ、われわれがモデルとすべきものは多いはずだ」と強弁した著者は現在どんな思いだろう。欧州礼讃を展開し、おまけに「アメリカもアジアも敵わない」とまで断言したのだから、さぞかし心中穏やかであるはずはない。かく言うぼくも、ヨーロッパのコンパクトシティや文化芸術をよく持ち上げるので、他人のことをとやかく言える立場にはない。動態的な現象の鑑定は微妙かつ難しいものである。


最近ヨーロッパ史に関する書物を立て続けに二冊読んだ。いずれもヨーロッパが「小さい」ということを強調していた。ざくっと言えば、西端から東端まで飛行機で3時間ほどだし、面積は北アメリカの半分すらない。南極を除く世界の陸地のわずか8パーセント、そこに50もの国がひしめき合っているのである。

ヨーロッパと日本の地理を比較するとおもしろい。ぼくの住む大阪をヨーロッパに置けばどんな国と同じ緯度になるか。いわゆる南ヨーロッパの圏外にあって、ギリシアのクレタ島にかろうじてかかる位置。では、北海道の最北端は? リヨン、ミラノ、ヴェネティア、ブカレスト、ベオグラードあたりと同じ緯度である。ベルリンやロンドンに至っては、そこからさらに10°、およそ1,000キロメートルも北上した地点になる。日本の大半はトルコ、イラン、シリア、イラク、スペインの南からモロッコ、アルジェリア、チュニジアと同緯度なのだ。

地理や歴史について語っている分には、ヨーロッパの鑑定も大きく狂いはしないだろう。これに対して、政治経済についてのコメントは刻々と変化するのはやむをえない。数年前の断定は今日揺らぐし、いずれまたアメリカもアジアも敵わないヨーロッパが復活するかもしれない。ともあれ、ヨーロッパの語源は神話の女神エウロペだ。このことばがあれだけの数の国を一つに包み込んでいる。一つになろうとし、着実に現実化していったEU構想をどのように評価すればいいのか。結論は将来を待たねばならないなどと言うなかれ。企業経営の決算書と同じ感覚で、四半期毎の頻度でぼくたちもその時々に鑑定を下さねばならないと思う。

何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

喜怒哀楽の大安売り

「この頃、自分でも驚くほど涙腺が甘くなって……」というため息混じりのつぶやき。「親の死に目に立ち会えなかった時も涙しなかったのに、後になって思えばあんなくだらん映画についもらい泣きをしてしまった」。こう言う中年男が、「あの映画で泣いたことを思い出すたびに、泣きたくなるくらい悔しい」とほとんど涙ぐんでいる。「男は少々のことでは泣くな!」と幼少期から躾けられたらしいが、理性に感情をコントロールする力があるかどうかは疑わしい。ラ・ロシュフコーは『箴言集』の中で「知は情にいつもしてやられる」と言っている。

誰だって哀愁漂う旋律に胸がジーンとすることがあるだろう。少々メランコリーな気分の時に切ないメロディーが重なれば、涙腺の奥が湿りもするだろう。音楽だけではない。淡々とした文章がふと人をしんみりさせたりもする。「棟方はゴッホになれなかった。しかし、世界のムナカタになった」という一文に何とも言えぬ感動を覚えたことがある。必ずしも悲しいからではなく、何かの拍子に感極まり目頭を熱くしてしまう。ツボにはまって笑いが止まらないように、涙のツボもありそうだ。

ぼくはクールな人間だとよく指摘される。ろくにぼくのことを知らないくせに失敬な! と思ったりするが、冷静かつ客観的に自分を眺めてみれば、たしかに人前で悲しみに打ちひしがれたり感涙にむせんだりすることはほとんどない。ぼくよりも一回り若い塾生の男性などは、ある一件で昔ひどい仕打ちを受けた年配の男を恨み続けていたが、ある講演会でその男の苦労話を聞いて涙が止まらなかったと言う。ぼくには考えられない出来事である。どんな事情があろうとも、その男の話を聞いてみようと心境が変化することはありえないだろう。


強がって人前で涙しないのではない。安っぽく感極まるのが性に合わないのである。ぼくだって――可愛くはないだろうが――一人でいる時に胸をキュンとさせていることもあるのだ。たとえば、詩集『海潮音』に収められている「わかれ」という一篇を口ずさむとき。

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。
されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。

経験と二重写しになるわけでもないのに、青春時代からこの詩をはじめとする諸々の詩篇に何度も喉元が詰まるような思いをしてきた。詩人ヘリベルタ・フォン・ポシンゲルがぼくを動かすのではない。英独仏伊の言語に長けた訳者上田敏の、原詩そのものが精緻にして細微な日本語で紡ぎだされたかのように思わせる語感の天才ぶりに、過敏な感応を禁じえなくなるのである。

話を急転直下で現実に戻すと、昨今とみに喜怒哀楽のバーゲン現象が目につく。安直なコントや漫才に満点を与えるほど大笑いする同業芸人ども。有名女優の離婚騒動に「腰が抜けるほど驚いた」という、某テレビ司会者の情けなさ(そもそも芸能人の結婚には離婚が内蔵されているのではなかったか)。ぼくの周囲でもいい大人が、実態を的確にとらえることができず、また、その実態に見合った適正感度で表現できずに、ギャルのように「ウッソー」「スゴーイ」「サッスガー」を連発している。そんなに安売りをしていると、ここぞという時の悲喜こもごもや感動をどのように表わせばいいのか。情報化社会のデジタルリズムに流されぬよう、ふだんからしっかりと感情センサーの手入れをしておかなければならない。

アマノジャクな読書観

平成20年に国会で国民読書年の決議がおこなわれ、今年がその〈国民読書年〉であることをご存知の方も多いだろう。ちなみに「こくみんどくしょねん」と入力したら、「国民毒初年」と変換された。何だか初めて食べるフグの毒にあたりそうな雰囲気だ。たとえ文字離れに読書離れが進んでいるとは言え、また出版界に少数の勝ち組が出現するものの頻度は稀で大半が発行即消滅というご時勢とは言え、国民の読書人口の逓減を国家や有識者や出版業界に嘆いてもらうことはない。

国民読書年のスローガン、「じゃあ、読もう。」が情けなさに輪をかける。「じゃあ」はどんな叱咤や説教に反応しているのか。「きみ、本を読んだほうがいいよ」とか「立派な人間になりたければ読書が一番だ」とか言われての「じゃあ、読もう」なのか。たしかに「そこまで言うなら、しかたがないな、読んでやろう」と聞えてくるようでもある。意地悪じいさんのようにひねくれずとも、そのような含意を感じてしまう。

そうではなく、「みんな本は好き? じゃあ、読もう」というニュアンスか。それなら、幼少年期に一斉にみんなで本を読もうというのもいいだろう。読書が教養の基礎になるのは自明だから、早い時期に習慣を刷り込んでおくことは悪くない。だが、国民全体を視野に入れれば、一人前の人間に読書の必要性を説いたり書物への回帰を促したりするのは余計なお世話だ。読書体験はあくまでも個別なものであり、何をどのように読むか、いや、読むか読まないかまで自分で画策すればよろしい。

印象的なユダヤ格言がある。「ユダヤ人は本を読まない。本を書く」というのがそれだ。なるほど、本を読むのは消費行動であり本を書くのが生産行動であるならば、経済的には本を書くほうが理に適っている。だいたい、インプット過剰でアウトプット不足というのが一般人の知の収支状況だから、赤字から黒字に転換するには、勉強という仕入れをほどほどにして創造や表現を志向すべきだろう。学ぶ者以上に教える者が学ぶのは真理である。好きでもない本を無理やり読むくらいなら、ブログの一つでも書いているほうが勉強になるのかもしれない。


人からどうのこうのと言われて読書するほど不愉快なことはない。「読め」と命じられたら読みたくなくなるし、「読まなくてもいい」と慰められたら読んでみたくなる。とりわけぼくなどはへそ曲がりなので、自分の読みたいように本を読めないのならば、本など読む必要がないとさえ思っている。成人がこの場に及んでハウツーづくしの読書術を指南される姿は決して格好のいいものではない。

どういうわけか、ぼくは周囲の人たちから読書家と思われている。正直に言うと、中高生の頃は、本を読むのが好きだったわけではなく、むしろ苦痛に感じていたのである。活字を追うよりも絵を見るほうがわくわくしたし、ページを捲るよりも音楽の流れに乗るほうが好きだった。だいいち、どんなに本を読んでも内容を覚えていることなどめったにない。それでも「読まないよりは読むほうがいい」と思いなして、無理に読んでいただけの話である。

しかし、これではあまりにも情けないので、絵画や音楽に親しむように読んでみようと心掛けた。絵は何度も見るし音楽は何度も聴くではないか。せっかく読んだのだから何がしかの成果をアタマに残しておきたい、ならば本も再読すべきなのだろうと思った。しかし、記憶しておいてどこかで使ってやろうなどという魂胆はない。ぼくにとって読書は純然たる教養行為であるか、あるいは思考を誘発するためのきっかけにすぎない。だから、目次に目を通し、少し読んでみて教養にも思考の刺激にもならないと判断したら、中断する。また、冒頭の書き出し数行で立ち止まり、そこでずっと考えて残りのページを読まないこともある。

そのような読み方も含めれば年間百冊ほどの本を読んでいるだろうが、この歳になって何冊読んだとか、どんな本を読んでいるかを自慢してもしかたがない。職業的読書人ならともかく、ぼくたちは誤ってディレッタンティズムに陥ってはいけないのである。 

速成という方法について

読書をしたり考えたり、あるいは人と交わって対話をしたり、二十歳前にディベートと出合って勉強したりはしてきた。学校以外の学び、すなわち独学や実践知に目覚めてから、かれこれ40年になる。決して学び方・アタマの使い方は下手ではないと自覚しているが、考えることと話すことにおいて、十分幸せではあるものの、有頂天の達成感に浸ったことはほとんどない。もちろん、絶対能力がぼくに欠けているという現実がそこにはあるかもしれない。そのことを差し置いても、売れ筋の本のタイトルを見るたびにごく良識的な疑問が湧いてくる。

たとえば『考える力と話す力がおもしろいほど身につく方法』などの類がそれだ。「そんなものあってたまるか」という反骨心が湧き上がって強く懐疑してしまう。もしそのような速成方法が実際に存在するならば、ぼくがコツコツとやってきた方法とはいったい何だったのかと悔やむしかない。だが、どんなに譲歩しても、思考と言語という、人間の根幹を成すような資質が一週間やそこらでものになるとはにわかに信じがたいのだ(少なくとも、ぼくの履歴の範囲ではそんな方法には一度もお目にかかったことはない)。

能力の問題はさておき、この種の本は、この本を手にするまでに一度も意識的に考える力と話す力を鍛えようとしなかった読者を対象にしているのだろうか。そもそも成人になって初めて考える力と話す力の重要性に気づいたような人は、思考と言語の自然主義の流れに漫然と棹を差してきたはずだ。つまり、考えることと話すことをあまり意識せずに、道なりにやり過ごしてきたと思われる。そのような無自覚で努力を怠ってきた彼らに「おもしろいほど身につく方法」が確約されるのである。


勿体をつけた言い回しをやめよう。そんなものがあるはずはないのである。考える力と話す力以外なら、おもしろいほどではなくとも、少々なら効果的で速い方法があるかもしれない。しかし、こと思考と言語の資質を一夜で豹変させるような特効薬など見たことも聞いたことも、ましてや飲んだことなどない。自分なりにある程度考える力と話す力を身につけてきた読者なら、おもしろいほど身につくことがありえないことを承知しているはずだから、その種の本を手にして即効ハウツーを期待するはずもないだろう。

「その種の本」に対していささか批判的すぎたようだ。せっかくの批判を引っ込めるようで恐縮だが、「その種の本」は売らんかなの表看板に反して、実際のところはまずまずのコンテンツを並べて役に立ちそうなノウハウを書いてくれているのである。おもしろいほど身につくかどうかはともかく、ぼくが逆立ちしても真似できないほど、おもしろく書いてあるのだ。さらに、タイトルによく目を凝らせば、「おもしろいほど」であって、「ただちに」とは言っていない。速成方法を説いた本だと勝手に早とちりしているのは、実は読者のほうなのだ。

著者は本が役立つと信じているだろうし、一人でも多くの人に読んで欲しいと願っているだろう。一冊でも多く売れればうれしいに決まっている。この点には大いに共感する。したがって、本のタイトルやコンテンツがどんなに巧妙に仕掛けられていようとも、著者を責めるべきではないだろう。やはり読者の良識が結局は問われることになる。思考力と言語力を高める方法は存在するが、速成の方法はない。熟成には歳月を要することを承知しておかないと、書店のハウツーコーナーで心が揺れ続ける。

語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。

刻一刻の「追思考」

「追体験」ということばはすっかり定着していて、みんなよく知っている。誰かが体験したことを自分なりに解釈して、あたかも自分が体験したかのように再現してみせることだ。たとえば芭蕉の『奥の細道』やゲーテの『イタリア紀行』を読み、自分なりに解釈しながら旅を疑似体験してみるのが追体験。旅程を辿って実際に旅をするという意味は含まれない。あくまでも、誰かの体験を想像上ないし机上で追うことが追体験である。

ほとんど聞かないのが「追思考」というマニアックなことばだ。実を言うと、追体験よりも追思考のほうをぼくたちは日々頻繁におこなっている。今夜の会読会でぼくは小林秀雄を取り上げるが、読書という行為はまさしく追思考そのものなのだ。著者の考えたところをなぞるように、あるいは追っかけるように考えていく。原思考者と追思考者の間に絶対能力の差があれば追いつくことはなく、原思考をそっくり再現できるはずもない。結局は、自分の理解力の範囲内での追体験ということになる。

昨日「できる人の想像力」について書いた。その後、夜になって自宅でそのことについて考えてみた。偉い人の思考を辿るのも追思考なら、自分の考えたことをもう一度自分自身がトレースするように追ってみるのも追思考の一種だろう。なぜなら、今日考えている自分からすれば昨日考えていた自分はどこか他人のようでもあるからだ。自分による自分の追思考をしてみると、結果的に「再考」することになるが、いったんきちんと思考経路を追ってみて再生しようとするところに意味がある。


昨日はプロフェッショナルを賛美するようなタッチで書き、専門性の源泉に想像力を求めた。自分で書いた記事を読み直し追思考した結果、想像力は源泉ではあるものの、それだけではやっぱり一流にはなれないことに気づいた。想像力豊かな専門バカもやっぱり存在するからである。日々良識をもって真偽や是非を感知する能力を実践しなければ、想像も根無し草のごとき空想で終ってしまうのだろう。

めったに先行開示はしないが、今夜ぼくは小林秀雄の『常識について』を取り上げることを敢えて明かしておく。そして、小林秀雄にはもう一編『常識』というエッセイもあることに気づき、本棚から引っ張り出して読み始めた。そこに次のような文章がある。

常識を守ることは難しいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。

ここから読み取れるのは、専門家の知識によく見られる「良識の不在」への批評精神だ。

この時点で、ぼくの考えは想像力から離陸して、同じエッセイの中の別の箇所を追思考していた。少し長くなるが丸々引用するので、興味のある方は小林秀雄の追思考をしてみてはどうだろう。

生半可な知識でも、ともかく知識である事には変りはないという馬鹿な考えは捨てた方がいい。その点では、現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実情ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無智蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。

昭和34年のエッセイゆえ、言葉の狩人にいちゃもんをつけられそうな表現が一部あるが、そんな些細はさておき、プロフェッショナルと想像力と常識に関してぼくの眼前の視界はだいぶ広がったような気がしている。小林秀雄の炯眼には感服する。