十麺十日

十人十色や十全十美のような「十□十〇」という四字熟語は、その気になればいくらでも発明できる。「十麺十日じゅうめんとおか」も創作例の一つで、「毎日違った種類の麺を飽きることなく食べる」というほどの意味を込めている。

麺はどこの国にもあり種類も豊富だ。ぼくの職住生活圏では和/洋/中/エスニック/創作のどの料理店でもたいてい麺をメニューに載せている。うどん、そば、ラーメン、焼きそば、パスタ、マカロニグラタン、ビーフン、皿うどん……欲する麺料理は何でも揃う。

平日は仕事場の近くでランチを済ませる。毎日のことなので何を食べるか悩ましい。迷ったらとりあえず麺である。この一週間も上海焼きそば、肉うどん、パスタ、胡麻担々麺などのラインアップ。店もだいたい決まっている。その一つが、秋口から通い始めた自宅とオフィスの中間点にできた中華料理店。この店にはこの街オンリーワンの麺料理がある。

中国陝西省せんせいしょう生まれの幅広い麺を使った一品。もやしとチンゲン菜といっしょに唐辛子とラー油と酢でスパイシーに炒めた焼きそばだ。見た目はホウトウに似ているが手打ちならではの歯ごたえがある。注文時に「かなり辛いですよ」と中国人オーナーに念押しされ、食べ終わると「大丈夫?」と尋ねられる。

辛いが、急いで飲み込んで誤嚥しないかぎり咳き込むことはない。金八百円也。ミニチャーハンとセットにすればちょうど千円。この店ではユーポー麺と呼んでいる。一般的な呼び名は「ビャンビャン麺」らしい。ジャージャー麵ならぬビャンビャン麺。ジャージャー麺は漢字で「炸醬麺」と表わす。では、ビャンビャン麺は? 気になって調べてみて仰天した。

これ一文字で「ビャン」。だから二文字並べて「ビャンビャン」。ワープロソフトにこの文字が搭載されているはずもなく、画像を拝借してコピーした。オンリーワン料理にふさわしいオンリーワンの漢字である。昨夜文字を凝視して頭にインプットしたが、朝にはすっかり忘れてしまっていた。

飲食の連想と手順

去る1118日はボジョレ・ヌーヴォーの解禁日。普段たしなむワインと違ってボジョレは特別な新酒。通常のワインとボジョレにはいろいろな違いがあるが、飲むまでの手順も違う。

買い置きしているワインの中から「今夜はこの赤ワイン」と決めて一本取り出す。朝に抜栓し、抜いたコルクにラップフィルムを巻いて再び栓を差し戻しておく。夕方帰宅してから飲む。空気に触れてから8時間以上経っているので酸化は進んでいるはずだが、経験的には開けてすぐよりもおいしく飲める。

ボジョレは飲む直前に抜栓するのがいい。重厚感はないが、ボジョレの特徴は新酒ならではのさわやかな香りと喉越しにある。出荷前に濾過されているが、ボジョレにおりはつきもの。したがって、グラスに注ぐ前にして雑味を取ってやるとすっきり感が増す。

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まぐろの目玉が売られていた。生で食べるシーンは連想しない。すぐさま浮かぶのは皿に盛られた煮付けである。鮪の生の目玉を煮付けに化けさせるには、「酒と砂糖と水と生姜を合わせて沸騰させ、熱湯でアクとヌメリを落とした目玉を中火で10分ほど煮る。濃口醬油を加えて弱火にしてさらに10分煮る」という調理手順が必要だ。書いてしまえば〈食材→調理→完成〉という単純な流れだが、完成形が浮かぶから調理の手順と方法が工夫されるのである。

ちなみに、料理における手抜きとは〈食材→X→完成〉の“X”の数を増やさないことだ。手数をかけないからと言って、急いで安っぽく作るわけではない。たとえばパテなどは、一から自分で作るよりもフランス製の缶詰を使うほうが数段すぐれている。上手に手抜きしてまずまずの味に仕上げるのが手料理の要領である

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川面かわもに浮かぶ鴨を見て鴨南蛮そばや鴨鍋を思うか。ぼくには、そんな連想以上に強く記憶に残るエピソードがある。〈鴨→デパ地下で200グラム買ったが、虫が付いていた→苦情を申し入れたら、担当者が謝罪のために自宅にやって来た→お詫びのしるしにと出されたのがずっしり重い鴨肉〉。測ったら1キログラムあった。鴨南蛮そばのつもりが、鴨鍋にグレードアップした望外の晩餐。

別のデパートで買った鴨肉にも虫が付いていた。「売場までお持ちいただければ交換します」という対応だった。以来、鴨と言えば、虫に注意することとデパートのクレーム対応の差を連想する。

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出されたらすぐに食べるべしという料理の代表格は天ぷら。会話中に出てきたら話を中断してでも箸を動かす。一瞥だけくれてすぐに口に放り込むから、味覚が視覚に優先する。他方、「食べるのがもったいない」とか「インスタ映えする」とか「形を崩しにくい」とか言って見つめるばかりで、なかなか口に入れない場面がある。斬新な季節のデザートやメガ盛りなどがそうだ。

鯖は煮付けにしてよし焼いてよし。足が早いので刺身は産地近くに限るが、酢じめという知恵で鯖は日持ちするようになった。料理をおまかせで頼んだ店でしめに甘酢漬けのかぶを乗せた鯖の押し寿司が出てきたことがある。その分厚さに息をのみ見とれた。食べるのを忘れそうになった。視覚が味覚になかなかバトンタッチしない最たる例だった。

昼ごはんに出掛ける

休みの日も仕事の日も昼ごはんを食べる。当たり前だ。よほど急な用事が入らないかぎり食べる。ここ一年半以上晩ごはんの外食を控えているので、その代わりと言うか息抜きのためと言うべきか、休みの昼に外食することが多くなった。

最後に晩ごはんを外食したのは昨年の10月下旬だった。人数制限のクラシックコンサートに招かれ、その後にジビエ料理店に向かった。万が一密になっていたら入らずに引き返す覚悟だった。あれから一年か。ずっと自宅で晩ごはんを食べてきたことになる。先週出張があり、ほぼ一年ぶりの晩ごはんを外食した。何もかもお任せの至れり尽くせりはありがたい。

仕事の日のランチは弁当やテイクアウトが多い。ずっと続くと息詰まるので、週に二日ほどは混んでいない時間帯に外に出る。麺類の店が多い。蕎麦ならざる。うどんはかけと別皿の天ぷら、時々ぶっかけ。中華は上海焼きそばやあんかけフライ麺。ラーメン店では担々麺かつけ麺。


休みの日は午前中に散歩に出る。散歩のルートが定まると、昼ごはんのメニューと場所の候補がある程度決まる。寿司や何でもありの定食屋にも行くが、生来の麺好きなので和洋中の麺料理を目指すことになる。休みの日は町内から離れて片道半時間以上は歩く。

この前の土曜日は、散歩ルートの前に昼ごはんをイメージした。手打ち細麺のうどん店。もっちり、のどごし、コシの三拍子揃ったお気に入りの店。肉うどんにしてゴボウのササガキ天ぷらをのせる。行ってみたら、緊急事態宣言が解かれているのに店が閉まっている。定休でもなく今だけしばらく休業でもなく、この先ずっと休業または廃業の雰囲気があった。

何か食べたいものがあってそれにありつけない時、ジャンル違いの料理では思いに反する。ひいきの店のうどんの代わりは次にひいきの店のうどんか、せめて麺類で思いを叶えたい。食べログやぐるなびを頼りにせず、麺類の店を求めて歩く。半時間弱ぶらぶらしたら看板が目に入った。店名よりも「刀削麺」の文字が大きい。迷わず決めた。

お気に入りのうどんに劣らないうまさだった。「欲しいものにすぐにありついてはいけない、ありつくまでにギリギリ待つのがいい、迷ったりさまよったりするのも悪くない」などと思いなせば、昼ごはんも日々新たになる。

食卓に着く愉しみ

🍽 16世紀フランスの「食卓では歳を取らない」という諺がある。長くても2時間の晩餐中に加齢を実感することはないと思うが、生命科学的もしくは生理化学的に厳密に見れば、たとえわずか2時間の内でも歳は取っているはず。ともあれ、歳を取ろうが取るまいが、食卓に着くのは愉しい。

🍽 雨の合間の暑い日に、さてランチに何を食べるかと少々思案し、ガツンとくる肉料理が思い浮かんだ。辛い四川風牛肉煮込みか、黒酢の酢豚か、羊肉炒めか。そうか、中華料理を欲しているらしい。メニューの多い中華料理店に入る。席に着いて少々悩み、羊肉のクミン炒めと小ライスを注文する。

羊肉と言えば、昔はマトン、今はほぼラム。食卓の「ぜん」に羊が潜み、羊には「えん」が隠れている。お勘定、¥1,400ほど。

🍽 希少食材のご馳走を自分一人で食べる場面が時々ある。誰にもお裾分けせずに食べると天罰が下るかもと思わないわけではないが、そんな恐れなどは独り占めという愉楽を微塵も揺るがさない。

🍽 「冷や酒、一合」と注文したら、店員に「カウンターのお客さま、冷やの小」と言い換えられた。人物も小さく扱われたような気がした。二合が大、一合が小と呼ぶならわし。二杯目はハイボールにした。

お通し:かわ和え
生もの:レバーとムネ身とずりの刺身盛り合わせ
焼き物:ハツ、もも、つくね、さんかく、手羽先、合鴨、うずら
揚げ物:もも軟骨の唐揚げ

地鶏焼き鳥のメニュー。焼き鳥屋は昼に営業していない。今、ぼくは夜に出歩かない。ずいぶんごぶさたしているが、続けているのだろうか。再訪できることを祈るばかり。

🍽 夏向きのパスタ「トンナレッリのカーチョ・エ・ペペ」

二人前を作る。手打ちパスタ160グラム、ペコリーノチーズ50グラム、粗挽き黒胡椒30グラム。いつものようにたっぷりの湯にひとつまみの塩を入れてパスタを茹でる。トンナレッリはローマ伝統の手打ちパスタ。太めでコシが強い。材料の妥協案:ペコリーノは値が張るので、パルミジャーノの粉チーズで代用可。トンナレッリが手に入らなければ太めの乾麺で。

いろんな作り方があるが、一例は次の通り。

茹で上がったパスタを皿に盛り、熱々の茹で汁を大匙2杯まわしかける。チーズを振り、ダマができないように軽くすばやく和え、胡椒をたっぷり振りかける。完成。彩りが欲しくても、ハーブを添えたり厚切りベーコンを足したりしないこと。カーチョ・エ・ペペ、すなわち「チーズと胡椒(だけ)のパスタ」は素朴を食すもの。

料理の呼び名

ずいぶん前に、フランス料理の名称がよくわからないので調べたことがある。ソテー、グリエ、ポワレ、ロティは火の使いかたが違う。その調理のしかたが料理の名称になっている。豚のしょうが焼き・・、豚の角、豚のニラレバ炒め・・、トンカツ・・などと呼ぶのと同じ。

フライパンに少量のバターをひいて強火で肉や魚と野菜を手早く炒めるのが「ソテー」。ぼくたちがよく作っている肉野菜炒めなどがそれだ。ガスであれ炭火であれ、「グリエ」は直火に網を置いて肉や魚を焼く。

ランチによく利用していたオフィス近くのビストロでは、スズキや舌平目の「ポアレ」がよく出た。フライパンで焼くのはソテーと同じだが、表面をカリッと、身をふんわりと焼き上げる。具材から出る脂と汁をすくってはかけて丹念に焼く。「ロティ」はオーブンを使ったロースト料理。これも外側を香ばしく、身をジューシーに仕上げる。


ぼくの職住の場は関西随一のカレー激戦区である。和製も本場系も入り混じって競合している。インド/ネパール/スリランカ料理店が徒歩圏内で10店は下らない。知る限りの店には足を運んだ。カレーに詳しいわけではないが、よく通ったという点では「通」である。

長粒米のバスマティライスがベースで、盛り付けの見た目もよく似ているし、どの店でもすべてのカレーと具をよく混ぜて食べるようにすすめられる。しかし、名称が違う。アンブラ、ギャミラサ、ミールス、タ―リー、ダルバート、ビリヤニ……。このうち、混ぜるという点では同じだが、ご飯を炊き込んでいるビリヤニだけが他と違う。

ヤギ肉を使ったビリヤニ(カレーと混ぜ、ヨーグルトソースをかけて食べる)

あるスリランカ料理店で「アンブラ」を注文した。プレートの上に乗って出てくるライス、カレー、具をすべてよく混ぜて食べる。別のスリランカ料理店でも見た目は同じ料理だったが、そこでは「ギャミラサ」と呼び、スリランカのおふくろの味だと言う。アンブラとギャミラサは基本的に同じのようである。

スリランカ料理のアンブラ(別の店では「ギャミラサ」)
小皿に盛ったタ―リー(南インドでは「ミールス」と呼ぶようだ)

ネパール料理店では「ダルバート」という名で出てくる。最近のカレー店はほとんどがインド/ネパール店という看板を掲げていて、店の数はたぶん一番多い。「ダル」が豆スープ、バートが「米」なので、カレーの他に必ず豆スープがついている。これも、おかずと漬物を混ぜて食べる。

日本人が経営する店のラム肉カレーのダルバート(混ぜる前)

インド通の日本人が書いた豊富な写真入りの本も読み、行く店々でも尋ね、いろいろ情報を仕入れてきた。結論から言うと、カレー料理の呼び名と料理の内容は「異名同実いみょうどうじつ」という関係のようである。

ピザ、ピザ、ピザの独り言

🍕 ピザが売りの、ひいきにしているイタリア料理店。ワインを提供してこその店だから、今のところ夜は営業していない。休んでいた昼に再開したので、早速行ってきた。好きなピザかパスタ、ハムを乗せたサラダ、パン、ソフトドリンクのランチが850円。良心的だ。

貼紙に曰く、「消費税のアップ、そして新型コロナ。頑張ってきましたが、71日よりランチを900円にさせていただきます」云々。謙虚な50円アップである。ここの客は1,000円に上げても、いや、1,200円に上げても必ず来るのに。

🍕 10回クイズの古典、「ピザって10回言って」。言い終わったら、ヒジを指差して「これは?」と聞き、「ヒザ」と言わせようという魂胆。もう誰も引っ掛からない。と言うか、流行りだした頃でも引っ掛かっていないのではないか。

パーティーで頃合い見計らって、「みんな、膝って10回言って!」 小馬鹿にした笑い顔で一斉に大声でヒザ、ヒザ、ヒザ……。言い終えたら、テーブルの下からピザを出し、「じゃあ、これは?」 「わぁ、ピザ!」 

このほうがウケる。

🍕 本場ではピザはノーカットでテーブルに出す店が珍しくない。これをフォークとナイフで好きなサイズに切り分けて食べる。ピザ1をシェアすることはめったになく、一人1枚ならではの食べ方だ。テイクアウトなら「何カットにする?」と聞いてくれることがあるし、聞かれなくても好みのカット数を言えばいい。ピザのカットにまつわるジョークを一つ。

店員 「8カットでいいかい?」
客  「8カットだと多くて食べ切れないから、6カットにして」

冒頭のぼくのお気に入りの店は黙って6カット。6カットなら、ナイフで切ってよし、手で持ってよし、また軽く折ったり巻いたりしてもよしだ。

食卓ネタが最後の砦

「精も根も何もかも尽き果てた」と大仰なジェスチャーで知人が嘆く。同情を禁じ得ない。尽き果てるものは人によって違う。ぼくの場合、ずっと閉じこもって仕事をしているとアイデアが出づらくなる。文章がこなれない。特に「換気」が悪いとアイデアが出にくい。空気の換気ではない。気分の入れ換えのほうだ。

なるべく人が混む場に不要不急で出掛けないように努めているが、こういう状況に置かれても、飲食だけはパスするわけにはいかない。何事があろうと食卓には着くし、さて今日は何を食べようかと思案する。飲食は最重要関心事であり、身内での主たる話題であり、こうして雑文を記すにしても食に関することなら書きやすい。

「ささやかなご馳走でも、手厚くもてなすと宴会は楽しいものになる」(シェークスピア)

強く同意するが、残念なことに、現在その宴会が推奨されないから、ご馳走したりされたりの楽しみがない。

土日くらいはランチ外食したい。徒歩圏内で一、二度行った店を思い浮かべ、営業しているかどうかチェックして出掛ける。11時とか11時半の開店直後やピークを過ぎた13時半頃に店に入る。先週は40分歩いて串天うどんを目指した。別盛りの串6本に麺は大盛り。平日のランチは軽めなのに、休みの日になると食い意地が張る。料理も味わうが、ありがたみまで味わう今日この頃である。

オフィスには常時45種類のコーヒーを置いてある。勝手に「今日の日替わり」を決めて、一日に2杯ほど楽しんでいる。今朝はコスタリカジャガーハニー。生き方や仕事では自分の思うままにならないことが多いが、コーヒーだけは貴重な「自家薬籠中じかやくろうちゅうの嗜好品」になっている。

「で、どんな味だった?」
「キリマンジャロとコロンビアの中間かなあ」
「おいおい、キリマンジャロにもコロンビアにも味はあるけど、中間・・という味はないぞ」

その店では「こし餡入り蒸しパン」と呼んで売っている。目をつぶって口に入れたら「水分多めの饅頭」のように思う。あの一品はパンか饅頭か……論争して決着をつけるべきか。いや、老店主が「こし餡入り蒸しパン」と言っているのだから、逆らわずにそっとしておいてあげたい。

喫茶店の隣りの席に二人のシニア。コロナ談義の後は行きつけの店の話。聞き耳を立てるまでもなく、聞こえてくる。
Y町のあそこもコロナで休業か?」
「あそこて、どこや?」
「ローソンの手前、右に入ったとこ」
「キタガワかいな。長いこと行ってへん。あんなとこ、前から年中休業みたいなもんやろ」
「客はオレらくらいか」
「売上より給付金のほうが大きいやろな」
「ほんまやな。夫婦二人、細々とやってたら潰れへん」

旬を食す

季節を感じながら旬の食材の食べ頃を見計らうようにしているが、店にいいものがあることが第一で、自分の都合だけではどうにもならない。

近年、春先から目につくようになった西瓜や、まだ残暑なのに店頭に並ぶ松茸に旬は感じない。食材を見てこの季節ならではと思うのはタケノコとホタルイカ。他の時季でも味わえないことはないが、出盛でさかりだと新鮮で味が格別である。タケノコに「筍」という字を与えた発想に敬服する。

筍とホタルイカの酢味噌和え

初物がもてはやされるが、それは珍しいからであって、旬の始まりが必ずしもうまいわけではない。上旬、中旬、下旬と言うように、旬は十日間を意味するが、食材の実際の旬はもっと長く、筍もホタルイカも産地では3月から5月まで楽しめる。


産地へ行かないと口に入らない旬の食材がある。一度、旬が短いとされるメジカの新子シンコを高知で食した。タイミングよく9月上旬に出張があった。生後一年未満のソウダガツオの幼魚だが8月から9月にかけての一カ月間が旬。一カ月なら短いとも言えないが、その時季に毎日店が仕入れて出すとも限らない。その後何度も旬の季節に当地を訪れているが、以来巡り合わない。

季節の産物が出盛るのは、需要と供給の法則通りになるので消費者にとってありがたい。旬というのは、本来、手に入りやすい、安い、うまいの三拍子が揃うもの。だから、ステイホームばかりしていては機会損失することになる。

足したり引いたり

ある原型にあれもこれもと足して新しい形を作る。さらに足していくと別の新しい形が生まれる。こんなふうに足し続けていけば、やがて飽和状態になる。そこから先はもう盛りようがないので、翻って盛ったものを削ぎ落とし始める。いったん足したものを引いていくと、型が徐々にすっきりとシンプルになる。これを〈洗練〉と呼ぶことがある。

足し算していくと煩雑になり野暮になる。そこで引き算に転じる。しかし、引き算には限界がある。ずっと引き続けていくと何も残らない。どこかで引き算に歯止めをかけたり、ほんの少し足してみたりして加減するようになる。有名なあのウィスキーは、「何も足さない、何も引かない」という絶妙なところに落ち着いた。


肉うどん好きの新喜劇の役者。その日にかぎって、いつもの肉うどんが重く思えた。「うどん抜きの肉うどん」という変則の一品を注文してみた。肉うどんからうどんを引けば、肉とネギの出汁である。これを「肉吸い」と呼んだ。肉吸いは評判になり、店のオリジナルメニューになった。

その店ではないが、肉吸いと卵かけご飯の定食を出す店がある。肉うどんの主役はうどんだが、肉吸いで食べるのは肉である。肉が主役だから、肉うどんで食べる肉よりも質が問われる。安物の肉では商品にならない。ぼくが注文した肉吸いの肉は割といい近江牛だった。したがって、肉吸いは肉うどんよりも高くつくことがある。

肉うどんからうどんを引いて肉吸い。ランチが肉吸いだけでは物足りないから、ご飯ものが欲しくなる。ご飯に代わる腹の足しになるものは結局麺類だから、それなら肉うどんにしておけばいい。肉吸いにうどんを足せば肉うどんの一丁上がり。

先日、蕎麦処でおもしろい一品を見つけた。「肉吸いそば」である。「肉そば」ではなく、肉吸いそば。つまり、いきなり肉そばを作るというイメージではなく、引き算の肉吸いを経由して生まれたコンセプトである。料理というものは、麺類だけに限らず、このように足したり引いたりして変化していくものなのだろう。

会計はテーブルで

どんなに評判がよくランキング上位だとしても、入ってみないことには食事処の良し悪しはわからない。今いるエリアで「カレー 近く」とスマホに入力すると数十店がリストアップされる。大阪随一のカレー激戦区だけのことはある。ともあれ、好みは人それぞれだから、この種の情報は参考程度にしかならない。

情報か行動か。自分が下す評価は行動の他にない。レストランの食後の満足度につながる要素のうち、筆頭は「味」である。他のどんな要素よりも「うまい」が決め手であり、「ふつう」や「まずい」では話にならない。

味に続く要素を順不同で考えてみる。もてなしを含めたサービス、清潔感、雰囲気、インテリア、椅子の座り心地、コスパなど、いくらでも列挙できる。しかし、料理評論家やグルメライターでもないぼくたちは「調査票」で採点するわけではない。総合評価で良し悪しを決めているのではなく、自分の関心に応じて判断しているのだ。


調査票ではおそらく項目として出てこないし、一般的にはたぶん取るに足らないことだが、ぼくにとってその店が将来ひいきになりそうな要素がある。それは、今しがた食事を終えたそのテーブルで、着席したまま会計ができることだ。「お勘定してください」に対して「(勘定書きを)お持ちします」と告げられる。テーブルサインを置いてある場合もある。

出張時や買物帰りは持ち物が多い。食後に荷物を携えてレジに行き、勘定書きを示して会計するのは煩わしい。料理のうまさが――ひいては食事の満足度が――半減することさえある。にもかかわらず、ほとんどの店では上着を抱えカートを引っ張ってレジに向かい、財布を取り出さねばならず、支払ったらすぐに店を出る。

先日の中華料理店では、ホール兼会計担当者が二人しかいなかったが、手際よくテーブルで会計をしてくれた。食事をしてお手洗いを済ませ、また席に戻ってきて会計を告げる。現金でもクレジットカードでもいい。実にスムーズかつスマートだ。支払い後にお茶の一杯も飲める。「とてもいい食事ができた」という満足感の画竜点睛を欠かずに済むのである。