ある原型にあれもこれもと足して新しい形を作る。さらに足していくと別の新しい形が生まれる。こんなふうに足し続けていけば、やがて飽和状態になる。そこから先はもう盛りようがないので、翻って盛ったものを削ぎ落とし始める。いったん足したものを引いていくと、型が徐々にすっきりとシンプルになる。これを〈洗練〉と呼ぶことがある。
足し算していくと煩雑になり野暮になる。そこで引き算に転じる。しかし、引き算には限界がある。ずっと引き続けていくと何も残らない。どこかで引き算に歯止めをかけたり、ほんの少し足してみたりして加減するようになる。有名なあのウィスキーは、「何も足さない、何も引かない」という絶妙なところに落ち着いた。
肉うどん好きの新喜劇の役者。その日にかぎって、いつもの肉うどんが重く思えた。「うどん抜きの肉うどん」という変則の一品を注文してみた。肉うどんからうどんを引けば、肉とネギの出汁である。これを「肉吸い」と呼んだ。肉吸いは評判になり、店のオリジナルメニューになった。
その店ではないが、肉吸いと卵かけご飯の定食を出す店がある。肉うどんの主役はうどんだが、肉吸いで食べるのは肉である。肉が主役だから、肉うどんで食べる肉よりも質が問われる。安物の肉では商品にならない。ぼくが注文した肉吸いの肉は割といい近江牛だった。したがって、肉吸いは肉うどんよりも高くつくことがある。
肉うどんからうどんを引いて肉吸い。ランチが肉吸いだけでは物足りないから、ご飯ものが欲しくなる。ご飯に代わる腹の足しになるものは結局麺類だから、それなら肉うどんにしておけばいい。肉吸いにうどんを足せば肉うどんの一丁上がり。
先日、蕎麦処でおもしろい一品を見つけた。「肉吸いそば」である。「肉そば」ではなく、肉吸いそば。つまり、いきなり肉そばを作るというイメージではなく、引き算の肉吸いを経由して生まれたコンセプトである。料理というものは、麺類だけに限らず、このように足したり引いたりして変化していくものなのだろう。