学ぶだけでいいのか?

「今日は大きな学びをいただきました」と受講生が言う。「学びをいただきました、以上」。それでいいのか、それだけでいいのか?

研修を受ける社会人は大いに学んでいる。学びはたいせつと言う。その通りである。しかし、社会人なら学びの前に何がしかの知見を意識的にスタンバイさせておくべきだ。実際はそうではなく、大半が手ぶらで研修に臨む。学んだ知識模様で白紙を染めるだけ。知識は熟成することなく、結局ハウツーを手っ取り早く職場で試すのが精一杯。

ハウツーは陳腐化するから、うまくいかなくなると次なる学びに赴く。研修マニアには凝り性の飽き性が多い。どんなに学んでも元の木阿弥。本を読むのも同じこと。はじめに構想や知見があってこその上手な読み方なのである。


誰かの書いた文章、誰かが話した事柄を記録し反芻することに異議はない。しかし、土台となる自分の能力や経験のことを忘れてはいけない。自分なりに「料理」しなければ何事も起こらない。本も他人の話も材料にすぎない。料理してこその素材である。

料理というのは構想であり、着眼である。素材を見つけて選ぶことであり、組み合わせ、手順を決めて仕上げることである。学びは料理を以て初めて自分のものになる。

学びから料理へと話を突然変えたのではない。料理とは「ことわりはかる」こと。いかにも論理的で化学的ではないか。なるほど、かつて料理は考えるという意味で使われたことに頷ける。自ら考えるという料理をしなければ、学びという食材を生かすことはできないのである。

時間のこと

ある日突然やってくる。時間のことを考える時間が……。たとえば、時計の針で表わされる時間を過剰に意識した一週間の後の休日に、時計の文字盤で刻まれる時間とは別の抽象的な時間のことを考えることがある。秒針の音が聞こえない、概念的な時間。

「時間が過ぎた」という表現は半時間や一時間にも使えるし、長い歳月を暗示することもできる。先のことを考えるなどと言って、一ヵ月や一年先の話を持ち出すが、そんな時間スパンで物事を考えることはめったにない。したいと願っても、自分の身の丈の先見性では所詮無理である。

一日はあっと言う間に過ぎる。一ヵ月は長すぎる。と言うわけで、一週間が時間の分節としてポピュラーになる。週単位の時間サイクル思考をしている自分に気づく。一度水曜日始まりのカレンダーを自作したことがある。若干発想の転換を図ることができたが、不便このうえなく、すぐにやめた。


カレンダーは日曜日始まりか月曜日始まりと相場が決まっている。始まりが必ずしも重要な曜日とは限らない。

長年親しんできた休息の日曜日。ぼくにとってそれは始まりではなく、週という時間の中心概念。そのイメージを図案化して印を彫ったことがある。太陽系と時計の文字盤の合体。名付けて「週時計」。

よく「時間待ち」などと言う。実際に待っているのは時間ではなく、別の何か。何かのためにやり過ごさねばならない時間。時計を乱暴に扱えば潰せるが、時間を潰すのは難しい。時間は無為に過ごすか、うまく生かすかのどちらかであり、反省したり満足したりの繰り返し。

時間は不思議である。時間のことを考えると余計に不思議になる。やがて面倒臭くなって考えるのをやめる。しかし、時間のことを考える時間は、忘れた頃にふいにやってくる。

愉快がる生き方

ジョージ・クルックシャンク(1792-1878)は英国の諷刺画家であり挿絵画家である。絵画展に行ってきた。彼の作品は時代を反映した諷刺画なので、時代考証を踏まえないと読み解くのが難しい。けれども、小難しい意味を棚上げしてひとまず鑑賞してみる。精細なエッチング技法が描き出す雰囲気は理屈抜きに微笑ましい。大いに愉快な気分にさせられた。

愛想笑いで場をやり過ごす人を見受けるが、実に情けないと思う。笑うに値しなければにこりともしなければいいではないか。社交辞令と妥協は愉快の敵だ。愉快がるのは条件反射的におもしろいと感じ、あるいは本心からおもしろいと思うからである。

趣味も仕事もおもしろいから続けられるのであり、続けているうちに愉快がる技術が身についてくる。ちなみに、難しさとおもしろさは相反しない。むしろ、容易にうまくいかないとかなかなか上達しないことは愉快の条件でさえある。


どんな些事であれ、小さな雑学であれ、知に貪欲であろうとする他者を小馬鹿にしない。目くじらを立てて饒舌に語る青二才を嘲笑しない。そういう姿勢を保っていると、愉快領域が広がってくる。愉快だと思わないのは、己の鈍感かもしれないとたまには自省してみる必要がある。

人が何かに凝るのは、理屈ではなく、愉快だからである。どこがおもしろいのかと他人に思われようと、ぼくは愉快だから散歩し、愉快だから珍しいものを食べ、愉快だから談論風発する。大仰な志に動かされているのではない。

人生の究極は幸福であると喝破したアリストテレスにあやかれば、日々生きていけるのは愉快だからであり、愉快が幸福に近いからである。愉快がっていれば、早晩、辛さや難しさが軽くなる。軽くなるかもしれない辛さや難しさを回避していては、幸福の権利を放棄したも同然だ。

食事の更新、意味の熟成

あっという間に半日、一日が過ぎる。今日のように休日に仕事をしていても、仕事そのものを愉しみとしながら、ああすればよかった、えらく遠回りしてしまったなどと、自責と後悔の念に駆られる。

休みの日に映画を観て、文具店と書店に立ち寄り、カフェに入って本を読みノートに駄文をしたためる。コーヒーを味わい小さなパンをつまむ。夕方にはマルゲリータでワインを飲む。見方によっては、無為徒食と一線を引くのが難しい一日の過ごし方だ。

それでもなお、無為に日々が過ぎていたとしても、決して徒食してはいないという自覚がある。とびきりの充実感に満たされているわけでもないが、そんな一日でも小さな意味の断片が織り成されていることに気づく。


生きているかぎり、生きようとしているかぎり、毎日何度か口に食べものを運ぶ。「最愛の夫を亡くした未亡人もお通夜を終えておむすびを口に入れる」と誰かが言った。人は食べる。そして、そのことに無関心であってはいけないし、何をどう食べるかになまくらであってはいけない。衣食住のうち、衣と住の更新に比べれば、食の更新ほど頻繁なものはない。食の更新が一見慢性的な日々の意味を少しずつ熟成させていると思われる。

朝から考え抜いて書き上げた仕事を振り返り、やり切った感には程遠い。考えて書くことに意味なしとは思わないが、昼につまんだ質素なひじきのおにぎりの意味の熟成ぶりには及ばない。

グルメを貪るという食ではなく、日々の生き方における食。食がつまらなくなる時、たぶん日常はすでにつまらなくなっている。大した仕事はできなかったが、今夜も夕ご飯が更新される。

可能的なこと

勘違いしてはいけない。不可能が可能になるのではない。もともと可能的なものが現実に可能になるのである。

〈不可能〉に挑戦すると言えば、聞こえはいい。しかし、いきなり〈不可能〉に? 性懲りもなく〈不可能〉に? そんな時間があるのなら、今はできていないが、何となくできそうな予感が湧くことから始めるのが筋ではないか。

不可能だと思っていたことが可能にならないわけではない。先入観で勝手に不可能のラベルを貼っていたことが、何かのきっかけでラベルが剥がれる。あるいは、実際に何度かチャレンジしてできなかったが、その後技能が向上してある日できるようになることもある。


しかし、再びよく考えてみよう。できないことにはいろいろなレベルがある。不可能としか思えないこともあれば、不可能と断定できないこともある。他にいろいろやらねばならないことを抱えている時に敢えて前者に挑む理由はなく、可能的なことにひとまず着手してみるのが妥当だろう。

どちらの食材も食したことはないが、食べられないと思うものと、食べられるかもしれないものを比較して、ぼくたちは食べられそうなものから口に入れる。食べ物は目に見えたり触れたりできる現実だからわかりやすい。しかし、不可能や可能というラベルで現れてくるのは「もの」ではなく「こと」。見えづらく摑みづらい。よくわからない。そして、よくわからないことに対して、人は何となく不可能なほうを選んでしまうものだ。

もし類まれな眼力が授けられるなら、不可能なことと可能的なこと――できそうもないこととできそうに思えること――を見分けることに役立てたいと思う。「人生は短い」とセネカは言った。これまでの経験と持ち合わせている才能をよく見極めて、可能的なこと――何の根拠もないが、不可能よりもよほどましだと予感すること――に力を注ぎたい。

多様性という逃げ道

「個々特有の性質や事情を考慮せず、何がしかの規格に従って全体やすべてを一様にそろえること」。これを画一という。画一には「主義、的、化、性」などの接尾語が付くことが多い。こんな接尾語がくっついてしまうと、ただでさえわかりづらい概念がいっそうわけがわからなくなる。

かつて画一がもてはやされた時代があった。画一的に大量生産されたテレビを買い、画一的価値観を持つ大衆が画一的な番組を見、画一的な居間で画一的な感想を述べ合い、画一的な喜怒哀楽を分かち合った。当然反作用が起こり、高度成長時代の真っただ中に生きた世代には画一という現象とことばにアレルギーを持つ者が少なくない。


反作用は当然ながら「多様」へと向かった。多様性は今では絶対的に歓迎されているかのようである。生き方の多様性、場や役割の多様性、意見の多様性、何よりも種としての人間の多様性……。グローバルという、一見画一的に世界を眺望する捉え方も、根っこのところでは多様性を前提としている。

反面、この多様性を肯定することが、公平や平等などと同じく、その万能性によって逃げ道を用意することになる。つまり、「多様性はいいことだ」と言い終えて黙り、他に何も言わない。高度成長時代の「大きいことはいいことだ」を暗黙のうちに認めたのと同じような空気が漂う。

「多様性はいいことだ」。たしかに。しかし、多様性ゆえにどうなのだ、どうするのかという問いが続かねばならない。多様性の時代や社会でいったい何を決断し何に向かっていくのか――このことが不問に付されている。多様性は固有の価値を見つけられない者にとっては逆風になることを忘れてはいけない。

時代の最前線

言うまでもないが、未来はまだ来ていない。現在に続くのが未来ということになっているが、先回りして見ることはできない。すでに体験した過去の最前線に位置している現在ならある程度わかっている。しかし、一寸先はわからない。先端技術や流行の話をしているのではない。

今生きている老若男女のすべてが時代の最前線にいる。最前線にいて、見えない未来に直面している。その先に何があるかわからないから、不安に陥り落ち着かない。わからないゆえにワクワクすると言えるけれど、崖っぷちで見えないものに向き合っているのをイメージしてみればいい。決して楽天的になれるものではない。


だから、未来を見たい、知りたいという思いが募る。自力で見たり知ったりするには非力だから、誰かの空想や予想に頼りたくなる。誰かとは誰だ? 同時代人である。彼らもまた同じ時代の最前線にいる。空想や予想はぼくらと似たり寄ったりではないか。

誰もが過去を引き連れて現在に生きている。みんなが最前線にいて、未来を展望できる絶好の位置取りをしている。どんなふうに未来を展望できるのか? 結局、引き連れている過去と生きている現在を手掛かりにするしかないのである。

ハイコンテクスト文化考

「例の件、ひとつよろしく」
「了解しました」

これで会話完了。お互いにわかっている(少なくとも、わかり合えていると思っている)。このようなコミュニケーション習慣が当たり前になっている状態を〈ハイコンテクスト文化〉と呼ぶ。

コンテクストとは文脈や行間のこと。それが「ハイ」であるとは、文化的に規定され共有されている要素が多いことを意味する。つまり、他の文化圏から見れば抽象的でよくわからないのだが、ハイコンテクスト文化の人たちなら何から何まで言わずとも、断片的情報だけでおおよそのことが伝わり、またお互いの意図を察することができる。みなまで言うのは野暮、ことば少なめな「察しの美学」こそが洗練だと見なす。

この逆が〈ローコンテクスト文化〉である。共有認識できていることが少なく、含意的な文脈や行間が現れたらそのつど読まなければならない。読むためには情報が必要である。したがって、ローコンテクスト文化の構成員はお互いに情報を増やしてコミュニケーションし、物事を以心伝心ではなく、具体的に語り尽くすのである。


ハイコンテクスト文化だから情報やコンテンツがいらないというわけではないが、情報やコンテンツを省略する傾向が強くなる。ハイコンテクストが極まると、言わなくてもいいことはしつこく繰り返すが、言わねばならないことにはあまり触れない。写真一枚だけを見せることはあっても説明文キャプションで補おうとしない。

コンテクストがハイであろうとローであろうと、コミュニケーションは何がしかの共有コンテンツを前提にしておこなわれている。共有コンテンツが多ければことばは少なくて済み、他方、共有コンテンツが少なければ足りない分をことばで補充しなければならない。五七五で伝わることもあれば、いくらことばを蕩尽しても伝わらないことがある。しかし、たとえばビジネスシーンでは五七五ではいかんともしがたく、微に入り細に入り饒舌気味に語り合わねばならない。

ハイコンテクスト文化でも世代間には異質性が認められる。たとえば「山と言えば何?」と問う。符牒だと察して「川」と反応する高齢者に対して、若者は「緑」や「高い」と答える。ITが加わってコミュニケーション形態が多様化した現在、同じ世代にあっても、口頭では多くを語らないが膨大なメール文を交わす者もいれば、その逆もある。ともあれ、伝わるはずと信じて言を慎んでいてはリスクは増大するばかりである。

自分はアナログ、他人はデジタル

自分のことはわかりづらいとも言えるし、自分のことなのだからわかりやすいとも言える。ことばで示せなければわかっていないという前提に立てば、自分のことを分かっている人は極端に少なくなる。では、ことばで自分を言い尽くせばわかったことになるのか。いや、それでも、どこまでわかっているかが問われる。

自分の認識や理解のしかたはかなり身勝手である。ギリシア時代の哲学者プロタゴラスが「人間は万物の尺度である」と語った時、その人間とは平均的な人間のことではなく、また万人のことでもなかった。一人の個人、つまり、ぼくやあなたのことであった。個人の尺度なのだから、誰にでも通用する基準という見立てではない。

今さら言うまでもないが、人間は自分の意識や感覚をおおむね漠然と捉えている。何から何まで定規で測ったようにわかっているわけではない。ある意味で、自己認識と自分理解はざっくりとアナログ的なのである。自分事だから、いちいち几帳面にアイデンティティを確認する必要がないからだろう。


ところが、アナログ的存在とも言える自分が、いざ他人を理解しようとすると根掘り葉掘り探り、分析的になる傾向が強くなる。たとえば、一挙手一投足から意味を読み取ろうとするし、他意のないことばのあやから真意を推論しようとする。他人をデジタル的に測ろうと目論むのである。

アナログは現象や推移を大まかに捉えるが、デジタルのほうは位置や有無を正確に表わす。アナログな自分がデジタル的に他人を認識すればどうなるか。ルーズな自分のことはさておき、他人のルーズさにはうるさく言うようになる。自分は適当なことば遣いをしているくせに、他人の一言一句には敏感に反応し、理解しづらければ神経をぴりぴりさせ、揚げ足を取って愚痴を言う。

「他人をデジタル的に測ろうと目論む」と書いたが、目論みがうまくいく保証はない。デジタルは理解のための方便として持ち出されはするが、そもそも人間という尺度はデジタルとの相性が良くない。実際は、自分のことをアナログ的に捉えると同時に、他人をもアナログ的に捉えている。どう転んでも、認識や理解には甘さが残る。厄介だが、だからこそ人間らしいという見方もできる。

知っていること、知らないこと

何もかも知ることはできない。知っていることは限られている。限られている上に、知りたいことや知っておくべきことを絞るものだから、知っていることなどたかが知れている。あまりものを知らない他人と比べて自分は博覧だと思いがちだが、だいたいが五十歩百歩。誰の博覧も、その意味に反して実は「狭い」のである。

魚屋であれこれ品定めし値踏みして、捌きたてのたらを買うことにした。その横に同じく「タラ」と書いてある、鱈とは思えぬ姿の一品を見つけた。どうやら内臓らしい。聞けば「タラの子」と言う。「えっ、タラコ?」「うーん、スケトウダラのあのタラコではなく、マダラの卵巣ですよ」「これって鍋用ですか?」「いいえ、煮つけ用です」……正確には覚えていないが、ともあれ、こんなやりとりを交わして、これも買って帰ってきた。

鱈と言えば、銀ダラの粕漬けを焼き、マダラを鍋にし、フィッシュ・アンド・チップスなどでたらふく食べてきた。タラコも明太子もだ。しかし、この鱈の生の卵巣(別名「助子すけこ」)が売られているのは初めて見た。これまでにこの原形から調理して食したことは一度もない。


鱈も卵巣も知っている。しかし、鱈の卵巣の姿は見たこともなく、触って調理するのは今日が初めてである。この状態を知っていると言っていいものか。名前を知っている、聞いたことがあるなどというのは「真知しんち」の域には及んでいない。であるなら、「知らないこと」に振り分けておくのが妥当なのだ。

知っていることや知っているつもりの領域に知らないことがおびただしく紛れ込んでいる。ふるいにかけてみれば残るのはわずかな知。ぼくたちはほとんど何も知らないということになるだろう。一つのことを知るまでには深い縁と長い時間を要するのだ。今日のぼくの鱈の卵巣との出合いがそのことを象徴している。

さて、グロテスクな卵巣の煮つけが出来上がった。見た目は鯛の子の煮つけに似ている。今夜はこれをあてにして日本酒を少々。もちろんその後に鱈ちりをたらふく食らうつもりである。