表現品性とユーモア

以前紹介したが、『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著)という本がある。錚々たる書き手による誤植のエピソードをまとめたもの。竹内寛子の「誤字」という一文が印象に残っている。誤植は作者の非ではなく、製版や印刷過程で生じるミスプリント。対して、誤字は原稿時点での作者の間違い。竹内は言う、「間違い方にも人は出る。よきにつけ、あしきにつけ、人と離れようのないのが文字遣いであり、言葉遣いである」と。

ことばのミスを完全に避けることはできない。絶対にしてはいけないと気を引き締めていてもミスの罠はあちこちに仕掛けられている。しかし、「間違い方にも人は出る」と指摘されると心中穏やかではない。悪気はなく、舌が軽く滑っただけなのに、失言に人柄や品性が出てしまう。下品が失言すると下品になり、上品は失言しても何とか品を保つ。

ネット上で注目された56年前の投稿を思い出す。文中に散りばめられた強烈なことば遣いの数々。「保育園落ちた 日本死ね」「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「何が少子化だよクソ」「子供産むやつなんかいねーよ」「そんなムシのいい話あるかよボケ」……。

違和感のある表現が、このようにほざくしかなかった事情の前に立ちはだかる。事情がどうであれ、「死ね」「じゃねーのかよ」「クソ」「ボケ」などのことばを多用する者をぼくは原則信用しないことにしている。こうした表現をギャグとして使うお笑い芸人もいるが、芸もたかが知れている。上品がつねにいいとは言わないが、下品はつねによくない。ほどよい品性を下地にしてこその批評であり喜劇なのである。


周囲に目配りも気配りもせず、車内の優先座席で座って知らん顔している高校生にいきなり罵言を吐き怒号を浴びせた高齢の男性がいた。正義感に火が付いての言動だったが、下品に過ぎた。高校生のマナー違反の現象が小さく見えてしまい、高齢者の正義感を誰も支持しなかった。「じいちゃんの言う通りだ」と共感した乗客はほとんどいなかった。

「保育園落ちた」にも「座席ポリス」にも共感者はいる。自分勝手にテンションを上げていると感じるから、ぼくにはどちらも後味が悪く、苦笑いすらできない。読んだり居合わせたりするこっちの顔が引きつるばかりである。英語スピーチ術の定番の教え、It’s not what you say, but how you say it.”は「何を言うかではなく、どのように言うかである」という意味だ。表現の質は意見の妥当性よりも重要である。

うまそうな肉を焼いたのに、乗せた皿が悪かった。主張に引き込もうとしたのに、そんな言い方はないだろうといさめられる。とは言え、表現品性を高めるのも容易ではない。しかし、ミスにしても批評にしてもほんの少しユーモアの色味を足せば、何とかなるのではないか。

神がいないばかりではない。もっとひどいことに、週末にブリキ職人に来てもらうこともできない。

「神がいないこと」を下品に言うと大変なことになるが、ブリキ職人を登場させるだけで愉快な批評になる。これはウッディ・アレンのことば。怒鳴っていないし、いきり立っていない。

漢字の認識と運用

「漢字を書く」と言っても、PCのワープロソフトを使っている時は漢字を書いてはいない。キーボードでたとえば”koushou”とローマ字入力して、画面に現れる「交渉」をはじめとする、「こうしょう」と同音のおびただしい候補リストから自分が使いたい漢字を選んでいるにすぎない。

鉛筆やペンで紙に漢字を書く時に、「さあ、あなたの欲しい漢字はどれ?」と誰も聞いてくれないし、選択肢も与えてくれない。自分の〈脳内辞書〉で候補を検索しなければならない。そして必要な漢字を実際に正確に手書きしなければならない。翻って、ワープロソフトを使う時は漢字は書いていない。認識したり選択したりしているだけである。

「林檎」と書けなくてもいいのだ。“ringo”とキーを打ち込めば、「りんご」や「リンゴ」に混じって林檎が出てくる。漢字はそれだけなので、その文字をクリックすれば文中でそのまま使える。「きかい」の同音仲間には機械、機会、奇怪、貴会などが出てくるが、知っていて認識さえすればどれも正確に書けなくてもよいのである。


ぼくの企画研修の中に「コンセプトの創造」という一章がある。講義の冒頭で「たか・・わし・・が書けますか?」と尋ねる。受講生のほとんどは20代~40代半ば。両方書ける人は1割にも満たない。鷹と鷲を書けなくても特に困ることはない。タカ、ワシと書けば済む。ちなみに、コンセプトは人が創るものという説明のために、「鷹も鷲もタカ目タカ科であり、生態的差異と言うよりもコンセプトの差異によって区別されている」という話をする。

鷹と鷲が書けない大人は大勢いるが、“taka”と入力すれば「高」と「鷹」しか出てこないから、鷹を選べる。”wasi”と打てば「和紙」と「鷲」くらいしか出てこないから、これも選ぶのは簡単である。認識はできるが、運用できるかどうかはわからない。しかし、運用ができれば――つまり、書ければ――読むことはできるはずだ。

ほとんどの文書作成がワープロでおこなわれる現在、漢字が読めたり書けたりするのは「検定的意義」か「雑学的価値」しか持たない。まあ、難読字を知っていれば周囲に少しは自慢もできるだろう。言語学では以前から「認識語彙:運用語彙=31」と言われてきたが、差はもっと広がっていそうだ。これから「手書き」はどうなっていくのだろうか?

語句の断章(30)概念

「コンセプト」という用語を使わずに企画手法を講義するのは難しい。広告業界で普通に使っているこのことばを、はたして初めて企画を志す人たちにきちんと説明できるだろうか……ある時ふとそう思い、私塾の講座の前にいろいろ調べたことがある。

ラテン語起源のconceptコンセプトには「つかむ」という意味がある。哲学用語としてよく使われるBegriffベグリッフはドイツ語で、これも「つかむ」である。明治時代にこうした外国語に触れた時、対応するやまとことば・・・・・・が見当たらず、「概念」という和製漢語をこしらえた。でたらめに漢字を選んだわけではない。「概」にもつかむという意味があったのである。

概は「ガイ」と音読みし「おおむね」と訓読みする。稀に別の読み方がある。「とかき」がそれ。升に盛った穀類や豆類を平らにならす時に使っていた棒、あれが「斗搔とかき」だ。適当に米や小豆を升に盛り、盛り上がった分を斗搔きですり切り、升の中の内容量を「いつものようにほぼ・・同じ」にする。

概はおおむねなのだから、厳密に正確ではないし多少の例外も生じる。しかし、全体がある程度正しければ良しとする。手でジェスチャーするのは難しいが、「こんな感じのコンセプト」と言う時に、ややことば足らずながら、何とか苦心して一言にしたり一行にしたりする。概念は「対象をおおよその認識でつかむこと、そしてその想いをことばにすること」という感じなのだ。

コンセプトを概念と訳してしまうと哲学や思考の難しい方面の響きになるが、感覚を言語に置き換えるプロセスでの「だいたいこんな感じ」という、仮のつぶやきだと思えばいい。概念は抽象的と誤解されるが、決してわかりづらいものではない。個々の特殊性にこだわらず、全体を見た時にどんな共通性があるかをざくっとつかむことなのである。

語句の断章(29)自家製

「自家製」と言っても、作るものの要素の何から何までもが自家製であることは稀だ。一般家庭の自家製ポテトサラダの場合、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、それにマヨネーズはスーパーで買ってきているはず。自家製なのは、潰したり切ったりえたりする調理過程だけである。

使い慣れた自家製だが、その意味は? 『新明解国語辞典』には「自家」という見出しがあるのみ。「その人自身の家」と説いて「――・製」という例を示すにとどまる。これでは何だかわからない。『広辞苑』はどうか。自家製とは「自分の家で作ること、またそのもの」と書いてある。そんなことくらい、漢字を見たらわかるではないか。

「自分の家」で用意するものと他所よそから調達するものの割合によって自家製と呼べる・呼べないがあるのかどうか。その境界がよくわからないし、作る対象によって自家製と呼べたり呼べなかったりするような気がする。ポークのゼリー寄せという料理がある。豚を飼っていて屠畜して肉を使っていれば純粋に自家製だ。しかし、豚のスネ肉や足を買ってきて細かく刻んで自ら調理しているなら、それもれっきとした自家製である。

ポークのゼリー寄せ

自家製は「作る」という視点ではなく、「他所で出来上がったものをそのまま使っていない」という意味でとらえるのが正しい。うちの自家製ポテトサラダは業務用に売られているものを使っていない、うちの自家製ポークのゼリー寄せはデパートで買ったものではないという主張であり、少なくとも調理過程では自分の手で工夫しているということだ。

麵、スープ、焼き豚を自分で作っているのなら、自家製と呼んでもいい。しかし、ぼくが自宅で作るパスタ料理を自家製パスタと呼ぶには違和感がある。だから「家で作ったパスタ」でいい。買ってきたベーコンではなく、自分で燻製にしたベーコンを使っているのなら、自家製の燻製ベーコンと言えばいい。どうやら、自家製と相性がいいのは料理の要素であり、出来上がった料理そのものではなさそうだ。

だから自家製サラダは不自然に響く。「自家菜園で採れた野菜を使ったサラダ」と言えばいい。スーパーで買ってきた野菜に市販のドレッシングを使ったサラダは、たとえ手作りであっても自家製ではない。梅もリカーも買ったけれど、自分で漬ければ自家製梅酒。同じく、漬物も自家製と名乗ってよい。なお、器具や機械を使っても手作りと呼ぶことがある。もし手以外に何も使っていないことを強調したいのなら、たとえば「手ごねハンバーグ」である。

シャンプーとリンス

この時期理髪店に行くと、シャンプーもトニックも涼感メントールを使ってくれる。すっきり爽やかな気分になって店を出る。但し、効果は長続きしない。灼熱の空気の中をしばらく歩いているうちに頭と額から汗が滲み出る。

「シャンプーとリンス」という題名ではあるが、記憶と検索にまつわるエピソードを書く。先日、シャワーを浴びシャンプーをしている最中に「ブログでシャンプーということばを使ったことがあったかなあ?」とふと思ったのである。書いた覚えはあるが、どんな内容かまったく思い出せない。

こんな時、手帳で探し当てるにはエネルギーを要するが、ブログなら記憶にないことを一発検索できる。検索窓に「シャンプー」と入力したら1件がヒットした。1件のみである。次のような文章を7年半前に書いている。

「理髪店に行くと、何かが変わる」という一文を読んだことがある。たしか、「まずヘアスタイルが変わり気分が変わる」ようなことが書いてあった。そして、「もしかすると、魂が変わり、ひょっとすると、髪型だけではなく顔も変わるかもしれない」というようなことが続いた。しかし、現実に変わるのは髪型と気分だけで、それ以外は変わらない。変わると思うのは妄想である……と書いてあったような気がする。理髪店は妄想の時間を提供してくれる。だから、最後にシャンプーで妄想を洗い流す……

以前読んだ本のうろ覚えの話を再現した文章である。妄想多き人にはシャンプーをおすすめしたい。


シャンプーとくれば、次はリンスである。シャンプーのことは書いても、リンスはたぶん書いていないと半ば確信して、これも検索してみた。驚いた。1件だったシャンプーに対して、リンスは3件ヒットしたのである。リンスのことを3回も書いたとはにわかに信じがたかった。1件目は次の文章である。

(……)カフェやレストランは四季の節目単位で模様替えしているかのようである。しばらく足を踏み入れないと、迷宮(ラビリンス)のさすらい人になりかねない。

意味内容まで精査せずに、文字づらだけを探し出すのが検索。ラビリンスの「リンス」を拾った。リンス違いである。シャンプーで妄想を流した後は、リンスしてさまようのか。

2件目と3件目は同じ。なんと「ガソリンスタンド」である。ガソリンスタンドからリンスを拾うとは、PC検索ならではの「ぎなた読み」である。

と言うわけで、本家のリンスについては一度も書いてないことがわかったが、今回のこの記事の公開後、早速検索に引っ掛かることになる。

「たちはたらく」

「たちはたらく」とあれば、「たちは/たらく」とか「たちはた/らく」とか「たち/はた/らく」ではなく、たいてい「たち/はたらく」と読む。では、この「たち」の漢字はどうか。これも、達、舘、質、太刀などとひねることはなく、おそらくシンプルに「立ち」と想像して、「たちはたらく」を「立ち働く」と突き止めるはずである。

この「立ち働く」ということばが読んでいた本に出てきた。自ら使ったことはない。どこかで見たような気がしないでもないが、めったにお目にかかれない表現だ。この立ち・・が「立っている」という意味でないことはわかる。その場にじっと立っているだけでは稼ぎにならない仕事もある。「小まめに働く様子」が浮かぶ。念のために辞書を引いてみた。

『新明解国語辞典』

「立ち」は接頭辞である。これが付く動詞は少なくないが、「身体的に立つ」という意味を持つのはわずかである。「立ち――」は「実際に――する」というニュアンスを感じさせる。


「あの人は立会人のくせにずっと座っていた」などといういちゃもんは成り立たない。立会人の仕事は終始立つことではない。席に座っていても立ち会うことができる。実際にその場にいることが重要で、立っているか座っているかは問題ではない。バーチャルではなくリアルに臨場することが立会人の果たす使命である。

「立ちまさる」という表現もある。単に「優れている」とは違う。「立ち」は、その後に続く行動・行為の一途いちずさを強調する。何もかもが勝っているのだ。断然で圧倒的で決定的な勝りようであり、その立場は現実には覆りそうもない。大きくリードした九回裏に易々と逆転されることもない。

立ち至る、立ち返る、立ち向かう……いろんな表現がある。「立ち至る」は、「重大な局面に立ち至った」と使うように、予測ではなく、現実になる状況を示す。「立ち返る」は、体操の技ではなく、もと居た所や出発点に戻る意にほかならない。敵に立ち向かうのなら、覚悟して本気で掛かっていかねばならない。ある方角に赴くという意味の「向かう」とは一線を画しているのだ。

ことばから離れない

他人ひとと直接会って冗談を言い合えない日々が続いて早や一年半。ジョークもギャグもおもしろく感じなくなった。普通の会話すらできなくなって、いろんな意味で余裕をなくしてしまったようだ。新型コロナという「ドキュメンタリーな時代」では、とりわけ失語症に気をつけないといけない。

仕事柄、ことばを文字として読んだり書いたりする機会は今もある。それで何とか生活が維持できている。激減したのは、聴覚器官が捉える、生の声による音の波だ。そして、聴く以上にごぶさたしているのが目の前の相手に対する発声。話の内容や相手に応じた、ちょうどよい距離感の喋りがほとんどできていない。おそらく勘が鈍っている。

コロナ以降、取引している銀行からの電話が多くなった。訪問しづらくなったので、あの手この手で話を持ち掛けてくる。飛び込みセールスならぬ、飛び込み営業電話も増えた。受話器に0120050の表示が出る。人事・採用、ネット回線、証券、投資などの売り込みで、「お忙しいところすみません。こちら株式会社何々……」という紋切型トークで始まる。「あいにく代表も担当者もテレワークで不在でして、私、留守番しているだけです」と言うと、素直に引き下がる。なお、用のない相手は「お断り番号」として登録するので、二度と掛かってこない。

愚痴を言っても詮無いことなので、言語が劣化しないように他者に依存せずに自力でできる工夫を始めた。まず、読書量を増やした。そしてマメに辞書を引いている。辞書を引いたら見出し語に青鉛筆で線を引く。その見出し語の前後の見出し語にもしばし目を配る。使っている辞書は『新明解国語辞典』の第八版。今年発行された新版だ。線を引くことで、ページ内の滞留時間が長くなった。ことば感覚の劣化阻止に少しは役立っているかもしれない。

ことばから離れると、必然コミュニケーション量が減る。他人と会わないから共食もしなくなる。孤食の寂しさに苛まれる人たちが増えていると聞く。書店で『孤食と共食のあいだ――縁食論』なる本を見つけた。孤食はつらい。かと言って、いつも共食では気が休まらない。別居と同居のそれぞれに長短があるように、孤食と共食にもそれぞれ功罪がある。「おお、久しぶり。時間ある? 軽くメシでもどう?」という、縁食の復活を切に願う。

なつと夏

「日本に四季があると聞いたが、おれたちのアフリカにも三季ならあるぞ。HotHotterHottestだ」という、今ではすでに古典になったジョークがある。三季説、昔は珍しくなかったそうだ。古代ギリシアでは三季だったらしい。

『美しい日本語の風景』(中西進著)の「なつ」と題した小文に次のくだりがある。

そもそも一年を戸外で働く季節と働かない季節、つまり二季に分けることができる。その後者が冬だった。一方に働く季節がやや分化すると「春耕秋収」という中国の句になる。働く季節を二つに分けたのだから合計三季。かくして夏はもっとも遅く誕生した季節となる。

春に種まきと耕作の仕事、秋には実りの収穫という仕事をして、冬に休む。これで三季だが、春の後にすぐ秋が来るわけではない。好天が続き強い陽射しと雨に恵まれてこそ「実がる」のである。夏がどのように派生したかについては諸説あるが、おおむね次のような説が有力だそうだ。

あつい→なつ・・い→なつ
ねつ→なつ
実がる→なつ

春から秋に飛ぶと、生活の糧となる「果と実」の成熟・成長過程と時間が割愛されることになる。これはちょっと具合が悪い。と言うわけで、一年をもっと緻密に分節するようになった。豊穣の秋を迎えるためには、暑さへの敬意が欠かせなかった。

こうして夏は、種まきと刈り取りを――すなわち春と秋を――つなぐ重要な一季として生まれたのである。

地の背景に図が浮き上がる

〈図(figure)〉が〈地(ground)〉を背景にした瞬間、その図が浮き上がって見えてくることがある。〈地図〉というのはそのように成り立っている。よく知られたものに「ルビンの杯と顔」がある。じっと見ていると杯と顔が交互に地になったり図になったりする。

イメージだけではなく、思考やことばにも同じことが起こる。

考えるとは頭の中で思い巡らすことだが、必ず何らかの対象について思い巡らしている。対象をよく認識し、その対象とやりとりをしている。そうこうしているうちに、やがて不足しているものに気づく。考えるとは「不足探し」でもあるのだ。認識している地の上に見えなかった図が現れてくるのである。

あることばが他の言語群を地として浮き彫りになったり炙り出されたりして知覚されることがある。

アサヒビールを主題とした縦書きの地の歌(七五七五七七七五)を読む。主題を綴ることばの群れの中に仕込んだ図に誰もが気づくとはかぎらないが、よく目を凝らせば横書きの「三ツ矢サイダー」という図に気づく。

掛詞かけことば」や「ぎなた読み」、駄洒落の類も、ことばの地と図の関係と無縁ではなさそうだ。「アメリカン・・・・からメリケン・・・・が生まれ、それが米利堅・・・と表記され、この頭文字からアメリカを国と呼ぶようになった」という経緯を知って、いろいろことばを巡らせているうちに「アメリカにこめがあって、日本にジャパン・・がある」ことに気づいてニヤリとする。

古代や中世の和歌には、現代人が気づきにくい図が地に仕掛けられている。もっとも、地と図の読み方は人それぞれなので、たとえ隠れた図に気づかなくても特に困るわけではない。

使いづらいことば

用語が難しいからではなく、どのように使ってもしっくりこないという意味合いの「使いづらい」。普段よく使っているのだが、状況によっては「何か変」と感じさせられることばがある。小池昌代という詩人が『生きのびろ、ことば』のまえがきで、「ありがとう」の言いづらさについて次のように書いている。

どうでもいいようなことで恥ずかしいのだが、たとえば何かの飲食店に入り、給仕をしてくれたひとに、「ありがとう」と言いたいとき、相手のひとが自分より年上だと、ありがとうと言い切ることがなかなかむずかしい。なんだか、えらそうに聞こえてしまうから。

ことばは人と人の関係性によってニュアンスが微妙に変わる。「ありがとう」が上から目線にならぬような言い回しを考えて、結局は「ありがとうございます」に落ち着く。しかし、それでは「丁寧すぎる」と言い、著者は続ける。

もっとカジュアルに、そして感謝を素直に伝えるために、どんなことばがあるのか、などと考えていて、あるとき、ふいに口を付いて出た「ありがとう」に、関西風のイントネーションがついた。

すなわち、語頭にアクセントを置く関東人の「あり✓✓がとう」に対して、語尾にアクセントを置く関西人の「ありがとう✓✓」が年下にも年上にもやわらかい、という所見である。

昔住んでいた街によく通った銭湯があった。あの主人は、番台で客からお金を受け取ると「ありが、おおきに」と言った。自分が高い所に座っているから自然そう言うようになったのか。親しみやすく、かつ低姿勢に響いた。ところで、メールやSNSのコメントの最後に「感謝!」と書いてよこすのがいるが、あの機械的な無神経ぶりにはうんざりする。


英語の“Thank you”を使うのにいちいち気遣いはいらないし、使いづらさを感じることもない。さらに言うと、Thank you“you”も唯一の単複同形の二人称として、カジュアルにも丁寧にも、相手が誰であろうと、ごく「普通に」使うことができる。しかし、英語で“you”と済ませられる状況で「あなた」が同じように使えるわけではない。

“You can join a Friday meeting.”を英文和訳してみればいい。「あなたは金曜日の会合に参加できます」として澄ました顔はできない。なんとも不自然な日本語だ。相手が友達なら「金曜日の会に行けるよ」だし、目上の人になら「金曜日の集まりにご参加いただけます」というニュアンスになる。いずれにしても「あなた」を隠さないと文がこなれない。

「あなたの住む町は暮らしやすいですか?」と言うよりも、あなたを省いて「いまお住まいの町は暮らしやすいですか?」のほうが違和感がない。なぜか? 「あなた」は厚かましく響いたり馴れ馴れしい印象を与えたりしかねないからである。歌や映画の世界では「あなた」と平気で言うが、日常的な頻度はきわめて低い。

YOUは何しに日本へ?』というテレビ番組がある。日本にやって来た外国人にいきなりインタビューして物語を作っていく趣向だ。『あなたは何しに日本へ?』と言うくらいなら『日本に何のご用?』のほうがいい。それほど「あなた」には出番がないのだ。女性が男性に「あなた」と甘くささやく時も、男性教師が女学生を指差して「この問題、あなたは分かる?」と尋ねる時も、「あなた」はしっくりこない。日本語は二人称の使い方が難しい。