「たちはたらく」

「たちはたらく」とあれば、「たちは/たらく」とか「たちはた/らく」とか「たち/はた/らく」ではなく、たいてい「たち/はたらく」と読む。では、この「たち」の漢字はどうか。これも、達、舘、質、太刀などとひねることはなく、おそらくシンプルに「立ち」と想像して、「たちはたらく」を「立ち働く」と突き止めるはずである。

この「立ち働く」ということばが読んでいた本に出てきた。自ら使ったことはない。どこかで見たような気がしないでもないが、めったにお目にかかれない表現だ。この立ち・・が「立っている」という意味でないことはわかる。その場にじっと立っているだけでは稼ぎにならない仕事もある。「小まめに働く様子」が浮かぶ。念のために辞書を引いてみた。

『新明解国語辞典』

「立ち」は接頭辞である。これが付く動詞は少なくないが、「身体的に立つ」という意味を持つのはわずかである。「立ち――」は「実際に――する」というニュアンスを感じさせる。


「あの人は立会人のくせにずっと座っていた」などといういちゃもんは成り立たない。立会人の仕事は終始立つことではない。席に座っていても立ち会うことができる。実際にその場にいることが重要で、立っているか座っているかは問題ではない。バーチャルではなくリアルに臨場することが立会人の果たす使命である。

「立ちまさる」という表現もある。単に「優れている」とは違う。「立ち」は、その後に続く行動・行為の一途いちずさを強調する。何もかもが勝っているのだ。断然で圧倒的で決定的な勝りようであり、その立場は現実には覆りそうもない。大きくリードした九回裏に易々と逆転されることもない。

立ち至る、立ち返る、立ち向かう……いろんな表現がある。「立ち至る」は、「重大な局面に立ち至った」と使うように、予測ではなく、現実になる状況を示す。「立ち返る」は、体操の技ではなく、もと居た所や出発点に戻る意にほかならない。敵に立ち向かうのなら、覚悟して本気で掛かっていかねばならない。ある方角に赴くという意味の「向かう」とは一線を画しているのだ。

ことばから離れない

他人ひとと直接会って冗談を言い合えない日々が続いて早や一年半。ジョークもギャグもおもしろく感じなくなった。普通の会話すらできなくなって、いろんな意味で余裕をなくしてしまったようだ。新型コロナという「ドキュメンタリーな時代」では、とりわけ失語症に気をつけないといけない。

仕事柄、ことばを文字として読んだり書いたりする機会は今もある。それで何とか生活が維持できている。激減したのは、聴覚器官が捉える、生の声による音の波だ。そして、聴く以上にごぶさたしているのが目の前の相手に対する発声。話の内容や相手に応じた、ちょうどよい距離感の喋りがほとんどできていない。おそらく勘が鈍っている。

コロナ以降、取引している銀行からの電話が多くなった。訪問しづらくなったので、あの手この手で話を持ち掛けてくる。飛び込みセールスならぬ、飛び込み営業電話も増えた。受話器に0120050の表示が出る。人事・採用、ネット回線、証券、投資などの売り込みで、「お忙しいところすみません。こちら株式会社何々……」という紋切型トークで始まる。「あいにく代表も担当者もテレワークで不在でして、私、留守番しているだけです」と言うと、素直に引き下がる。なお、用のない相手は「お断り番号」として登録するので、二度と掛かってこない。

愚痴を言っても詮無いことなので、言語が劣化しないように他者に依存せずに自力でできる工夫を始めた。まず、読書量を増やした。そしてマメに辞書を引いている。辞書を引いたら見出し語に青鉛筆で線を引く。その見出し語の前後の見出し語にもしばし目を配る。使っている辞書は『新明解国語辞典』の第八版。今年発行された新版だ。線を引くことで、ページ内の滞留時間が長くなった。ことば感覚の劣化阻止に少しは役立っているかもしれない。

ことばから離れると、必然コミュニケーション量が減る。他人と会わないから共食もしなくなる。孤食の寂しさに苛まれる人たちが増えていると聞く。書店で『孤食と共食のあいだ――縁食論』なる本を見つけた。孤食はつらい。かと言って、いつも共食では気が休まらない。別居と同居のそれぞれに長短があるように、孤食と共食にもそれぞれ功罪がある。「おお、久しぶり。時間ある? 軽くメシでもどう?」という、縁食の復活を切に願う。

なつと夏

「日本に四季があると聞いたが、おれたちのアフリカにも三季ならあるぞ。HotHotterHottestだ」という、今ではすでに古典になったジョークがある。三季説、昔は珍しくなかったそうだ。古代ギリシアでは三季だったらしい。

『美しい日本語の風景』(中西進著)の「なつ」と題した小文に次のくだりがある。

そもそも一年を戸外で働く季節と働かない季節、つまり二季に分けることができる。その後者が冬だった。一方に働く季節がやや分化すると「春耕秋収」という中国の句になる。働く季節を二つに分けたのだから合計三季。かくして夏はもっとも遅く誕生した季節となる。

春に種まきと耕作の仕事、秋には実りの収穫という仕事をして、冬に休む。これで三季だが、春の後にすぐ秋が来るわけではない。好天が続き強い陽射しと雨に恵まれてこそ「実がる」のである。夏がどのように派生したかについては諸説あるが、おおむね次のような説が有力だそうだ。

あつい→なつ・・い→なつ
ねつ→なつ
実がる→なつ

春から秋に飛ぶと、生活の糧となる「果と実」の成熟・成長過程と時間が割愛されることになる。これはちょっと具合が悪い。と言うわけで、一年をもっと緻密に分節するようになった。豊穣の秋を迎えるためには、暑さへの敬意が欠かせなかった。

こうして夏は、種まきと刈り取りを――すなわち春と秋を――つなぐ重要な一季として生まれたのである。

地の背景に図が浮き上がる

〈図(figure)〉が〈地(ground)〉を背景にした瞬間、その図が浮き上がって見えてくることがある。〈地図〉というのはそのように成り立っている。よく知られたものに「ルビンの杯と顔」がある。じっと見ていると杯と顔が交互に地になったり図になったりする。

イメージだけではなく、思考やことばにも同じことが起こる。

考えるとは頭の中で思い巡らすことだが、必ず何らかの対象について思い巡らしている。対象をよく認識し、その対象とやりとりをしている。そうこうしているうちに、やがて不足しているものに気づく。考えるとは「不足探し」でもあるのだ。認識している地の上に見えなかった図が現れてくるのである。

あることばが他の言語群を地として浮き彫りになったり炙り出されたりして知覚されることがある。

アサヒビールを主題とした縦書きの地の歌(七五七五七七七五)を読む。主題を綴ることばの群れの中に仕込んだ図に誰もが気づくとはかぎらないが、よく目を凝らせば横書きの「三ツ矢サイダー」という図に気づく。

掛詞かけことば」や「ぎなた読み」、駄洒落の類も、ことばの地と図の関係と無縁ではなさそうだ。「アメリカン・・・・からメリケン・・・・が生まれ、それが米利堅・・・と表記され、この頭文字からアメリカを国と呼ぶようになった」という経緯を知って、いろいろことばを巡らせているうちに「アメリカにこめがあって、日本にジャパン・・がある」ことに気づいてニヤリとする。

古代や中世の和歌には、現代人が気づきにくい図が地に仕掛けられている。もっとも、地と図の読み方は人それぞれなので、たとえ隠れた図に気づかなくても特に困るわけではない。

使いづらいことば

用語が難しいからではなく、どのように使ってもしっくりこないという意味合いの「使いづらい」。普段よく使っているのだが、状況によっては「何か変」と感じさせられることばがある。小池昌代という詩人が『生きのびろ、ことば』のまえがきで、「ありがとう」の言いづらさについて次のように書いている。

どうでもいいようなことで恥ずかしいのだが、たとえば何かの飲食店に入り、給仕をしてくれたひとに、「ありがとう」と言いたいとき、相手のひとが自分より年上だと、ありがとうと言い切ることがなかなかむずかしい。なんだか、えらそうに聞こえてしまうから。

ことばは人と人の関係性によってニュアンスが微妙に変わる。「ありがとう」が上から目線にならぬような言い回しを考えて、結局は「ありがとうございます」に落ち着く。しかし、それでは「丁寧すぎる」と言い、著者は続ける。

もっとカジュアルに、そして感謝を素直に伝えるために、どんなことばがあるのか、などと考えていて、あるとき、ふいに口を付いて出た「ありがとう」に、関西風のイントネーションがついた。

すなわち、語頭にアクセントを置く関東人の「あり✓✓がとう」に対して、語尾にアクセントを置く関西人の「ありがとう✓✓」が年下にも年上にもやわらかい、という所見である。

昔住んでいた街によく通った銭湯があった。あの主人は、番台で客からお金を受け取ると「ありが、おおきに」と言った。自分が高い所に座っているから自然そう言うようになったのか。親しみやすく、かつ低姿勢に響いた。ところで、メールやSNSのコメントの最後に「感謝!」と書いてよこすのがいるが、あの機械的な無神経ぶりにはうんざりする。


英語の“Thank you”を使うのにいちいち気遣いはいらないし、使いづらさを感じることもない。さらに言うと、Thank you“you”も唯一の単複同形の二人称として、カジュアルにも丁寧にも、相手が誰であろうと、ごく「普通に」使うことができる。しかし、英語で“you”と済ませられる状況で「あなた」が同じように使えるわけではない。

“You can join a Friday meeting.”を英文和訳してみればいい。「あなたは金曜日の会合に参加できます」として澄ました顔はできない。なんとも不自然な日本語だ。相手が友達なら「金曜日の会に行けるよ」だし、目上の人になら「金曜日の集まりにご参加いただけます」というニュアンスになる。いずれにしても「あなた」を隠さないと文がこなれない。

「あなたの住む町は暮らしやすいですか?」と言うよりも、あなたを省いて「いまお住まいの町は暮らしやすいですか?」のほうが違和感がない。なぜか? 「あなた」は厚かましく響いたり馴れ馴れしい印象を与えたりしかねないからである。歌や映画の世界では「あなた」と平気で言うが、日常的な頻度はきわめて低い。

YOUは何しに日本へ?』というテレビ番組がある。日本にやって来た外国人にいきなりインタビューして物語を作っていく趣向だ。『あなたは何しに日本へ?』と言うくらいなら『日本に何のご用?』のほうがいい。それほど「あなた」には出番がないのだ。女性が男性に「あなた」と甘くささやく時も、男性教師が女学生を指差して「この問題、あなたは分かる?」と尋ねる時も、「あなた」はしっくりこない。日本語は二人称の使い方が難しい。

雑考と雑念

「人生100年時代」のコンセプトを〈雑考〉している。趣味ではなく、依頼された仕事だ。去る3月に文章を書いて納めたが、次は第二弾。その時も現実のテーマとしては思い浮かぶことが少なく、ずっとことばをまさぐっていた。そして今回も、キーワードを列挙して時々天井に目を向けてことば遊びをしている。

「人生100年時代」に関わる15のキーワードを選んだが、まだ公開前なのでここには書けない。以前、シニアの住まいや暮らしに関してキーワードを選んだ自作の事例があるので、それを紹介しておく。

一見小難しく見えても、漢字はわかりやすい。わかりやすいのはよく使いよく見聞きするからだ。逆に言えば、ことばを超えて想像力を掻き立ててくれるところまでは行かない。そこで、擬音語・擬態語などの副詞に置き換えてみた。

かなりアバウトになるのだが、新鮮味が生まれ、連想が膨らんだ。陳腐でないことばが、コンセプトのきっかけになったりコンセプトを広げたりしてくれる。


冒頭で〈雑考〉と書いた。いろんなことを様々に考えることだが、謙虚のつもりで「系統的でない雑考」などと言うと、とりとめのない考えとして格下げされる。しかし、既存の枠組みに忠実な系統的思考のほうがむしろ二番煎じに終わる。少々の違和感があり混沌としているところに雑考のよさがあるのだ。

他方、〈雑念〉というのもある。これも評判はよくない。集中して考えなければならない時に、わけのわからない思いが去来して集中の邪魔をする。だから「雑念を払え」などと言われるのだが、雑念が消えて無我の悟りに到ってしまうと、肝心かなめの仕事に支障を来す。考える仕事では下手に悟ってはいけない。

一意専心の心掛けで一つのことに集中する。そうできるのは少数の誰かである。誰もかれもが一事に没頭しては社会は分断分業して統合されることがない。一芸を深める人と浅く多芸をこなす人がもたれ合ってこそ成り立つ世間だ。よそ見して迂回して、気になるものなら何にでも目配りして雑考することにも意味がある。こんな具合に仕事における雑考にまだ未練が残っているのは、最近のわが業界の一芸さんたちの深掘り思考が不甲斐ないからである。

静かなGWの二字熟語遊び

7年半前に最初の『二字熟語で遊ぶ』で二字熟語の例文と説明文を書いてから、今日で66セット取り上げたことになる。□○と○□で1セットなので、熟語の数は倍数の132。ノートにはまだ88セットのリストがある。リストと言っても熟語の見出しだけで、例文と註釈は書いていない。これからも少しずつ続けていくつもり。

【子女と女子】
(例)「転校生のオカノ君です。オカノ君はお父さんの仕事の関係で5歳から15歳までアメリカで過ごした帰国『子女』です」と先生が紹介した時、少なからぬ同級生がぼくを「女子」だと思ったそうである。

子女は息子と娘の両方を指すが、「良家の子女との縁談」などと聞くと娘を感じてしまう人が多いそうだ。しかし、帰国子女と言う時は男女を区別していない。他方、女子は文字通り女の子である。最近、「おばあちゃんなのに女子会とは厚かましい」と文句をつける人がいるが、女子という語は本来長幼を問うものではない。なので、おばさんやおばあちゃんの女子会は正しい用例なのである。

【前門と門前】
(例)メールには「午前10時に○○寺の『門前』で集合」とだけあって、その門が「前門」か裏門かは書いていなかった。てっきり駅に近い裏門だと思っていたら「正門です」というメールがきた。

神社仏閣には前門があればたいてい後門もある。一般的には前門が正門または表門、後門が裏門である。有名なのが「前門の虎、後門の狼」。門前にも「門前の小僧」「門前払い」などの慣用句があるが、元は単に「門の前」の意だった。前門は表門だが、門前の門はどの門かを特定しない。門前町の門は具体的な門ではなく、やや概念的な門である。すなわち、寺や神社の周辺に広がる町をそう呼んだのである。

【保留と留保】
(例)「保留」と書けばよかったのに、恰好をつけたつもりで「留保」を使ったら、「留保にした理由は何かね?」と聞かれて困った。当時はまだニュアンスの違いを知らなかった。

保留と留保のニュアンスがよくわからないので、英語でチェックした人がいた。どちらも“reservation”が出てきて困惑したらしい。決めたいのは山々だが、その場ではすぐに結論が出せない・・・・ので、しかたなくするのが「保留」。一時的に結論を見送るという点では「留保」も同じだが、留保には「結論を出さない・・・・」という趣がある。つまり、敢えて決めない理由が意図がありそうだ。相手が強く意識されるのが留保の特徴かもしれない。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

休日の二字熟語遊び

一字だけでもいろんな含みが出るのが漢字。では二字ならもっと意味が膨らむだろうと思いきや、実はそうならない。二字、三字、四字……と熟語の字数が増えるにつれて意味は限定されてくるのだ。たとえば「音」の一字は多義だが、二文字の「音楽」になると意味の輪郭がはっきりしてくる。

二字熟語を逆さ読みしてみるとたいてい類義語になる。しかし、同じ漢字を使っていても並びが変わるとまったく別の意味が生成されることがある。それがおもしろいので、二字熟語で遊んでいる。

色物物色】
(例)寄席で落語や講談の合間に「色物」ができる芸人を「物色」していたら、異色の芸ができる大学生を紹介してもらった。

白物に対して染めた布地のことを色物と呼んでいた時代がある。寄席で色物と言うと、落語や講談以外の演芸のことを指す。奇術、曲芸、紙切り、物まねなどだ。
物色する対象は、文字通りの色であったり鮮度であったり美しさであったりしたようだが、いろいろある選択肢から一つを選りすぐる様子が伝わってくる。

【回転と転回】
(例)皿をレーン上で「回転」させるという画期的な発想は、寿司業界においてコペルニクス的「転回」となった。

中心に軸があって、その軸をぶれないようにして全体をくるくる回せば回転。そういう意味では、転回という動作も回るのだから同じように見える。しかし、転回にはくるりと向き・・が変わるイメージがある。向きが180°変わるのがコペルニクス的転回。コペルニクス的回転と言ってしまうと、いつまでもずっと回り続きかねないし、360°回転して止まったら元に戻るだけの話である。わざわざコペルニクスに登場してもらう意味がなくなる。

【下部と部下】
(例)上部組織の「部下」が直属の上司の指示に従わずに、「下部」組織の長の指示を仰いだため、人事が騒ぎになっている。

下部の対義語は上部。下部とか上部は力学的な階層構造を感じさせる用語である。上下には権威象徴的な意味もともなう。他方、部下の対義語は上司である。ここでの上下は職場での人間関係を感じさせる。上部の組織にも部下はいるし、下部の組織にも上司はいる。建物の中では、上部組織のお偉いさんが下の階にいて、下部組織の部下が上の階にいることはよくある。誰がどの階にいても、上意下達という方法は今もよく実践される。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

一言多い、一言少ない

知人と道で出会った。少々久しぶりなのに、「こんにちは」や「ごぶさた」だけを交わして通り過ぎたら不自然至極。ことばの不足感を拭えない。もう一言添えないといかにも白々しい。社交辞令っぽいプラスアルファを続ければ済む話なのだが、もう一言が続かない人がいる。一言多めが苦手なのだ。

英米人と仕事をしていた時は、一言多いという印象が強かった。毎日親しく会話していると喋ることが尽き果てるものだが、まるでコミュニケーションが使命かのように何かを話そうとする。沈黙を恐れているのだろうか。一言少ないことに平気なぼくらと違って、一言少ないことのリスクに敏感なのに違いない。

食事のできる喫茶店やグリル何々という洋食店ではショーケースにビーフカツやエビフライのサンプルが収まっている。あれは料理のビジュアル情報である。あればイメージがつかみやすい。

一方、日本でもフランス料理店やイタリア料理店はめったにサンプルを置いていない。フランスやイタリアに行けば店の前や壁に貼り出してあるメニューはほぼ文字情報だ。サンプルも写真もないから文字に頼るしかない。メニューに関する情報は、まず店外で掲示されるのがよく、また、少ないよりも多いほうがいい。


一言多いと指摘されたら、その一言が余計だという意味。その余計な一言が相手の感情を害したり、話を複雑にしたり、舌禍を招いたりしかねない。一言少なくて舌禍を招くことはない。だから、「記憶にございません」は無難なのだ。しかし、一言少なくて理解できなければ苛立つし、言葉少なだと誤解を生む。説明責任を果たしていないと非難される。

一言多いとか一言少ないと言うが、別に「二言三言ふたことみこと」でもいい。「一言ひとこと」は便宜上そう言っているに過ぎず、つまりは饒舌と寡黙のことである。一言多いの一言が余計であるのなら、その時点ですでに批判されている。しかし、余計なお節介もあるわけだから、相手をおもんぱかっての一言かもしれず、念には念を入れての補足という意味もあるかもしれない。

一言多いか少ないかなら、多いほうを取るようにしてきた。勝手なことを言わせてもらうなら、一言多ければその一言を無視するかなかったことにしてもらえばいい。しかし、足りなければ「どうか適当に足してください」などとお願いできない。足りないと相手に考えさせることになるからだ。口は禍の元であり、無口も禍の元になる。批判の的になるのが五分五分なら、一言多めでもいいと思うが、世論はいま確実に口を閉ざさせる方向に動いている。

いま、S社製の空気清浄機が音声を発した。「今日もキレイですね。空気のことですよ」。あなたのことではないと暗に示している。「空気のことですよ」は余計な一言だが、別に目くじらを立てることはない。

ことばと味覚の辻褄合わせ

ヴァイン・イン・フレイム/カベルネ・ソーヴィニヨン 2018 ブドゥレアスカ。

初めての赤ワインの銘柄。まだ抜栓していない。最後尾のブドゥレアスカに「ブドゥ」が入っているのは偶然である。これはワイン生産者の名前。場所はルーマニアの南部。外国のワイン生産者が日本に合わせて名付けしたのではない。

デパートで見つけた一本。日本ではフランスとイタリアが圧倒的な流通量を誇り、次いでスペイン、ドイツ、チリ、南アフリカ、オーストラリアあたりが続く。メジャーではないジョージア、ハンガリー、ブルガリアなどのワインをデパートや品揃えのいいワインショップで見つけるたびに飲んでみた。飲んでいなければ親近感を覚えないが、少し飲み慣れるとコスパの良さに驚く。


そして、ついにルーマニアである。どんな香りでどんな味か。専門家のレビューなど読まずにさっさと飲んでみればいいのに、「初銘柄のルーマニア」にそそのかされてつい評判を知りたくなって、ワインサイトを覗いてしまったのである。

カシスやブラックベリー、爽やかな新緑のような香りに、黒胡椒のニュアンス。酸は心地よく、しっかりとした果実味にまろやかなタンニンが感じられる。

爽やか、ニュアンス、心地よい、しっかりとした、まろやかな……香りや味はいつの時代もボキャブラリー不足である。既知の表現の組み合わせから未知の香りと味をイメージすることはできるが、再現性は頼りない。

自分が感知した味とすでに書かれたコメントが違うと、「あれ?」という感じになる。大いに違っていると、不快感や不安感を覚えるかもしれない。そして、自分の味覚にがっかりしないように、感じた印象が実は書かれたコメントに近いと思いなすようになる。さて、近々このワインを賞味するつもりだが、はたしてそのような――認知的不協和的な――味覚とことばの強引な辻褄合わせすることになるのだろうか。