言論について (9) 類比・ユーモア・パトス

比喩と言えば隠喩や直喩を思い出すが、言論的には〈類比アナロジー〉が代表格である。類比や類推はことばの表意性に関わるが、元を辿れば数学の比例や比率のことだった。〈A:B=C:D〉はその最たるもの。この公式では「A×D=B×C」が成立する(たとえば、1:5=3:15)。

数字を概念に置き換えてみると、「弘法大師:筆の誤り=サル:木から落ちる」という類比が出来上がる。「木登り得意のサルだってたまには木から落ちるんだ。書の達人である弘法大師も稀には書き間違いをするだろう」という具合。「発展途上国にやみくもに経済支援をするのは、がん患者にモルヒネを投与し続けるようなものだ」は、「発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ」で表わすことができ、そのこころは「当面の痛みを抑えることができても、抜本的治癒になるとはかぎらない」ということになる。

類比は、決まれば説得効果抜群である。しかし、どんな比喩にも少なからず強引さがあり反駁リスクを伴う。上記の例で言えば、「空海とサルを、経済と命を、一緒くたにするのか!?」と皮肉を込めて反発されるかもしれない。二つの概念の類比はあくまでも類比であって、まったくイコールではない。推論法則がそのまま当てはまるとはかぎらない。推論の境界線を大胆に乗り越えて果敢に類比に挑む際には、限界と盲点も心得ておくべきだ。

かつてのブッシュ前大統領のことばを思い出す。「すべての国家はテロ側につくか平和への道を歩むかの岐路に立っている」という表現は、「テロ側」と「平和への道」を「悪:善」で対比させたわけだが、何のことはない、「テロ側:アメリカ側」という魂胆が見え隠れしていた。

料理店に二人で入り、一人が「君は何?」と注文したいものを尋ね、もう一人が「ぼくは海鮮丼」と答える。明らかに人間だろうから、「ぼく=海鮮丼」は滑稽であるが、このやりとりに誰も非難を浴びせない。文章から何かを引くと、主述関係がおかしくなるが、置かれている状況や文脈をお互いに踏まえているから意味は通じ合える。言論にはこのような語法上の曖昧さがつきまとう。しかし、これも一つの比喩であって、詭弁や虚偽とは性質を異にする。


グラデーション

雑学系の軽い本に書いてあった話。人の頭髪は平均25万本だそうである。さて、その頭髪を一本ずつ抜いていけば、いつから「ハゲ」と呼べる状態になるのか。あるいは、完全なハゲに一本ずつ毛を埋めていけば、いつからハゲではないと認知されるのか。簡単ではない。ハゲの定義が定まらないかぎり、ジレンマは免れないだろう。

結局、言論は定義の問題も取り扱うことになる。そして、定義とは、他のことばを借りてきて概念を明らかにする作業であるから、比喩の出番も多くなる。髪の毛の本数は25万本から0本のグラデーションを構成する。表現のあやにもグラデーション効果があり、これがユーモアの隠し味になる。

比喩やユーモアは文化的な共通感覚上で作用する。共通感覚の下地がなければ理解に時間を要するし、さっぱり意味が伝わってこない。聞き手が即座に知覚し感応してこその比喩やユーモアである。この感覚の受け皿にはクオリアのように身体と精神が合流する。要するに、ツボに嵌まらなければならない。それまで隠されていたものが、あるいは腑に落ちなかったことが、比喩によってあらわになりユーモアによって謎解きの快感がもたらされる。わからないと不快だが、わかれば気持ちがよくなる。「無知から知への転換の喜び」とアリストテレスも言っている。

ロゴスに依存しないパトス的反論もある。雄弁家デモステネスは慎重な人で、決して即興の演説をしなかったらしい。弁論の内容を練りに練って演壇に上がるのを常とした。この用意周到さを弁論家ビュテアスが辛口に皮肉った。「あなたの議論には灯油の匂いがする。夜遅くまで草稿を練る鈍才だ」。この嫌味に対してデモステネスは瞬時に切り返した。「なるほど、あなたと私とではランプの用途が違うからね。あなたの場合は女と戯れるためだから」。デモステネスのこの即興の切り返しはパトス的反論であり、ロゴスやエトスとは違う効果を出している。

感情に訴えるパトスは意識に影響をもたらす。「意識が対象を変える」と言ったのはヘーゲルだが、同じ対象でも「愛しているか憎んでいるか」によって異なるものに感じる。では、「憎んでいるか怒っているか」という意識ではどんなふうに対象は変わるか。憎しみと怒りのパトスは似ているようだが、微妙に異なる。誰かに怒りをぶつけられたらつらいが、やがて辛さは静まり、逆に、怒っている相手を憐れむようになることさえある。他方、憎まれるのは禍や害悪に近いものを感じる。怒りは醒めても憎しみは根深い。時が過ぎても、自分を憎んでいる相手に憐憫の情などまったく湧いてこない。パトスは感情、意識、そして言論のニュアンスをつかさどることがわかるだろう。   

《全9回 完》

言論について (8) トポスによる説得

弁論や対話でどんなに巧みにことばを操れたとしても、肝心要はそのことばの背後に「論」があるかどうかである。明快でぶれない視点が言論を形づくる。プレゼントの真価は、包装紙やリボンにはなく、プレゼントを選んだ視点にある。ここで言う視点こそが〈トポス(topos)〉であり、これが事実に即した論旨を一貫させる機能を担う。トポスとは「ありか」のこと。言論の際に論題が位置している場所であり、論述を成り立たせる拠り所を意味する。

ユダヤ格言に「人は意見(主張)で説得されるのではない。理由(論拠)によって説得される」というのがある。強く同意する。至近な話を持ち出すと、気が付いたら買おうと思っていたわけではないモノを買っていたというのは、「この商品はいいですよ」という言に動かされたのではなく、商品を買うべき理由に納得したからである。一般的には、「節度を守ろう!」というスローガンよりも、「放埓ほうらつ三昧は身を滅ぼすから」という論拠のほうがよく響くと言われる。大してすごいことを言っているわけでもないが、ここでは次のようなトポスが使われている。

Xの正反対のYの中に、Xが持っている性質“a”に相反する性質“b”が属していれば証明でき、属さなければその命題を反駁できる。

少々複雑だが、「放埓」の正反対の「節度」の中に、放埓の性質である「自己破壊」と相反する性質「自己形成」があれば、節度の優位性が証明できるということだ。これは「相反」というトポスだが、アリストテレスは説得推論のトポスを28パターン取り上げた。そのうち、相関関係、多少の比較、切り返しターンアラウンド、定義、分割、因果関係、前後関係などは現代議論法でも十分通用する。


トールミンモデル

1960年代、論理学者のトールミンは、〈証拠・確信度・主張・論拠・裏付け・保留〉という6つの要素から成る推論と証明のモデルを提唱した。これを簡略化したものが、〈主張・証拠・論拠〉を要素とした「トールミンの三角モデル」である。この三角形がトポスを強化する。主張だけでは論題は証明できない。また、証拠から推論はできるが、推論の妥当性までは説得できない。ここに「なぜ証拠から主張が導かれるか」という論拠を示すことによって、トポスがあぶり出され、論題が適切に推論され証明されることになる。

何かを主張したら、証拠と論拠について問われる。証拠は調べることができるだろう。しかし、論拠をどこからか探してくることはできない。論拠は捻り出すものである。ある論点でうまく論拠を示せたとしても、別の論点で妥当な論拠が立てられるとはかぎらない。苦し紛れにその場しのぎの説明をすれば、論点間の整合性が乱れる。繰り返すが、証拠から主張を導くだけでは不十分であって、必ず論拠を示さねばならないのである。

対話においては、「論拠探し」は「論拠崩し」と表裏一体となる。相手の論拠反駁を封じ込めることができれば、自分の論拠がすぐれているということになる。こと論拠に関しては、相手の不利は自分の不利、相手の有利は自分の有利でもある。そういう状況でしのぎを削るのがトポスによる説得である。

すべてのトポスがつねに有効なわけではない。対話に相手がいるかぎり、反駁されずに有効と見なされることもあれば、逆に反駁されて無効と見なされることもある。たとえば、「商品ABのいずれを取り扱うかを検討した結果、商品Aを販売することに決めて現在に至っているが、Bのほうがよく売れたのではないかと思う」と誰かが言った。これに対して次のようなトポスで反論可能だろう。

「あなたはBの商品の存在を知っていた。そして、それを選択できることも知っていた。何がしかの不安がある時、人はそれを選ばない。ゆえに、あなたがBではなくAを選んだのは必然で、今さらそんなことを言うべきではない」

一見妥当だが、このトポスには次の再反論が可能かもしれない。

「何が有効で何が優れているかは、実施してしばらくしてはっきりするもので、実施前にはわからない。しかも、ABかという二者択一であったから、同時に取り扱うことはできなかった」

もちろん、主張に決定的なトポスが出てくるまでは、さらなる検証が交わされ続けるだろう。それが議論というものである。

アリストテレスは28種類のトポスとは別の「有効な説得推論」を指摘している。「(説得推論においては)証明を目的とするよりも論駁を目的とするほうが人々の受けがいい」というのがそれ。証明は絶対評価の対象だが、論駁はすでに述べられた主張に相反した議論を併置させる。聴衆にとっては賛否両論を聞くほうがわかりやすく、なおかつ、後でおこなう議論のほうが巧みに聞こえることが多い。

先に言わせてから強く反論する、あるいは問わせてから切り返すように答える……古今東西、このような説得推論をおこなってきた政治家や論争家は数知れない。詭弁すらまっとうに聞こえてしまうから、劇場型論駁に惑わされぬよう聴衆自らもトポスを用意しておかねばならない。

言論について (7) 詭弁と虚偽への反論

「目には目を、歯には歯を」という有名な箴言。「やられたらやり返せ」と解釈されることが多いが、そういう意味ではない。これは元々、度を超したリベンジを戒めるもの。とは言え、この戒めを守ってもなお議論が泥仕合になるのは珍しくない。勝ち負けにこだわるあまり、ギリシアのソフィストたちは詭弁を多用するようになった。アリストテレスでさえ、「中傷してきた相手には中傷で返せ」と言っているが、短絡的に見習うのは賢明ではない。なぜなら、己に正当性があったとしても、悪口・中傷は人物の評判を落としかねないからである。

ソクラテス

毒矢への対処法に関しては、ソクラテスのほうを模範にすべきかもしれない。『ソクラテスの弁明』に見る冷静にして沈着、これ以外にはないというほどの連鎖的な問いと反論は相手と論点をよく踏まえている。ソクラテスは不幸な終末を迎えたが、正義と真理を背負った人間は強い。しかし、そのソクラテスでさえも強く検証反駁した背景には、自分の立場を有利にしようとする思いがあったことは否めない。

相手に反論をするということは自分の正当性を訴えることにほかならない。どんなに度量が大きい人物であっても、じっとして反論され放題のサンドバッグになってはいけないのである。明らかな誤謬なのに詭弁を弄するような相手には、黙殺という手段はもってのほかだ。

反論上手は敵の手のうちをよく読み、言論のセオリーや定跡をそのつどその場で微妙に変化させて応用することができる。極端な場合、その変化応用が180度転回しないともかぎらない。「相反する命題のどちらをも他人に説得することができなければならない」(アリストテレス)のである。この意味では、ソフィストも彼らを批判したソクラテスも例外ではない。〈XYである〉を主張するためには、相反する命題〈XYではない〉にも通じておかねばならない。コインのトスで肯定側になるか否定側になるかが決まるディベートは、この考え方を反映した典型的なゲームである。


自己批判を踏み台にする反論の方法もある。あるいは、ソクラテスのように「どうも鈍いせいか、あなたの仰ることがよく飲込めないのですよ。つまり、これこれの理解でいいのでしょうか?」という、自嘲気味にしてへりくだるような言い回しは、高圧的な論客が相手の場合に有効だ。要するに、反論の基本姿勢に「クールな頭」と「ホットな心」を据えておく。なお、「よし今度こそうまく反論するぞ」と意気込みながらも、気が動転して何も言えなくなる人がいるが、厳密に言うと、これは言論の問題ではなく、その人の共通感覚的な正義感の欠如によるところが大きい。相手が不正な議論をしたり詭弁を弄したりしているのに、遅疑逡巡するばかりで瞬発的な対応ができないのである。理不尽を前に黙してはいけない。

明らかに相手が間違っている。それにもかかわらず、「その理由をことばで説明できないのは、ほんとうはよく分かっていないからである」とソクラテスは戒める。たとえば、相手が「英雄は色を好む。私は色を好む。だから私は英雄なのだ」と言う。直観して不可解な論法である。最初の前提「英雄は色を好む」と二つ目の前提「私は色を好む」には、共通の表現「色を好む」が含まれている。このような、二つの前提をつなぐことばを〈媒概念〉と呼ぶが、色を好む者は英雄よりも私よりも大きな概念であるから、「すべて」とか「つねに」と言えるような周延はできていない。つまり、〈媒概念不周延の虚偽〉という推論になっている。「色を好むのは英雄だけにあらず」、また「あなたはつねに色を好むわけではない」と冷静に検証できなければ、虚偽の筋が通ってしまう。

これとは逆に、「私は弁護士である。私は男である。ゆえに弁護士は男である」というケースでは、一つ目の前提でも二つ目の前提でも「私」が媒概念になっている。私というのは弁護士や男よりも小さな概念であるにもかかわらず、結論部分で弁護士と男という大きな話に広げられている。これを〈小概念不当周延の虚偽〉という。

以上見たような虚偽やジレンマは言論につきものである。命題には主語と述語が含まれる。その主語と述語の集合概念の大小関係をきちんと捉えるのが論理の仕事。それを無意識に誤ったり、虚偽だと承知しながら故意にすり替える。書かれた文章なら誤謬に気づきやすいが、耳から入ってくる主張だとうっかり聞き損じてしまう。

全体について認められることはその一部についても認められ、全体について否認されることはその一部についても否認される。

これは〈全体と皆無の原理〉と呼ばれる。この原理を心得ておくだけで、ほとんどの集合概念上の虚偽を見破ることができる。揚げ足取りの話をしているのではない。論理の話である。論理が成り立つかどうかという視点で他者の意見を検証していれば、自分が論理を組み立てる時の誤謬にも気づくことができるのである。

言論について (6) 対話と知的鍛錬

対話

アリストテレスが〈ディアロゴス(dia-logos)〉と呼んだ対話術は、どんな事柄についても、共通感覚を前提として問答的言論ができる技術であった。相手の主張を論駁するとともに、自分の主張を防御する方法でもある。アリストテレスは、対話の有用性の第一に知的鍛錬を挙げた。これに対して、プラトンの問答術は真理を探究する手段であった。そして、技術と言うよりはむしろ、経験と慣れなどの場数が重要であるとされた。

対話と密接に関わる概念に二項対立があり、弁証法がある。弁証法の論理は、一つの〈テーゼ(定立)〉に対して〈アンチテーゼ(反定立)〉を唱える。アンチテーゼは論理上いくつでも立てることができるが、わかりやすさのために一つのアンチテーゼを見立てると、AというテーゼとBというアンチテーゼが二項対立するような関係が立ち上がる。対立関係のABを綜合すればジンテーゼCが生まれる。次にCが新たなテーゼとなり、これに新たなアンチテーゼDが立てられ、CDが綜合されてEに……という具合に止揚アウフヘーベンが繰り返され真理に近づいていく、というわけである。相容れないはずのABCのもとで、CDEのもとで、それぞれ矛盾を解消する(ということになっている)。

ところが、真理自体を懐疑している者にとっては、こんな面倒なやり方はない。また、真理探究が必要だとしても、綜合だか折衷だか知らないが、わざわざジンテーゼに仕立て上げることもないと考える者もいる。テーゼとアンチテーゼを対立させたまま優劣を判断すればいいというわけだ。肯定側と否定側で妥協なき討論をおこなう教育ディベートはここまでしか想定していないし、裁判も二項対立で決着をつける。長期的な視点でアイデアの創造や融合を目指すならジンテーゼは必要だが、ディベートではそこまで目指さない。キリがないからでもあるが、討論の技術はその時々の命題の是非を論じることに限定される。但し、実社会の対話の場面でいったん決めた立場に終始こだわり続けていては対話すること自体の意味が失われてしまう。


ぼくたちは他人と対話もするけれども、自分とも対話している。対話には必ず〈一問一答〉の形が現れる。これが通常弁論と呼ばれる演説と異なる点だ。自論は他者またはもう一人の自分によって検証される。検証されるなどと言うと、反論されるというイメージがあるが、実は自論が修正・強化されるプロセスにほかならない。問答を経ることによって、知ったかぶりやわかったつもりは容易に暴露される。スピーチなら反論をくぐり抜けることができても、対話では問答をごまかすことはできない。もっとも、ありがたいことに相手が強敵だからそうなるわけで、弱い論敵ばかりを相手にしていると弱点検証されることもないからまったく知的鍛錬にはならない。打たれてこそ対話に値打ちがある。

サルトルに「ことばとは装填されたピストルだ」という言がある。銃弾が物騒ならとげと言い換えてもいい。対話であれ論争であれ、ことばで意見を交わすかぎり棘を刺し棘を刺されるのは免れない。そして、人というのは棘に弱いものである。承認されるよりも批判されるほうが絶対に本人のためになることが自明であっても、批判には耐えられず棘ある一言のことばで表情を曇らせる。しかし、どんなに毒気のある批判も、黙殺やノーコメントの残酷さにはかなわない。沈黙は論争よりも非情な仕打ちなのである。棘や毒があってもことばと対話に望みを託そう。それ以外に知を鍛錬する方法はなかなか見当たらないのだから。

喉元まで言いたいことがこみ上げても、相手の理不尽な詰問や言い分にきちんと応答できなければ、検証もできず意見も持たぬ者として烙印を押される。悔しい思いは恨みとなり、恨みは少々の時間経過では消えないから、同じ場面が再現されると、今度は感情的に爆発するしかない。切羽詰まった激情の言論に相手や周囲が嘲笑する。対話音痴だから、タイミングも外れ言動の振る舞いもうまくいかない。アリストテレスはこのもどかしさを「人間にとって本来的である言論で身を守れないのは、手足で身体を守れない以上に恥ずべきことだ」と言った。

ディベートは対話の一形式である。一つの命題を巡って主張する側と検証する側の立場があらかじめ明確にされている。焦点は命題が成り立つかどうかだ。しかし、現実の対話ではこの固定した立場をどこかで超越して、弁証努力に向かわねばならない。対話者それぞれが持論に基づく独断的な見解を述べるだけでは不十分なのだ。命題に潜む知識やことばを共有しなければならず、また、個人的偏見をも脱しなければならないだろう。つまり、ディベート形式で学んだ平行線の対立の構図を柔軟に変形させる必要がある。〈ディアロゴス〉とは「事柄の真理や真相を分かち合う」という意味だ。真理や真相が明らかになる保障はないが、互いの見解を共通感覚のまな板の上で分かち合わねば、小異に拘るあまり大同に就くことは難しい。

言論について (5) 共通感覚と説得

ロゴスによる説得を試みる際の通念的な拠り所がある。「善>悪」はその最たるもので、他にも「利益>損失」「正>不正」「徳>悪徳」「美>醜」などがある。こうした「大なり不等式」では、左辺が右辺よりも「良きもの」と見なされる。ある事柄が良いか悪いかを価値判断するのはロゴスの役割である。ロゴス的判断は真理に関わることが多い。すなわち、事柄が真か偽かという二律背反で考える。二項だけで語ることになるから摩擦が強くなるのは当然で、軋轢が生じるのも稀ではない。ロゴスに働けば角が立つのである。

行為自体または行為がもたらすものに「好ましいもの」があれば「それは善である」と考える。その反対に、「うとましいもの」があれば「それは悪である」とする。「善か悪か」という考え方は窮屈である。善と悪の中間を認めない。たとえば、チョコレートもバレンタインデーも好ましくもあり疎ましくもある。長短がある。それでも、真理探究は妥協を許さないからどちらかに決めなければならない。

ヴィーコなどは真理そのものに異議を唱えた。感情を含む問題は真理や理性だけで推論しえないと言うのだ。そして、「真理よりも〈真理らしきもの〉のほうが大事である」と唱えた。頭で分からせるならロゴスによる説得でいいかもしれないが、納得して行動変容まで到らせるには心を動かさねばならない。それが「共通感覚に訴える」ということになる。

共通感覚

ふだんよく使う常識ということば。英語では〈コモンセンス(common sense)〉。このコモンセンスの起源を遡ると、やっぱりアリストテレスに辿り着く。当時の術語で「センススコムニス」と呼ばれたもの、それが共通感覚である。共通感覚とは人間の基本的な感受性であり、他者や世界とともに在ることができる生活世界のパスポートのようなものだ。

共通感覚には人間としての五感――触覚、視覚、味覚、聴覚、嗅覚――ICチップのように組み込まれている。

「共通感覚とは実際的な理解力であり、物事を正当な光のなかで見る人々の能力であり、そして健全な判断力である」
(中村雄二郎)


言論は、「人間のすべての意図的な行為は〈良きもの〉を目指す」という前提でおこなわれる。仮にある行為に首を傾げたとしても、その行為がさらに上位の利益や善につながるのであれば説得可能になる。たとえば建築工事。「それは家を建てるためである。家は雨風をしのぐためであり、雨風をしのげば家族にささやかな幸せがもたらされる」という具合に敷衍すれば、良きものを目指す行為だと共感してもらえそうだ。大向こうを唸らせる話でも論法でもないが、一応常識のスパイスが効く。

このように、目的が常識に見合えば異論を差し挟む余地がないように見える。しかし、話はそれほど単純ではない。「行為の目的」だけが議論や説得の対象ではなく、「目的を達成する手段」の善悪や利害への目配りも必要になるからだ。すなわち、不快騒音を伴う建築工事という手段の是非を論議しなければならない。

「正・不正」に関して言うと、正しい行為なら何でもいいというわけにはいかない。アメリカにとってベトナム戦争もイラク介入も正義であった。しかし、目的も手段も共通感覚にアピールしたとは言いづらい。アリストテレスの正義などは比較にならぬほど崇高で、「徳全体が他人に対して働いていること」を規定した。三つの正義が明快に示されている。

1.それぞれの人の価値や能力に応じて配分が成されること(配分的正義)
2.人と人の間に生じる利害得失の不平等を矯正すること(矯正的正義)
3.人と人の間で交換するものは互いに等価であること(交換的正義)

二千数百年前に格差社会の現代を予見して危惧したかのようだ。ちなみに、これらに反する不正行為の原因は、古来変わらず、悪徳と無抑制であることがほとんどである。不正行為が後を絶たないのはなぜか。「発覚しないだろう→仮に発覚しても罰を受けないだろう→仮に罰を受けても、その罰に比べれば得られる利益のほうが大きいだろう」という心理連鎖が起こるからだとアリストテレスは指摘した。

すでに明らかなように、共通感覚は人間に共通の常識と判断力で物事の本質を捉えていく。目先や利己にではなく、普遍や他者に目が向いている。『共通感覚論』での中村雄二郎の次の説明がわかりやすい。

「共通感覚とは、その反省において他のすべての人々のことを〈先験的に〉顧慮する能力なのである。このようなことができるためには、(……)自分自身を他者の立場に置くことが必要である」

共通感覚は人間関係をつかさどっている。人間に世界への通路を用意してくれている。生活場面や仕事で物事の細部のすべてが分からなくても、全体が把握できたり問題が打開できたりするのは、おそらく五感を拠り所とした賢慮良識が働くからだろう。他者や社会を顧慮し、生きることの意味を問いつつ判断し言論する……こうした共通感覚的おこないは本性的である。にもかかわらず、粗末に扱われ軽視されるのは、自分を中心とした利害や数値化された価値のほうがよく理解できるからだろう。

言論について (4) 弁論術と論証

演説とは英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。我国には古よりその法あるを聞かず、(……) 西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、(……)僅かに十数名の人を会することあれば、必ずその会につき、或いは会したる趣意を述べ、或いは人々平生の持論を吐き、或いは即席の思付おもいつきを説きて、衆客に披露するの風なり。

福沢諭吉『学問のすゝめ』十二編、演説の法を勧むるの説の冒頭である。考えることを他人に伝えるのが演説であり、演説にはルーチンがあると教えている。わが国には存在せず、西洋では常識の弁論術はさぞかし当時は新鮮だったに違いない。これ以来、日本では弁論とはスピーチのこととなった。今もそう捉えられている。正しくは、討論や対話も弁論である。

プラトンとアリストテレス
プラトンとアリストテレス

プラトンは「正しいことを思いなしているのに、それを説明できないのはほんとうに知っていることにならない」と『饗宴』の中で語っている。説明とは説得であり証明である。分かっていることなのに、聴衆にアピールできないほどもどかしいことはない。弁論の最終目的は「自分が分かる」ことではなく、「聴衆が分かる」ことである。聴衆が話を聞いて賛成か反対かを決める。聴衆はどのように弁論者によって説得されるのか。プラトンの弟子アリストテレスは言う、「説得は一種の証明である。人は何かが証明されたと感じるとき、よく説得される」(『弁論術』)。そして、三種類の説得立証を明らかにした。

1.事柄のロゴス、つまり論理的説明に対する納得
2.語り手のエトス、つまり品性・人柄を通じての信用
3.聴衆のパトス、つまり感情を通じての共感と同意

説得立証のうち、下記の例のような、前提から結論を導くものを説得推論と呼ぶ。

前提1(論拠) 「デパートでバーゲンすれば女性客が増える」(真偽不明)
前提2(証拠) 「今日は女性客がいつもと同じ入りである」(一応真としておく)
結論       「ゆえに、今日はバーゲンを実施していない」(真偽不明)

前提があやふやで、結論の蓋然性も定まらないが、この推論は〈PならばQ、だがQではない。ゆえにPではない〉という妥当な推論形式に従っている。変な言い方になるが、真偽のほどは明らかになっていないけれども、この推論は論理的である。そして、論理的であるということは、説得にあたっての基本条件を一つクリアしていることになる。


推論は、一つまたは複数の前提から結論を導き出す。妥当な形式の推論をおこなえば、前提が真ならば必ず結論も真になる。たとえば、「ホッチキスは文房具である(真)。文房具は事務用品である(真)。ゆえにホッチキスは事務用品である(真)」という具合。真である前提からは真である結論が導かれる。こんなことはくどくどと推論しなくても分かる。にもかかわらず、論理的であるためには、わかりきった事実をしつこく積み重ねていかねばならない。無意味な回りくどさや無駄口は避けるべきだが、推論作業で手を抜くことはできない。

〈帰納〉という推理がある。帰納は複数の個別命題から一つの普遍命題を導く。「太郎はよく遅刻する」「太郎は時間にルーズである」「太郎は忘れ物をする」という三つの前提から「太郎は信頼性に乏しい」という一つに括った結論を導くようなケース。ところが、個別命題が三つとも真であっても結論の妥当性は確定しない。個別で小さな情報から普遍で大きな概念に仕立て上げるには膨大な情報が必要で、数例によって推論するのは妥当ではない。したがって、この場合、太郎に貼られたラベルが真である保障はない。但し、討論や実社会の意思決定の常として、妥当性の検証や命題への反証を怠ると、偽であるかもしれない普遍命題が成立してしまう。

弁論において論証力を高めようと思えば、具体的で確かな例証と「真実に近いもの」を示す蓋然命題を豊富に携えることである。いわゆる共通感覚に根ざしたものの見方や教養だ。「他人を妬む人は他人を憎むようになる」や「借りたものは返却すべきである」や「子どもは躾けるべきである」などの命題は、安易な反証・反例をシャットアウトし、したがって相手もおおむね認めざるをえない理屈を備えている。否定できないわけではないが、否定すれば聴衆や世論を敵に回しかねない。

最強の共通感覚になりうるのは究極の最高善である。アリストテレスはそれを「幸福」とした。幸福こそ万人に共通の、蹂躪しがたい善である。なぜなら、たいていのことには「なぜ?」と問えるが、「なぜ幸福が重要なのか?」などと異議申し立てるのは不可能だからである。

言論について (3) ロゴスとレトリック

Logos

ラファエロ作『アテナイの学堂』には名立たる賢人らが描かれている。中央のやや左、一番下の階段に腰を下ろして思索するのはヘラクレイトス。人物モデルはミケランジェロと言われている。ヘラクレイトスは古代ギリシアの哲学者で、万物流転でその名を馳せた。万物流転と言うものの、その万物の中にロゴスは含まれていない。ロゴスだけは変化しないのである。

ロゴスを軽視してはいけない。しかし、決して溺れてもいけない。ロゴスを核として発展してきた西洋哲学も論理学も必ずしも普遍的な知ではなく、ギリシア・ヨーロッパ世界の特殊な知に過ぎない。ロゴス中心主義は西洋の知のドグマだが、ロゴス一辺倒で世界や社会の出来事を論じることはできないだろう。このことをわきまえたうえでロゴスを学ぶのが肝要である。

文明開化、富国強兵、殖産興業などを旗印にして、わが国固有の発想(敢えて「思想」とは言わない)を西洋の特殊な知に総替えしたのが明治時代だ。以来一世紀半、日本人はロゴス的な知にどっぷり浸かってきたかのように見える。しかし、ロゴスは物質的な変革には大いに力を貸したが、精神の骨の髄にまでは浸透しなかった。

日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。

加藤周一が『日本文学史序説』で書いたこの文章は、日本人がロゴスに大きく依存しなかったことを物語っている。今日に到ってもなお、この指摘は的外れではない。一見ロゴスに見える花も、鉢植えの中では「ものづくり、移ろい、こころ」というような土壌に根ざしている。

さほど中身のない話でも、話し手の知名度が高ければ、条件反射的にありがたがるような傾向が今もある。「私の知人が癌で亡くなり……」と講師が絶句したら会場のあちこちですすり泣きが起こる。メッセージを聞くのではなく、空気にほだされている。「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」という西行法師の心情に通じる。ロゴスの尺度からすれば、何のことか分からないことに涙は流さない。正しく判断もせず、また批判も加えずに納得する習性は、仮面のロゴスの下の素顔のペルソナなのである。


ロゴスを顕在させる技術がレトリックであり、これも功罪併せ持つ。和歌に代表される日本文学は比喩、枕詞、擬人法などの修辞が豊かである。これらは「ことばの綾」の技術なので、技巧や飾り立てが過ぎると「巧言令色」のそしりを受けかねない。耳に響きのよい美辞麗句を並べるのがレトリックだと勘違いしてはいけない。本来レトリックは説得立証と言論配列を取り扱うものだ。説得立証とは証拠と論拠を立てる方法であり、言論配列とは序言・陳述・証明・蓋然性・概括など弁論の組み立て方のこと、つまり、説得のための表現技術である。しかし、説得は賢慮良識によって自制しなければならない。なぜなら、説得が常識を外れて度を越すと黒を白と言いくるめる詭弁術に化けるからだ。

裁判が広くおこなわれた古代ギリシアでは、利権や自由を守りたいという民衆のニーズがあった。裁判で勝訴するには裁判官や聴衆を説得しなければならない。そこで、プロの弁論家の出番となる。弁論家の中には詭弁を弄するソフィストに転じる者も少なくなかった。時を下って、モンテーニュはレトリックの専門家たちを「口先一つで(……)われわれの判断力をたぶらかし、物事の本質まで変容させるのが彼らの仕事だ」と批判した。ことばが真摯な説得力を持つか詭弁まみれの空言に堕してしまうかは紙一重なのである。

レトリックは表現のファッションになりかねないし、勝ち負けに拘泥すると牽強付会にもつながりかねない。繰り返しになるが、レトリックは聞こえのよいテクニックではなく、説得のための総合的表現技術なのである。ロゴス成分100パーセントでは知に働き過ぎて角が立つ。感性や想像力や倫理観もほどよく配分しなければならない。これを〈レトリックの知〉と呼ぶことにする。

1.与えられた命題をあらゆる側面から考察できる。
2.その命題をその場でただちに論じ答えることができる。
3.命題にふさわしい論点を適切に選び出し組合せて説得力を高めることができる。

イタリアの哲学者ヴィーコは以上の点を指摘した。共通感覚を背景にしたレトリックの知の理想の働きをよく表わしている。教育ディベートの基本的な目的であると言ってもいい。1.の「あらゆる側面」を簡素化すれば、二つの相反する見方、すなわち命題の肯定側と否定側になる。2.は即興性、即時性。豊かな教養と知見を前提にしてこその能力である。そして、3.は先に述べた説得立証と言論配列にほかならない。

言論について (2) 論理的説得

アリストテレス(紀元前384-322年)が万学の祖という点に異論はないだろう。哲学・倫理学・政治学・自然学においてはもちろんのこと、論理学においても偉業は燦然と輝く。論理学は弁論術と並んで言論の核を成すが、2,200年もの間、アリストテレスの論理学――厳密には「伝統論理学」――は西洋の学問体系の拠り所になっていた。伝統論理学への代案を提起したのはフレーゲ(18481925年)だ。フレーゲは命題論理と述語論理による画期的な記号論理学の基礎を切り開いた。とは言え、アリストテレスの『弁論術』から大いに学んだぼくとしては、伝統論理学の何もかもが色褪せたとは思わない。

『論理学入門』より

論理や弁論の専門家でないかぎり、とことん言論技術を究める必要はない。そんな一般の人たちにとっては、演繹推理や帰納推理などによって論理学をかいつまむだけで必要十分だと思われる。なにしろフレーゲ以降の論理学はなじみにくい。記号論理学や数理論理学は推論の構造をすべて数式化するからだ。十九歳の時に初めて読んだ入門書には閉口した。こういう論理学は必要としていないので、覚えてもすぐに忘れる。ちなみに、記号論理学では文章は次のように記述される。

p⊃q, q⊃r ∴p⊃r
「pがqを含み、qがrを含む。ゆえにpはrを含む」(純粋仮言三段論法)
p∨q, ¬p ∴q
「pまたはqである。しかし、pではない。ゆえにqである」 (選言三段論法)

は「含む」、は「ゆえに」、は「または」、は「かつ」、は「否定」を意味する。「ハンバーグを食べAコーラを注文するB)か、あるいはハンバーグを食べずにポテトを注文するC)」という文章は、(A∧B)∨(¬A∧C)と記述することができる。

あるテーマについて明瞭に意見を述べ、その意見を論証して他人を説得できればすぐれた言論と見なせる。こう言えば簡単だが、テーマに関する知識を備えることはもちろん、意見の表現方法や筋道の立て方に習熟しなければならない。こういう技術は経験量に比例するから訓練を積まねばならない。言論の技術が未熟だと論理的説得は望めないのである。


教育者が教育について、経営者が経営について、建築家が建築についてそれぞれ語るとする。同業者や一般人は知見や業績や人柄や作品に共感し納得してくれることが多い。だからと言って、言論不要と言い切ることはできない。自分の意見を論理的に説得する場面では言論に頼らざるをえない。さらに言うと、専門家は、専門外のテーマについて尋ねられる場面で、いつもノーコメントを決め込むわけにはいかない。自分が専門としない事柄について論じる際には、知識が足りない分を言論の技術で補わねばならないのである。

「言論の技術は、どんな場合でも有効な説得の手段を見つける能力」とアリストテレスは言った。「どんな場合でも」なのだから、専門テーマやそれ以外の一般的なテーマを指す。ぼくが建築理論や構造設計について建築家を説得することはむずかしい。専門知識の量と深さでは太刀打ちできないからだ。しかし、一般論として住居と暮らし方については経験的に語れるだろう。また、住まいが人間にとってどのような意味を持っているかという価値の問題になれば、専門家と議論さえ交わせるはずだ。人間や価値の領域であるならば、どんなに専門性の強い命題でも論じることができる――言語の技術はこのような能力にほかならない。

世界がそうであるように、組織も学際化・業際化が進む。様々な専門と文化を背景にしていろいろな仕事人が集まる。そこでは「それは専門外」だと言って逃げるわけにはいかない。専門的知識があろうがなかろうが、何らかの価値判断をして同僚を、組織の外の人たちを説得して信用を得なければならない。知識だけでは専門家を名乗れない時代になったのである。一般人がテロや少子高齢化について語っているのに、専門家がそういうテーマに対して門外漢だと言って口をつぐんでいいはずがない。

会議と葬儀の寡黙度が似たり寄ったりの日本社会。言論の自由や民主主義が都合よく引き出される割には、言論の実践になまくらで、拙劣な表現やお粗末な論法でその場をしのいでいる。言論は行き詰まった問題解決に新風を吹き込む。異種意見間での弁論にはエスプリとレトリックの更新が欠かせない。つまり、つねに言論努力が求められる。「説得するな、納得させよ」と悟ったようなことを言うのは、言論の限界を見極めるほど十分に鍛錬してからの話である。

言論について (1) プロローグ

『言論の手法』と題してテキストを書き、それを元に塾生に講話したことがある。七年ぶりに読み返す機会があり、また別の人たちからいくつか質問が寄せられたりしたので、その後の考察も踏まえて加筆することにした。9回のシリーズになると思う。


「言論」の話であって「思考」の話ではない。しかし、両者の違いは微妙だ。重なり合う要素が少なくなく、これが言論、あれが思考というふうに線引きしづらい。ただ、言論は思考につながっていることは間違いない。極論を恐れずに、とりあえず〈言論⊇思考〉と捉えておく。なぜなら、思考できているかどうかは言論によってはじめて確認できるからである。たとえば、計画を練ったり企画を立てたりしているとする。話しことばも文字の手掛かりもない沈思黙考という状況にある時、ぼくたちは「いま考えている」と実感し確信することはできない。頭の中をよぎるアイデアや構想や概念は曖昧で漠然としており、鮮明に言語化されることは珍しい。

もっとも、ことばが不在であるとしても、イメージらしきものが浮かんでは消えるので、思考がまったくの停止状態に陥っているとは言えない。しかし、その状態は澄み切った晴天からはほど遠く、どんよりとした曇り空のように朦朧としている。そこで、イメージを手掛かりにして「考えているつもりのこと」を誰かに話してみる。あるいは、手元にあるノートにそれを書いてみる。するとどうだろう、晴れ間が少しずつ広がり光が射し込んできて、イメージがことばに変わってくる。その時はじめて、「あ、こういうことを考えていたのか」と確認できる。ここで言論が立ち上がる。言論という回路を通じて、漠然とした思いが明快に顕在化し意識できるようになるのである。

コミュニケーション

古来、言論は〈命題〉を想定してきた。命題という用語が取っ付きにくいならテーマと言い換えてもいい。ある種の意見や結論をあらかじめ内蔵したテーマ、それが命題。〈弁論レートリケー〉であれ〈弁証・対話ディアレクティケー〉であれ、命題をめぐる言論は聴衆や他者に向けておこなわれる。つまり、コミュニケーション行動だ。したがって、言論の技術は、説得、ひいては説得の要素である立証、論拠、推論、比喩を磨くことを目指す。アリストテレスが「弁論の成功要因を探り方法化すれば『技術』とすることができる」と語った通りである。


言論とは〈ロゴス〉、すなわち理性的なものである。しかし、ロゴスは人柄や品性とされる〈エトス〉と連動するし、感性や情緒である〈パトス〉と相反するものではない。それどころか、ロゴスとエトスとパトスは3セットとして機能する。『弁論術』の中でアリストテレスが「エトスとパトスによる説得推論」についてかなり熱心に考察したのもうなずける。

アリストテレスに限った話ではない。古代ギリシアの時代から「人間はロゴスを持つ動物である」と言われてきた。不可思議極まる宇宙万有の一切がなぜ存在し、狂うことなく機能しているのか――こう問い掛ける時、宇宙の原理を支配する根源に〈ことわり〉としてロゴスを置かざるをえなかった。ロゴスを一つの日本語表現で現わすことはできない。この一語にはいくつものニュアンスが折り畳まれており、また様々な意味にも展開されている。たとえば、理性、言語、定義、弁論、討論、叙述、物語、理論、推理、計算、道理、論理、理由、比例、割合……という具合に。

ロゴスを狂信するのも困ったものだが、「ロゴス嫌い」の思考未熟も同じく他人迷惑である。少し話が難しくなって筋道を見失いそうになると思考エンジンが止まる。ロゴス嫌い――あるいは反知性派――は理屈や議論を望まない。ぼくのように「言わぬが損」という言論尊重派は、言論によって彼らを説得しようと試みるが、その言論行為がまず受け付けられない。懇切丁寧に言を尽くしても聞く耳を持たず、ことばそのものが否定されたりもする。饒舌な口達者にしか見えないのだろう。口達者は褒めことばではない。ロゴス嫌い・反知性はわが国でも顕著になりつつあるが、帝政時代のローマでも「口は禍のもとだから沈黙がいい」などと勧められていた。プルタルコスの『英雄伝』にもそんなくだりがある。プルタルコス自身、膨大な文章を書いたのにもかかわらず。

孔子も「巧言令色鮮し仁こうげんれいしょくすくなしじん」や「巧言は徳を乱る」などと唱えた。にもかかわらず、『論語』では、人間の重要な才能の一つとして、徳行、政事、文学と並んで「言語」が挙げられている。当世風に言えば、「人を磨いて仕事に励み教養を身に付けてことばを用いなさい」というところだ。何のことはない、プルタルコスも孔子も、そして、その他大勢の偉人たちも、大いに書いて大いに語ったのである。プルタルコスよりも二百年前に活躍したキケロはローマ時代の弁論家であり政治家であった。彼に次のことばがある。

口の達者な愚かさか、それとも、雄弁でない知恵か? この二者択一で迫られたら、私としては、雄弁でない知恵のほうを選びたい。しかし、いずれも最善ではないのだ。唯一最善のものを求めるとするならば、「教養のある弁論家」にこそ栄冠を授けるべきだろう。

キケロは「弁論家」と言っているが、専門の色を脱色して「言論者」と言い換えてもいい。つまり、「教養ある言論者」を目指すことが、ロゴス狂信でもなくロゴス嫌いでもない理想の姿だと思われる。願わくば、そこにエトスとパトスがほどよく混ざり合うような言論個性を目指したい。

「など」にご用心

曖昧な表現は極力避けているつもりだが、「~的」や「~性」は万能なのでつい使ってしまう。少々面映ゆい。わかったようで実はよくわからない曖昧語は、どうでもいい会話で飛び交う。どうでもいい会話だから連発してもされても気にならない。しかし、意味明快が絶対の場面で頻出するとイライラがつのる。使っている当人が語の曖昧性に気づくことは少なく、聞いたり読んだりする側が曖昧語の解釈に苦しめられる。言ったもん勝ちだ。意味の共有作業では、伝える側よりも理解しようとする側の負担が大きくなるのが常である。

意見を評する時に「おかしい」や「いかがなものか」を常用する政治家がいるが、こんなふにゃふにゃ表現で検証や反駁ができるはずもなく、政敵の空論に輪をかけたほど空しく虚ろに響く。手元の『あいまい語辞典』には、「ちゃんと」や「相変わらず」や「なんとなく」や「やっぱり」が掲載されている。要するに、副詞や副助詞などは総じて曖昧なのだ。こんなことを言い出したら、元来が主観の強い表現である形容詞などは、ほとんどすべてアバウトである。「おいしい」とか「きれい」とか言ってみても、イメージや思いを相手が精細に再生してくれているとは思えない。


意外かもしれないが、「など」は曲者の曖昧語である。たとえば「饅頭などの和菓子が好きです」と誰かが言う。これに対して、適当に「あ、そうですか」で済ませることはできる。しかし、単に「和菓子が好きです」とは言っていない……わざわざ「饅頭など」をくっつけたのには意味があるはず……とぼくは深入りしてしまう。

残念ながら、一例だけを挙げて「など」を付けても、一例からの類推の焦点は定まらない。「フランス、イタリア、スペインなど旧ラテン語圏の国々は……」と小概念を三例挙げて大概念で括るから明快になるのである。「饅頭」だけを例に挙げたそのココロが分からない。もし「饅頭、最中、大福などの和菓子が好きです」と言ったのなら、何らかの皮で餡が包まれたのが好きだと察しがつく(察しはついてもなお、ハズレかもしれないが……)。

etc.

ラテン語et ceteraエトセトラ(略して“etc.”)は「など」に相当するが、元々は「その他もろもろ」という意味だった。先の「饅頭などの和菓子が好きです」なら、饅頭の後に「など」を付けて「実はこれだけではないんですがね」と漂わせ、「饅頭に類する和菓子」というニュアンスを込めている。ならば、饅頭の他に最中や大福も添えておけば少しは曖昧さを回避できる。

「一例を以て『など』と言わない」は一つの言語作法なのである。少なくとも二例、できれば三例がほしい。そうすれば、複数の例の共通項が見えるからだ。もししっかりと見えたら、わざわざ大概念で括る必要性もなくなる。

空きビルの一階ドアに「アトリエ、事務所、作業場などに最適です」という貼り紙があった。「など」を使うにあたって部屋の用途を三つ例示しているのは悪くない。しかし、ここをクリアしてもこのケースでは「最適」という表現が具合が悪い。最適というかぎり例は一つでないといけないからだ。いや、事務所も作業場も言っておきたいと思った……それなら、「など」も「最適」も外して、「アトリエ、事務所、作業場に使えます」だ。いやいや、最適と言いたい……ならば「アトリエに最適です」しかない。ともあれ、「など」には要注意だ。ごまかすつもりはなくても、「など」はわかったようでわからない不透明感を残す。