言い表せないもどかしさ

思っていること、感じていることをうまく言い表せない。いろいろ言ってみたいことがあるけれどまとまらない。伝えたつもりが伝わっていなかった。ああ、もどかしい。ことばだけの話ではない。もどかしさは人生の常。

人間がいるから人間関係が生まれる。しかし、人間が先で関係が後なのに、人間から人間関係を取り去ると、人間は残らずに、何もかもが消えてしまう。そうか、人間とは人間関係そのものだったのか。道理で人にはもどかしさがつきまとう。

スムーズなことば遣いができず、意思疎通がうまくいかないもどかしさ。考えていることをことばにしようとするからそうなるのか。もしそうなら、悪戦苦闘してもいいから、余計なことを考えずに語ればいいのか。いやいや、ただただことばにしてみることはさらにもどかしい。しかも、空しい。

それでもなお、語りえぬものを懲りずに饒舌に語ることしか、もどかしさから逃れられないような気がする。黙り上手になるくらいなら、話下手でいいのではないか。石のように沈黙して何事かを伝えることなど願っても叶わない。人は石のような沈黙のことばの使い手にはなれないのだ。

数年前の12月間近の午前8時、見慣れない形の雲が流れていた。写真を撮った。この写真一枚でいろいろとイメージが膨らみそうな気がしたので、まだ11月なのに「12月の空」と名付けて保存しておいた。ところが、今に至るまでことばを何一つ紡げていない。

空と雲は変幻自在に図柄を変えて一度きりの題材を提供してくれているのに、そのつどことばで言い表すだけの余裕もなく、しゃれた詩情も湧かずひらめきも浮かばない……

と、ここまで書いたところで、加湿機能付き空気清浄機が、得意の音声合成で一言喋った。

「ヒートランプ、光ってるよ」

それ、何度も聞くけど、何? 購入して3年半経つが、未だに意図がよくわからないことを言う。ちょっと待てよ。意図はわからないが、「光るヒートランプ」はわかる。そうか、こんなふうに軽やかに適当に言えばもどかしさと無縁なのか。

空と雲の写真には実景にない枠があり、それが1:1のサイズで箱に見える。書いてみた。

「冬間近の雲、詰め合わせたよ」

語句の断章(47)「さわり」

タッチや触れるという意味の「さわり」ではなく、主として物語や楽曲に言及する時の「さわり」について取り上げたい。と言うのも、意味を間違って理解している人が半数を上回ると知ったからだ。

ぼくが見た資料には「誤用」と書いてあったが、さわりということばを使おうとする人はあまり間違わないと思う。自分で使ったことがなく、もっぱら見聞きする側にいて何となくわかったような気になる人が「誤解」しているのではないか。

ずいぶん前の話だが、企業の情報誌に「ほんのさわり」というタイトルの書評コラムがあった。「本の」ではなく「ほんの」と表記したために、「ちょっとした」という意味に取られたようだ。「本のちょっとしたさわり」と読めば、簡単な要約か最初の書き出しのように思うのも無理はない。さわりもちょっと触れるという感じだから、なおさらである。

「さわり」とは出だしやイントロのことではない。物語や楽曲の一番感動的で興味をそそるハイライトのことである。物語なら読ませどころ、楽曲なら聞かせどころ、そして舞台なら見せどころである。曲のサビや物語のクライマックスがさわり。にもかかわらず、「では、ほんの・・・さわりだけ・・、少し・・」というような言い方をするから、クライマックスのことだとは思えないのだろう。

さわりは浄瑠璃由来なので、それに類するような朗読、音楽、演劇、講演には使える。1時間のうち半時間がさわりということはおそらくないので、たとえば「通常1時間の講演ですが、今日はさわりだけ10分で」という使い方になる。

さわりを比喩的に使う例はあまり見聞きしたことがない。「本日の晩餐、コース料理のさわりは……」などとは言わない。和食でも洋食でも「さわりの一皿」は主菜に決まっているから、わざわざ比喩として使う出番はほとんどない。

語句の断章(46)「おざなり、なおざり」

「おざなり」と「なおざり」は語感が似ている。実際、類語だと思っている人も少なくない。辞書を引いて調べれば済むのに、ついついあやふやな知識に依って誤用を覚えてしまうことがある。誤用が一般的になってしまうと、もう正してくれる人もいなくなる。誤用が正用を駆逐して誤用がまかり通る。

「おざなりとなおざりは全然違う。おざなりは『御座なり』と書き、なおざりは『等閑』と書く。意味が違う。それどころか、用法も語源もまったく異なる」と、自信に満ちて講義で話したことがある。全然違うと言ったのは極論に過ぎたかもと後日反省し、よく調べてみた。両者に「血縁関係」がないのは確かであり、厳密に言えば違うが、共通の概念が浮かび上がった。

おざなりは、その場しのぎで事を済ませてしまうこと。辞書には「計画がおざなりだ」とか「おざなりな謝罪で済む問題ではない」などの例文が挙がっている。客が来た。客用の座布団を押し入れから出すのを面倒がって近くにある座布団をすすめたら、ほころびていた。それを見られる前に咄嗟に裏返したら大きな穴が開いていた。その場かぎりのいい加減な間に合わせ。これがおざなり。

他方、なおざりは怠りであり手抜かりである。注意を払わないこと、心がこもっていないことだ。「なおざりな返事」は相手の言うことを聴き入れようとしないことだし、「なおざりにされてきたテーマ」と言えば、真剣に向き合わずに生半可に扱ってきたというニュアンスを感じさせる。

用法にうるさい人は「おざなりとなおざりは全然違う」と主張する。しかし、互換性がないとしても、二つの表現は「適当にする」とか「いい加減にする」という意味を共有している。「はいはい」と人の話を適当に流して、心にもないいい加減な「ごめんごめん」で済ます様子は、おざなりでもなおざりでもいいような気がする。

とは言え、決定的な違いがある。おざなりは、その時の一度きりの所作に対して用いるのに対して、なおざりは、恒常的におざなりなことをする性格や姿勢について使う。「その場しのぎのおざなり・・・・な行為、いつもそれを繰り返すなおざり・・・・な態度」と覚えればいい。

語句の断章(45)「移民」

「他郷に移り住むこと。特に労働に従事する目的で海外に移住すること」(広辞苑)
「新しい生活や仕事の場を求めて故郷(故国)を離れて移住する人(こと)。移住者」(新明解国語辞典)

上記は辞典による「移民」の語義である。移民の目的は主として生活や仕事だが、移民それぞれには固有の事情があるはず。移民とは外国へ移住する人たち。異なった国の民がよその国に移る民となって、新たな国で再出発する民になるのである。移民の「民」の色は薄くなるが、それでいい。「移」にこそ本来の意味があるのだから。

移民と住民は同じではないし、いきなり同等にはならない。民族が違うゆえの差別もあるが、何よりもまずその国の「市民」としてのキャリアがないから、扱いや立場が異なるのである。職業のキャリアではない。先祖からその国に住み続けて貢献してきた諸々の実績などの経歴である。定住生活者と同じ待遇と権利を今日入国してきた移民が持てば、既得権者側に不公平感が生まれる。


「当局」からすれば、放浪する人間よりも一カ所に留まる人間のほうが安心できるし、住所不定よりも戸籍があるほうが信頼できる。移民や放浪の民に対する偏見は拭い難い。しかし、物理的な移り変わり以上に、人は精神的に価値観的に移ろいながら生きて行く。一つ所にいるにせよ、すべての人は昨日から今日への、今日から明日への移民なのだ。

同じ場所で遊んでいる子を見守るほうが親は楽だ。あちこちで動き回られるとコントロールしづらい。住民に対する当局の心理もこれに似ている。定住は統治する当局にとって都合がいい。身元もはっきりするし、安定した税収が期待できる。当局は、そこに生まれて育った人に生活者として居住し続けて欲しいのだ。

先住者が移住者に偏見の目を向けるのはやむをえない。流浪の民はどこに行っても定住できず、迫害を受けてきた。しかし、他方、移住者が先住者の土地を植民地化して、支配下に置いて属領とした時代も歴史の大半を占める。事例としてはそのほうが圧倒的に多い。移民問題はいつの時代も力関係に操られる。

ことばについての雑考

雑念ではなく「雑考」のつもり。特に系統立ててはいないが、個々の考察をいい加減にしたわけではない。たまたま「ことば」をテーマにして話す機会があったので、経験したことや経験に基づいて考えたことを断片的に記述した次第。


 ことばが概念を生む。概念はことばをイメージ化したもの、またはイメージ的なことば。この過程を経て具体的な造形が生まれる。造形のみならず、創作と呼ばれるものは何もかもがことばと概念の賜物である。ことばと概念が未成熟のままでは「カタチ」として顕在化することはない。

 「言論の自由」について考えようとする時に、「自由とは何か」の解釈に力を入れて考え抜いても〈自由〉がわかりやすくなることはない。言論の自由で重要なのは〈言論〉のほうだと思う。「言論とは何か?」を棚上げしたままで、やれ自由だ、やれ不自由だなどと論じてもどうにもならないのである。

 「意見を言うのが苦手です」と言い訳する時間があったら、余計なことを考えずにさっさと喋るか何も言わずに黙っていればいい。ある場面で喋るか黙るかを見極めるのは難しい。黙るべき場面なのに一言余計なことを言いかねず、また、喋るべき場面でチャンスを見送って後日悔やむ。喋るべき時に喋り、黙るべき時に黙るという、この自然のおこないがなかなか上手にできないのである。

 「文章を見直して書き直してほしい」という依頼がある。英文から翻訳したけれど、あまりこなれていない、何とかならないか? という相談もある(この場合、英文も見せてもらう)。こういう仕事をいったい何と呼べばいいのか。代書屋ではない。文章を書き替えるが、文字づらだけの直しでは済まず、言わんとする意味を汲んで文案を練ることになる。本業とは別に〈文章工房すいこう〉という屋号を考えた。「推敲」とは苦心して文章表現を工夫すること。原文あっての推敲文だが、原文よりも苦労が多い。

 景色に前景と後景があるように、ことばの概念や配置にも前景と後景がある。「象は鼻が長い」は「は」と「が」の違いによって、大きな概念の象を後景として小さな概念の鼻をクローズアップして前景にしている。俳句にもある。五七五にこだわらない奔放な種田山頭火の句、「藪から鍋へ筍たけのこいっぽん」は藪を後景として、鍋と筍に焦点を当てる。「秋の空をいただいて柿が実る」と「柿が実る、秋の空をいただいて」は同じことを言っているようでも、前景と後景の扱いが違う。文章にも構図がある。

語句の断章(44)「つままれる」

半世紀以上前の話。大阪郊外の国鉄ローカル駅近くに住んでいた伯母おばは踏切を渡るたびに電車の音が聞こえたと言う。それが当たり前ではないかと思って聞き返したら、「それがね、電車が走らない時でも聞こえるのよ」。人を化かすために狸が電車の音を真似ていると伯母は信じていた。

狸の場合は「化かされる」がしっくりくる。「狐に化かされる」もよく見聞きする。実際ぼくも、若かりし頃は狸と狐のどちらにも「化ばかされる」と言うのだと思っていた。ある時、狐には「つままれる」が慣用だと知った。つままれる? 首をひねっても即座に分からず、化かされたような気分になった。

調べてみた。動詞「摘つまむ」は、つまま(ない)、つも(う)、つまみ(ます)、つまむ、つまむ(とき)、つまめ(ば)と活用し、云々……未然形の「つまむ」に受身の助動詞「れる」がくっついて「摘つままれる」になる、云々……という文法の知識を仕入れた。辞書も調べた。それでもまだ、「狐につままれる」の意味とニュアンスがすっと入ってこなかった。

狸は人を化かしたり騙したりする。狐もそうなのだが、狐の場合は化かされることを「つままれる」と言う。そして、「予期せぬことが起きて、わけが分からなくなってぼんやりとする」という意味をいっそう強く感じさせる。狐は狸よりもしたたかなようなのだ。

狸に化かされるのも狐につままれるのも比喩表現である。ぼくの伯母は実際に狸に化かされたと信じたが、普通は現実にあるはずもないことだと知っていて、「狸に化かされたような」とか「狐につままれたような」とたとえて、ぼんやりとした気分を現わそうとするのである。

なぜ狐には「つままれる」というちょっと手の込んだ言い回しをするのか。調べたが分からなかった。もしかして「狐憑つき」と関係している? 狐には霊があって、それが人にとり憑いて常軌を逸するような言行をさせるという、あの狐憑き。お祓いする祈祷師のばあさんが幼少の頃に同じ町内に住んでいた。さっきあのばあさんを思い浮かべたら、狐には「つままれる」以外の表現はふさわしくないと確信した次第である。

語句の断章(43)情報

すでに十分にわかっているつもり。だから調べようとしない。〈情報〉とはそういう類の術語。調べなくても怠慢とは思わないが、ひとまず『新明解国語辞典』を引いてみた。

じょうほう【情報】 ある事柄に関して知識を得たり判断のよりどころとしたりするために不可欠な、何らかの手段で伝達(入手)された種々の事項(の内容)。〔個別の事項が生のまま未整理の段階にとどまっているというニュアンスで用いられることもあり、知識に比べて不確実性を包含した用語〕

並大抵ではない苦心の跡が窺えるので、短時間で一気に書いたのではないだろう。三日三晩、いやそれ以上、ああでもないこうでもないと費やしたかもしれない。語釈だけで済ませておけばよかったのに、解説という深みに入って逆に荷が重くなったのではないか。

情報は〈知識〉と並べて定義するのがわかりやすい。今も「知識産業」という表現が時々使われているが、陳腐感は否めない。1960年代にすでに知識に代わって情報が優勢になっていたはず。知識は、“know”(知る)から派生した“knowledgeナレッジ“の訳語。あること・・・・を知ってそれを保存するのが知識。知識は「溜める/ストック」を前提とする。「知識を身につける」とはそういうことだった。

一方、情報は“informationインフォメーション“で、これは“inform”(伝える)から派生している。主として「inform+(人)+of/about/on+(こと)」という文型で使われる動詞で、誰かが別の誰かにあること・・・・を伝えるという行動を意味する。知識の「溜める/ストック」に対して、情報は人どうしの間での「伝える/フロー」が特徴。

知識も情報もほとんど同じこと・・なのだが、知識が「保存性」を特徴とし、情報が「流動性」を特徴とするのである。溜めて価値を生むのが知識、流してこそ価値を生むのが情報と言い換えてもいい。

「知らせ、通知、便り」という意味のドイツ語、“Nachrichtナーハリヒト“に森鴎外が〈情報〉ということばを当てた。情報は鴎外の造語である。「情なさけを報しらせる」とはやや古風に響くが、誰かが別の誰かに伝えるという点はしっかりと押さえられている。

自分が知りえたことを他人と分かち合い、社会で他人とつながろうとするのが情報の善用である。しかし、情報は悪用も可能で、自分が知りえたことは秘匿し、他人が知っていることを盗み取れば競争優位に立つこともできる。ともあれ、情報化社会は今に始まったのではなく、有史以来ずっと人間は情報行動に生きてきたと言うべきだろう。

察してもらうか、語り尽くすか

同じテーマで『ハイコンテクストな標識』と題して5年前に書いたことがあり、矢印(⇨)のサインと〈自転車を除く〉という文字の交通標識だけで意味が伝わるのかを検証した。伝わると思うからそれで済ましているのであり、これでは伝わらないと思えばことばで説明するはず。長ったらしい説明をハイコンテクストなビジュアルで置き換えるのが標識やピクトグラムやアイコンの役割である。

さて、「察してもらう」と「語り尽くす」は二項対立の関係にある。暗黙の了解に期待するか、とことん説明するか……英語では前者を「ハイコンテクスト」、後者を「ローコンテクスト」という。コンテクストとは文脈のこと。

同じ文化的背景を持ち、必ずしも言語に頼らなくてもある程度通じ合えるのがハイコンテクスト。お互いに文脈や行間を読んで理解することを期待し合う。他方、前提的な知識や非言語的要素に依存せずに、あくまでも言語で理解し合おうとするのがローコンテクスト。

ハイコンテクスト文化では「みなまで言う」のは野暮である。よく知る者どうしが「あれ」や「それ」で雑談し、わかっているのかわかっていないのかなどはあまり気にとめない。ローコンテクスト文化ではそんなコミュニケーションをもどかしく思うので、意味を明快にしながらとことん語り説明する。

以前は、日本がハイコンテクスト文化の国で欧米がローコンテクスト文化の国々として対比されたが、必ずしもそうとはかぎらない。二つ以上の文化が交わるTPOではハイコンテクスト交流には限界があるため、たとえば英語を共通言語として語り合うのである。しかし、どこの国であっても、特定のコミュニティの人どうしならある程度察し合うものだ。

ユダヤ人は言語と論理で語る典型的な民族とされているが、ユダヤ人どうしのコミュニティでは、日本人どうしと同じく、「省言語」の場面もよく出てくる。宗教と生活習慣と文化・しきたりを共有していればツーカーが当たり前になる。「察する」をテーマにしたユダヤジョークを一つ披露しよう。

わが子の出産に大喜びの夫が妻の両親に電報を打った。単語4つの短いメッセージ。電報を受け取った義父が、後日夫を詰問した。

「なんだ、あの電報は。あれだけの文字数はいらんだろう。わざわざレベッカ? レベッカ以外の他に誰がいるんだ? 他人様の女房が子どもを産んで、お前さんが義父のオレに電報を打つはずがない。しかもメデタクとは何だ⁉ めでたいのに決まってるじゃないか! シュッサン? 出産以外の生み方があるとでも言うのか? コウノトリが連れてきたのか? きわめつけはダンジだ。女の子だったらそんなに大喜びするはずがないぞ」

しょんぼりした娘婿に義父は最後にこう言った。

「お前が白紙の電報を打ちさえすれば、レベッカに男の子が生まれたくらいオレにはわかるんだ!」

ハイコンテクストな単語4つの電報を凌ぐ究極のメッセージは、白紙の電報なのだった。ハイコンテクスト文化にどっぷりと浸かっていると、かぎりなく沈黙に近づいていくことがわかる。

語句の断章(42)ノート

「ノート」は多義語だが、ほぼ「メモする、書きとめる」という意味で使われる。わが国では「キャンパスノート」や懐かしい響きのする「帳面」もノートと呼ぶ。英語で″noteノゥト”はメモのこと。キャンパスノートや帳面なら″notebookノゥトブック”と言わねばならない。

いま英語のノートはメモのことと書いたが、ノートは文脈によって意味を変える。動詞のnoteには「気づく、注目する」「言及する」「書きとめる」などの意味がある。名詞の場合は「筆記、メモ、覚書、注釈、短い手紙」「紙幣、手形」「語調、調子」「音、音符」「重要性、著名、注目」などとさらに多義を極める。

システム手帳体裁のノートブック(本ブログと同じく“Okano Note”と名付けている)

いろんな体裁のメモ専用の手帳やノートブックを使ってきた。ここ十数年は、買ってあまり使っていなかったシステム手帳を復活させてアイデアや文章を記している。メモをまとまって書いたり編んだりしたものが「手記」や「手稿」。『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は元のイタリア語では″Scritti di Leonard  da Vinci”。英語になると″The Notebooks of Leonardo da VInci”で、やっぱりノートブックになる。

メモを取るにしても残すにしても紙片に記すことが多い。紙片はまとめにくいし、まとめたとしても散逸しかねない。一冊のノートブックを使うほうがメモを生かすことができる。

一般的にメモを記す場合は「ノートを取る」という。これは誰かが言ったことを記録しているイメージだ。自ら気づいたことや考えたことを習慣的に記す場合は「ノートをつける」や「ノートに書く」。ノートに書くと言えば「愛用のノートブック」という感じがする。

ノート術についてよく聞かれることがあるが、好きなように書けばいいと思う。大切なことは、なぜ書きとめるかという点。忘れないためではない。後日読み返すことを前提にして書いているのだ。ノートは何度も読み返しては新たな気づきを付け加えて更新することに意味がある。もう一点は、知を一元化して統合しやすくしておくため。つまり、一冊のノートブックに書くことが重要なのである。

交渉のヒントとピント

問題解決や物事の理解の手がかりがヒント。問題や物事の中心に焦点を絞るのがピント。先人たちが残した交渉の鉄則からヒントは得られるが、自分の当面の問題にピントが合うとは限らない。一般的な格言や諺と同じく、上手に意味を汲むべきで、決して軽はずみに信じてはいけない。

「ディベートや交渉の指導はもうしないのかい?」と知人。「大がかりな場ではするつもりはない。個別に手ほどきするのはやぶさかではないけれど」と返答した。議論の勝ち方や交渉の進め方について30年以上講演や研修をしてきたが、学びたい人のための便宜的な手立てに過ぎない。ディベートや交渉で勝負しようとしている二人を相手に同時に手ほどきはできない。

相対する二者のレベルが上がってくるにつれ、基本原則や定跡としての交渉術は徐々に通用しなくなってくる。読み合いと裏のかき合いをすればするほど、上級者の間では戦術が通用しなくなるのだ。交渉術は中級者向けであり、相対する両者に駆け引きの技量の差がある時に有効だと言える。という前提のもとに、いくつかの「術」を紹介しよう。

「ことば。それは人間が使うもっとも霊験あらたかな薬だ」(ラドヤード・キプリング)

👉 交渉は「ことばのチェス」である。軽はずみにことばを使う者は交渉事でなかなか勝てない。ことばの重みを知り尽くし、ことばの「薬効」に詳しい者が有利に交渉を進めることができる。

「物事を体系的に扱おうとするなら、まずその定義から始めよ」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)

👉 定義が曖昧なら弱者もいい勝負に持ち込める。相手より少しでも力上位だと自覚するのなら、まず重要なことばを明確に定義して交渉をリードするべきである。自分が定めた定義で議論したり交渉を進めたりできていれば、すでに形勢は有利になっているはず。

「敵の手の内を熟読すること。われらの敵はわれらの味方である」(エドモンド・バーグ)

👉 「あの人はこういう人で、こんな考えをする」という他人からの情報を当てにしてはいけない。敵に喋らせて一言一句をフィルターにかけてホンネとタテマエをその場で即興的に見極めるのがいい。いま目の前にいる当面の敵こそが最大の情報源なのだから。

考えを理解してもらうには大言壮語してはいけない。短いセンテンスで小さく言い表せ」(ジョン・パターソン)

👉 争点が分かっておらず理解も不十分な人ほど大言壮語する。すなわち、抽象的なことばを振り回す。たとえば「自由で開かれたインド太平洋」という漠然とした概念を繰り返す相手は恐くないのである。これに対して、争点がよく分かっている人は、ここぞという場面で具体的かつ簡潔に話をする。

「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ」(チャールズ・ニールソン)

👉 「さあ、イエスかノーか、どっちなんだ?」と迫る問いに即座に答えられない時、「二者択一では答えられない」などと平凡に返してはいけない。とりあえず「ノー」で凌ぐ。ノーと言っておけば後でイエスに変えることができる。イエスに対して相手は受容しやすい。しかし、イエスと言って、後で「やっぱりノーだ」と変更すると弱みを露呈することになる。

「種蒔きと刈り取りを同時におこなうな」(フランシス・ベーコン)

👉 質疑応答や情報提供は交渉の下地づくりの過程である。たとえば「この情報をご存知か?」と尋ね、相手にイエスかノーかの答えを迫る。ノーと答えた相手にその場で「ノーはおかしいじゃないか!? 」と反論するのではなく、黙ってうなずく。このような種をたくさん蒔いておき、次に「これまでの質疑応答を通じて問題が浮き彫りになった」と切り出して、重要な争点の刈り取りに取り掛かる。急せいてはいけない。