処暑迎えてなお残暑

「暑と署」を書き間違いする成人を見受けるが、「暑」は小学3年生で教わる漢字という。よく見ると、上から下へ「日+耂+日」という要素で組み合わされている。この一字がいかにして「気温が高い」という意味になったのか。

「日」は太陽である。太陽の下に柴の意の「耂」があり、それがもう一つの「日」の上に積まれている。者は「煮」に通じている。上からも暑く、下からも熱い。大暑、極暑、炎暑など並べて声に出してみると、見た目も響きも焼きつきそうな熱を感じさせる。

暑中見舞や残暑見舞のハガキは減っているが、今年もいろいろ届いた。一枚一枚あらためて眺めていると、暑の文字が体感温度を少しずつ上げていく。78年前だったか、三重県のセミナー担当者からいただいた、松阪牛を象った礼状兼暑中見舞が記憶に残っている。ペーパーの松阪牛に続いて暑を制する焼肉用の松阪肉の宅配を期待したが、届かなかった。


暑をエアコンでなだめようと頑張ると闘争になってしまう。人が暑と闘っている図が浮かぶ。近年は一夏を過ごすために暑を打ち負かさねばならなくなった。今ほど激暑でなかった半世紀前までは、「冷やす」という高コスト手段ではなく、「涼をとる」という省エネが夏の過ごし方の標準だった。

風鈴、かき氷、団扇、西瓜、夕涼み、打ち水、金魚すくい……。これらは夏に勝つ手段と言うよりも、今風に言えば「ウィズコロナ」に近い。「ウィズ暑さ」という共存の知恵である。

先週末「金魚すくい飴」という飴が売られていたので、一袋買い求めた。封を開けて舐めなくてもいい。これは涼をとるささやかな工夫である。昨日は処暑だった。暑さが峠を越して朝夕に涼風がそよぐというのは昔の話。二十四節気の暦を鵜のみにしてはいけない。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

語句の断章(35)演繹と帰納

〈演繹〉と〈帰納〉は決してやさしくない哲学用語である。研修で何度か使っているが、中心テーマになったことはなく、周縁的にさらりと使うだけで深く掘り下げていない。質問を受けたこともない。ぼんやりとわかっている、辞書を調べてもあまりピンとこない、わかっているつもりだが「意味は?」と聞かれたら説明できない……演繹と帰納に対してはおおむねこの程度の距離感の人が多いのではないか。

手元の『新明解』によると、演繹とは「一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個々の事実や命題を推論すること」、帰納とは「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出すこと(方法)」。この説明を読んで、「ガッテン!」と膝を打つ人はたぶんいない。

ぼくの場合、だいたいの意味がわかるきっかけになったのは英語だった。演繹と帰納はそれぞれ英語で“deduction”“induction”という。使った英英辞典は新明解以上に明解で、演繹は“from general to special”、帰納は“from special to general”と定義されていた。一般から特殊を導くのが演繹、特殊から一般を導くのが帰納。枝葉が省かれてわかりやすかった。

たとえば何かについて話す時、総論から始めて具体的な事柄を紹介するのが演繹的話法。他方、一つまたは複数の具体的な事例を切り口にして一般的な考え方で結ぶのが帰納的話法。演繹と帰納のことを知らなくても、現代人にはこの二つの思考パターンやまとめ方が刷り込まれている。一つの原理をいくつかに分析するか、複数の情報を総合するかのいずれかなのである。


演繹を図で表わすと上記の通り。一つの大きな概念を具体的なコンテンツに小分けする。「横綱を目指す力士は〈心、技、体〉を鍛えなければならない」や「日本の通貨には、一円、五円、十円、百円、五百円の硬貨と、千円札、二千円札、五千円札、一万円札の紙幣がある」。トップダウンの構造になる。


上図は帰納の構造を表したものである。演繹の図とは矢印の方向が逆になっている。小さな情報のいくつかを一括りにして上位の概念にまとめる構成だ。たとえば、「Aさんは時々遅刻する、アポの時間を忘れる、新幹線に乗り間違える。時間にルーズなAさんは社会人失格」とか、「香川、徳島、愛媛、高知の4県を四国という」など。ボトムアップの構造をとる。

語句の断章(34)説明

よほどのことがないかぎり、大人が「説明」の意味を辞書で調べることはない。みんなわかっていると思っているし、誰かに突然意味を聞かれることを想定していない。だから万が一誰かに説明の意味を聞かれたら困る。しかし困っても、「説明の説明? 何を今さら」などと居直るのも大人げない。

試してみればわかるが、たどたどしい物言いになり、ついにはことばに詰まる。説明についてよくわかっていなかったことに気づく。しかし、失望しなくてもいい。『新明解』にしてからが、それがどういうものであるか(事情で存在し、また起こったか)を相手に分かるように(順序を立てて)言うこと」と、ずいぶんぎこちないのである。

企画書を書いたり人前で話したりすることを生業としてきた。読む人のために書き、聞く人のために話すのはわかってもらうためである。長年の癖で説明が饒舌気味になりやすい。この癖のお陰で仕事が成り立っているので悪しき癖ではない。しかし、この癖は曲者だ。説明過剰は野暮で美的感覚を損なうからである。

もともと美的感覚には不条理の要素がある。その不条理をほぐしてみせるのが説明だ。わけのわからないまま済ませず、ごまかさない。まるで正義の味方のようだが、説明に躍起になると人間もことばもつまらなくなる。それどころか、説明の根本であるはずの因果関係を見失ったり本末を転倒させてしまったりしかねない。

天気予報では台風の進路を示す「可能性」の円をよく見る。ある気象予報士が言った、「円が大きいと言うことは、進路の方向が定まらず絞られていないということです」。わかりやすい説明なので不都合はない。しかし、因果関係的には正しくない。進路が定まらないから円を大きく描いていると言うべきである。

辞書が言う「あることを筋道を立てて相手が分かるように書いたり話したりすること」は、知識がなければできないことである。しかし、相手の理解を以て完結するなどと考えるとハードルが高くなる。小学生から高齢者まで、素人から専門家まで、相手はいろいろである。相手相応の説明になっているかどうかは、やってみないとわからない。

説明についての説明をほとんどしていないことに気づいた。最後に、苦しまぎれに次のように説明しておきたい。

説明とは自分の知識に応じてできるかぎり物事をかすことであり、相手が分かってくれれば幸いだが、説明の内容や相手の知識によっては説いたことがうまく伝わるとはかぎらない、そんな疎通努力の一つ。

固有名詞を記号に変えてみた

歩いたり電車に乗ったりして過ごしたある日の半日。そのことを技巧を凝らさずに時系列で綴ったことがある。実話なので固有名詞をふんだんに使っている。すべての固有名詞を記号に置き換えてみたらどんな感じになるか……ふと、つまらない好奇心が湧いた。アルファベットで試してみた。

自宅からM線のH駅まで歩き、メトロでO駅へ。そこでF展覧会のチケットをディスカウントショップで買い求めようとしたが、まだ営業時間前だった。
S電車でO駅からK駅までは特急。K駅で普通電車に乗り換えてI駅へ。駅から徒歩67分の所にP美術館がある。建築に工夫のある美術館だ。水辺近くに建つが、海の風景には雑多な建物が入り混じり、必ずしも晴朗美観とは言えない。
帰り道。これと言った食事処がなく、I駅の踏切を通り過ぎてR電車のN駅まで歩いた。その近辺のとある店で「やむなく」という感じで海鮮丼を注文した。可と不可の境界線上にある微妙な味、おまけに微妙な値段。
このN駅、普通電車しか止まらないのに立派過ぎる。一つ戻って特急に乗ることもちらっと考えたが、帰路途上にあるA駅まで普通に乗ることにした。各駅に停車するので所要時間は特急の2倍の約45分。A駅でT線に乗り換えてM駅で下車し、そこから歩いて帰ってきた。
N駅からO駅なら410円だが、O駅手前のA駅を経由してM駅まで乗ると550円になる。ちょっと解せない料金設定だ。
往路の一部は特急に乗ったが、帰路は久しぶりの各駅停車的移動だった。特に急いでいないのなら、普通電車を乗り継いでの近郊半日の小さな旅。まんざら悪くなかった。

ありがたいことを書いているわけではない。固有名詞まみれの個人的なドキュメントだ。固有名詞のすべてを匿名希望的に、一地名や一駅名を一つのアルファベットで表記すると、文章は瞬時に無機的になる。無機的ではあるが、こういうのをクールとは言わない。どちらかと言うと、不気味だ。

ところがである。原文で出てくる固有名詞になじみがないとか、見たり聞いたりしたことはあるが土地勘がないという場合は、アルファベット表記の一文字仮名かめいで書かれた文章を読むのとほとんど変わらないのである。たとえ行ったこともなく土地に不案内だとしても、ニューヨークや上海が出てきたら少しは読み取ろうという気になるものだ。

しかし、ここまで書いてきて、本質的に重要なことに気づいた。リアルな固有名詞であろうと無機的なアルファベットの匿名であろうと、書かれた内容に興味を覚えなければイメージは湧かないし読む気は起こらない。関心があればわかりにくい文章でも読むし、関心がなければどんなに読みやすい文章で書かれていても読まないのである。

語句の断章(33)大衆

オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』のような難しい話は書けない。いや、できない。いつも通り、語句を断章的に綴るのみ。

大衆とは集団である。英語でも“mass”とか“public”と言うから、大多数から成る一つのまとまりだ。多くの人々で構成されるそのまとまりは権力や財力や特権を持たない。つまり、大衆は知識人やエリートや貴族ではない。どちらかと言えば、労働者的である。

食堂という普通のことばを大衆食堂と言い換えるだけでチープ感が滲み出る。「メシ屋」のイメージが強くなる。大衆食堂の単品メニューはカレーライス、オムライス、ラーメン、うどん、そば、チャーハン、丼である。定食は焼き魚、煮魚、トンカツ、鶏のから揚げ、野菜炒めなどの主菜に、ご飯、小皿一品、味噌汁、お漬物が付く。ご飯は大中小から選べる。

文学に大衆をかぶせてみよう。大衆文学はいきなり純文学との違いを主張する。純と違うなら不純なのだろうと勘違いされる。純喫茶でない社交場がかつて特殊喫茶と呼ばれたように、大衆小説も特殊な場面や関係が描かれることが少なくない。いやいや、それは偏見だ。できるかぎり幅広い読者層に楽しんでもらうのが大衆小説の売りだった。

ともあれ、以上書いてきたことはすでに過去の話である。今となっては大衆を見つけるのは難しい。人々が個性的で十人十色になったと言い切る自信はないが、高度成長時代までの十人一色という趣とはまったく違う。大衆は分衆化したのである。そして、分衆は「小衆」の様相を呈し始めている。

カタチを小衆に変えた現代の大衆は「ステキ」と「うざったい」の対象を変えた。彼らにとって知識人やエリートや貴族はうざったいのである。ネットはステキだが、新聞はうざいのである。思いつきはステキだが、理性はうざいのである。その昔、大衆の一員だった者が今の大衆についていけなくなり、うざい存在になりつつある。

語句の断章(32)観察

使用頻度の高い語句には認識の油断が生じる。「観察」もそんな語句だ。観察ということばを使う時、「○○を観察する」というふうに注意は対象に向く。しかし、観察者自身のこと、たとえば観察者の立ち位置などには注意が向かず、また意識も薄い。

『新明解国語辞典』によれば、観察とは「そのものがどうなるか、どういう状態であるかありのままの姿を、注意して見ること」。「ありのまま」とは何だろう? 念のために「ありのまま」の項を見ると、「何の粉飾もせず、実情のままであること」と書いてある。今度は「実情のまま」がよくわからない。

新明解は「観察眼」も取り上げていて、「うっかり見のがすようなところをも、見落とすことなく正しく見る力」と説明している。この「正しく見る」がまた、悩ましい。

ありのまま、実情のまま、正しく見る……こう言い放つのは簡単だが、いま目の前にあるコーヒーカップをどう観察すればありのままに見たことになるのか。あるいは、このコーヒーの味をどう感じた時に本来の味として正しく飲めたことになるのか。

「テーブルの上に3個のリンゴがある」と言えば、実情のまま観察しているかのように思える。しかし、それは数字の「3個」についての正しさであって、テーブルやリンゴについてはありのまま、実情のまま、正しく見ているという保証はない。現実と観察の間には誤差があるのだ。誤差とは個人差であり、個性の違いにほかならない。ゆえに、対象は観察者によって変わる。

対象を観察したデータは、観察時の視線の角度や光によって変化する。何よりも観察者自身の存在がデータを変えてしまう。観察環境がつねに一定などということはありえない。

ところで、桜の標本木を決め、つぼみの状態を毎日観察して開花を宣言をする習わしがある。気象や植物の科学に基づいているとは言いいがたい。標本とされた桜は任意に選ばれたのであり、観察者がチェックして「桜が咲いた」と解釈し「開花しました」と表現しているにすぎない。開花の観察と宣言とは、科学的と言うよりも文学的と言うべきではないか。

味の表し方・伝え方

料理の話をした時に「どんな味だった?」と聞かれるのが一番困る。味を思い出しながらことばを選んでいるうちに、相手が焦れて「おいしかった?」と聞き直す。おいしかったら「おいしかった」と答える。情けない返事だがしかたがない。ところが、この返事に相手が納得顔することがある。儀礼で聞いているのだから、答えなんかどうだってよかったのだ。

「おいしい」で味が伝わるか。では、もっと具体的に「塩味が効いていた」とか「甘酸っぱい」とか言えば、相手が疑似体験できるのか。味や食感を事細かに説明することはできる(実際、ソムリエのワインの説明はかなり饒舌だ)。しかし、伝わるかどうかは別問題。個々の断片情報を統合して首尾よくイメージをつかんでくれる人はめったにいない。

食事処でドラマが展開する『孤独のグルメ』では、松重豊演じる主人公の井之頭五郎が一口食べるごとに〈内言語〉でつぶやく。「ほう、こう来たか……」とか「おー、スパイスが口の中で広がっていく……」というコメントの類が、食べる表情と相まって味のニュアンスをよく伝えてくれる。「おいしい」で済ましているのが恥ずかしくなる。


「パスタは3種類からお選びいただけます」とメニューに書いてあった。「シェフのおまかせショートパスタ」を選んだ。出てくるまでどんなパスタかわからない。出てきた。食料品店で見たことはあるが名前は知らない。もちろん初実食である。どんな味でどんな口当たりか……後日これを誰かに伝えるのは簡単ではない。

こういう時、味ではなく、似たものを持ち出すのがよい。「マカロニを縦に半分に切ったショートパスタ。ソースがよくからみ、マカロニよりももちっとしてやわらかい」。マカロニを持ち出すだけで伝えやすくなる。ちなみに、「マカロニを縦に半分に切ったパスタ」と入力して検索したら、Googleもピンときたようで、「スパッカテッレ」だと教えてくれた。

類似を持ち出すのは本居宣長おすすめの表現話法である。『玉かつま』の一節を引く。

すべて物の色、形、また事の心を言ひさとすに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり。そは、その同じ類ひの物をあげて、その色に同じきぞ、何の形のごとくなるぞ、と言へば、言多からで、よくわかるるものなり。

「色や形や特徴をことごとく細々と説明するよりも、類似のものを挙げて色、形を見せればことば少なくしてよく伝わる」というようなことを書いている。写真で見せれば済むことが多いこの時代、対比できるものを一言添えるだけで写真以上のプラスアルファが伝わる。もちろん、類似のものを知っていることが前提。食の知もないよりはあるほうがいい。

言い換えの実験

今となっては、「たらちねの」や「ぬばたまの」などの枕詞にほとんど出番はない。かと言って、死語になったわけではない。「正月にたらちねの・・・・・母に小遣いをあげた」とか「ぬばたまの・・・・・黒髪を失って櫛無用」などと、おどけたり冗談言ったりする使い道がある。ギャグやパロディなら古いことばでも生き残ることが可能だ。

使う人はいるが理解できない人もいるために、共有しづらいことばがある。たとえば、「土壁つちかべ」と言ったら、若い人に「それ、何?」と返されるというケース。また、今の実情に合わなくなった古いことばもある。たとえば、ほとんどの人がコーヒーを飲んでいるのに、「喫店」は昔の呼び名のまま粘っている(「百貨店」もこの同類である)。

かつて頻繁に使われたことばがやがて絶滅危惧種となる。ついには意味も失って消えてしまう。ごく一部のことばは新しい表現を得て何とか生き延びる。「きみ、遅れているよ。響きも不自然だよ」と、時代と現実がことばにクレームをつける。こうして新語がいくつかの実験を経て、その時代に合う言い換えパラフレーズがおこなわれるようになる。


「土壁って何ですか?」と聞かれて、説明するのはたやすくない。苦しまぎれに土塀どべい」と言い換えた。同じように「土塀って何ですか?」と聞かれる。「土を使って作る塀だよ」では説明になっていない。土壁を「竹の骨組みや瓦を挟むように土を塗り込んだ壁」と描写しても、その試みは空しい。土イコールearthアース、壁イコールwallウォールと英訳して「アースウォール」などとシャレても「地球の壁」になってしまう。土転じて泥沼と化す。

喫茶店のメニューが紅茶ではなくコーヒーが中心なら、カフェと言い換えるのがトレンドで、実際そういう店が増えた。しかし、今風の日本語に直すのは難しい。コーヒーショップなどと言ったら昭和に逆戻りだ。レトロの雰囲気を求めて「珈琲館」と言い換えれば、チェーン店になるし、時間を大正時代まで巻き戻してしまう。

コーヒーでのおもてなしなのに「粗茶でございますが……」には違和感を覚える。コーヒーなら「粗珈そかでございますが……」と言うべきだろう。しかし、「えっ、ソカ?」と怪訝な顔をされる。時代や現実に合った言い換えはむずかしい。いつか機会があれば、「はかなし煎じものにござりますが、あお・・によしブルー・・・マウンテンを召し上がれ」と実験してみようと思っている。もちろん出すのはブルーマウンテンもどきだ。

語句の断章(31)惜敗率

冬季五輪のアイスホッケーの試合を観戦していた先週のこと。シュートが外れたり防がれたりするたびに解説者が「惜しい!」と叫ぶ。シュートは230本打って1本入るかどうかの確率だから、いちいち「惜しい!」と言ってるとキリがない。スポーツやその他の勝負事では、うまくいかなかったり負けたりする時はいつも惜しいのである。

小選挙区に適用される「惜敗率」の英語翻訳をチェックしてみた。どれも苦しまぎれの文章のような訳だった。簡潔でこなれた英語フレーズにならないのだから、わが国固有の発明と言ってよい。惜敗率について、少し説明をしておく。

ある小選挙区で最多得票した当選者の得票数を分母とし、敗れた候補者の得票数を分子とする計算式の率のこと。たとえば、当選者5万票の場合、4万票の落選者の惜敗率は80パーセント、1万票なら20パーセントになる。当選者が一人だけの小選挙区では僅差でも次点以下の候補者は全員落選になる。しかし、落選者が比例代表で重複立候補していれば、敗率次第では復活当選できるのである。上位の落選者を差し置いて、下位の落選者が復活することも稀にある。


惜敗とは言うものの、復活当選すれば負けたことにはならない。惜敗であろうと惨敗であろうと、ぼくたちの生きる社会では普通は「負けは負け」である。しかし、政治の世界では「負けるが勝ち」になる。勝つということが二重構造になっているわけだ。トーナメント形式のスポーツには一度に限って敗者復活戦のチャンスが与えられるものがある。しかし、プレーオフに出て勝つことが条件である。一方、惜敗率で救済される立候補者は再選挙無しに負けを勝ちにできる。

「善戦もむなしく惜敗」と称えられようが、スポーツの世界でも実社会でも負けである。ところが、国政選挙では「善戦」が「敗北」の事実よりも優先され、惜敗率というマジックで生き返る。前回の衆院選では惜敗率20パーセントの候補者が比例代表で復活した。惜敗ではなく大敗だったにもかかわらず。

惜敗率とは悪知恵である。者の負けしみが文字通り「惜敗」となって、どさくさまぎれで勝ち組になる抜け道にほかならない。この救済策を法律が担保している。