ディベートをあまりよくご存じない人のために書く。
ディベートとは、ある論題を巡って、賛成を唱える〈肯定側〉とその肯定側の意見に反対する〈否定側〉が是非を議論する討論形態の一つ。折衷論や中間意見を排除して、イエスとノーだけの二律背反的討論を繰り広げる。
論題には政策を扱うものと価値を扱うものがある。たとえば「わが国は首相公選制度を導入すべきである」が政策論題、「電子書籍は有益である」が価値論題である。いずれの論題でも、賛成か反対かを巡って意見が対立する。議論する立場の肯定側と否定側は、それぞれ“Affirmative”と“Negative”という英語からほぼ直訳されたようだ。役割面から言うと、肯定側が論題を「提唱」し、否定側が提唱内容を「検証」する。
まず最初に、肯定側が論題を支持する主張・証拠・論拠を論じる。これを〈立論〉と呼ぶ。この立論に対して否定側が〈反対尋問〉をおこなう。わかりやすく言えば、質疑応答である。次いで、否定側の立論に対して肯定側が反対尋問する。こうして、お互いに立論と反対尋問を通じて争点を浮き彫りにし、次のステージでは相手への反論、相手からの反論に対する防御をおこなう。このステージを〈反駁〉と言う。
ディベートの要となるのが反対尋問である。上級者どうしになると鋭利な質問が投げ掛けられ、鮮やかな応答でしのぐ。観戦者は見事なやりとりに息を飲むことがある。アメリカの政治家・外交官であり弁護士でもあったジョン・W・デイビスは、反対尋問を「もっとも大切でもっとも難しいヒューマンスキルの一つであり、人の性格が反映する」と断言する。つまり、反対尋問の仕方と受け答えを見れば、その人が不器用であるか軽率であるか自信過剰であるかがわかると言うのだ。
そのデイビスが父親から読めと言われて手渡されたのが、名高い弁護士フランシス・L・ウェルマンの著になる『反対尋問』である。書かれたのは1903年。19歳でディベートに出合ったぼくは当時この本の存在を知らなかった。37歳の時に大学生・社会人のためのディベート研鑽の場である関西ディベート交流協会を起ち上げ、国内外を問わずディベートに関係する書物を買い漁った中にこの一冊があった。
本書は教育ディベートのための反対尋問ではなく、裁判における反対尋問の実録集である。そこらの読み物の比ではないほど、スリルとサスペンスに満ちた質問と応答の応酬が繰り広げられる。今もオフィスの本棚にあるこの本、傷みが激しい。ぼくが二度、三度読んだだけならこうはならない。実は、ぼくの弟子筋の一人に貸したところ、その話を聞いて次から次へとリレーされて「貸本」状態になったせいである。久しぶりに手に取ってみて、ある種の感慨を禁じ得ない。稚拙なコミュニケーションで苦しむ人たちにこの本を読んで欲しいとは思わないが、せめて「問う技術、答える技術」を磨く努力を怠らないようにと願うばかりである。