秘密にせず、何もかも見せて明らかにすることを「包み隠さず」と言い、おおむね良いことだとされる。逆が「包み隠す」。他人に知られないように秘密にするのはよろしくない。しかし、素直に読めば、包み隠すとは「包んだ結果、隠れてしまう」とも読めるから、内緒にするという魂胆があるとも言えない。包めば隠れるもので、その類の料理も少なくない。
何かを包めば覆うことになり、隠すつもりはなくても人目には触れない。風呂敷に包んで結んだ手土産は、ほどかないかぎり見えない。同様に、ギョーザの皮で包むと餡は見えない。どんな具材がこねられたのかはわからない。焼きたてをタレにつけて口に放り込んではじめてわかる。いや、何となくわかるだけで、材料をすべて言い当てるのは意外に難しい。
ギョーザもシューマイも中身が見えない。巻き寿司や春巻きもそのままなら中身は見えないが、たいてい断面が見えるように皿に盛られる。巻くというテーマと包むというテーマは似ているようで、実は大いに違っているのだ。巻いたものが見えても不自然ではないが、包んだものが見えてしまっては意味がない。包むというテーマでは、最初から中身が見えなくなることが前提になっている。
誰かが包んだものを口に運ぶ時は中身が見えないし、当然中身を知らない。しかし、包む料理には自分で包むものがあり、その場合は何が入っているかわかって食べることになる。北京ダックはそういう一品だ。北京ダックは高級料理であり、どこの中国料理店でもメニューになっているわけではない。だから、そぎ切りした北京ダックの皮の代わりに、甘味噌で炒めて細切りにした牛肉を包んで食べる。かなりリーズナブルな値段になる。
何を包んだかわかっている。しかし、中身を見ずに口に運ぶ。餅皮と牛肉ときゅうりと白ネギの重なり合いがどんな味に化けるのか、ワクワクする瞬間である。包む料理の醍醐味はここに尽きる。
哲学に〈内包〉という術語がある。「牛肉の細切り甘味噌炒め」で言えば、烤鴨餅で包まれる具という共通概念のことだ。内包には対義語がある。それを〈外延〉という。具という上位概念で済まさずに、いちいち牛肉の細切り、きゅうり、白ネギと具体的に示すこと。包む料理とは、外延的に包んだものを内包的に口に運ぶという哲学的料理にほかならない。