仕事上でもプライベートでも人と会う機会が減った。会わないので喋ることもない。会って話すからこそ世間とのつながりが意識できる。人に会いもせず話もしなければ自分の社会的存在が希薄になる。テレビはその希薄さを補ってくれそうもない。そこで本を読む。気まぐれの読書時間に〈他〉とのつながりがかろうじて生まれる。雑読が社会を垣間見る小窓になっているような気がする。
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同じような内容の本をなぞり読みしてもしかたがない。そんな読書を続けているとマンネリに陥り、むしろ閉塞感が募る。一人だと何をするにしても新しい発想は生まれにくい。発想そのものは変えづらいから、対象を変えてみるのが手っ取り早い。気分と発想の転換には雑学が有用で、雑学の基本はやはり雑読だろうと思う。
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卑しく雑学を身につけようなどと思わないが、雑読の成果はほとんどの場合「ことば」の形を取る。そうか、いろいろ本を読んでいろいろ知るということは言語感性に役立つのか……と思うことがある。浪花節に、客受けをねらってわざわざ笑いを取る、「けれん」ということばがある。「けれんみがない」という表現は知っている。もっと言えば、その用法しか知らない。先日読んだ本には「あの人の芸は基本がけれんだ」というくだりがあった。そうか、けれんは生のままで使えるのだとえらく感心した。
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勉強は永続する価値だと信じて疑わない経営者仲間がいる。そんな終わりなき学びに緊張感を抱き続けることはぼくにはできない。学びには常に一区切りをつけるべきであり、その区切りのつけ方に個性が出ると思う。経営者が経営に打ち込む以上に経営の方法を熱心に学んでいるのは、画家が絵筆を使って絵を描かずに絵の描き方ばかり学んでいるのと同じく滑稽な姿ではないか。
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生きねばならないし、支えなければならない人たちもいる。そんな理由から、つい経済中心の仕事と生活に比重が傾いてきたが、経済感覚が人生で支配的にならないように仕事の本は極力読まないようにしてきた。今も仕事と直接関わりのない雑読を心掛けている。問題解決を容易にしてくれそうな、ハウツーとして役に立ちそうな読書を、もう一人の自分が「情けない、見苦しい、美しくない」と批判している。そもそも読書は、効能を急がずに、遠回りを覚悟する行為なのである。