読書中に辞書に寄り道

既視感デジャヴが働いてくれると読書にともなう苦痛が少しは和らぐ。「いつぞや読んだような気がする」という感覚が読書への集中を促してくれる。読んでいないかもしれないので、単なる錯覚のこともある。たとえ錯覚であっても、再読しているような気持になれれば儲けものだ。再読には余裕と安心感がある。

読書は愉しいのだが、きつさも付きまとう。内容によっては何時間も何日も集中力を維持し続けられず、こんなにしんどいならいっそのこと中断しようと思うこともある。中断して放置したままにしておくと、挫折して敗北感に苛まれることになる。そうならないように、中断する時はわかったつもりになって読んだことにしておく。

読書は没頭できるに越したことはない。しかし、不明のことばが連続して出てくると気が散る。それでも、たいていは前後関係で見当をつけて読み進めるようにする。稀に調べずに済ませられない時があり、見開いた本をうつ伏せにして辞書を引き意味を確かめる。この作業が寄り道になり、時には脱線してしまって、読書は長時間中断することになる。


先々週のこと。ある本を読んでいたら「一斑いっぱん」という初見の熟語が出てきた。その本が何であるかはわかっているが、このことばが使われた箇所に印をつけなかったので、本を繰っても探せない。「一斑を述べる」と書いてあったのは覚えている。まだらが一つだから一部という意味だろうと見当をつけたが、気になってしかたがないので辞書を引いた。

辞書には「全体の一部分」と書いてあり、「一斑を述べる」という例文が示されていた。対義語は「全豹ぜんぴょう」と言うらしい。一斑も全豹も古めかしい表現だから捨て置けばいいのに、ここから道草の連鎖が始まった。全豹とは「物事の全体の様子」。「なぜ豹によって言い表すのか」と気になったが、寄り道すると大変なことになりそうなのでやめた。この時点で本に戻るべきだったが、別路線の道に迷いこんでしまった。

「一で始まる二字熟語は一体・・どれくらいあるのか」と気になり始めたのである。元に戻した辞書を再び手に取り、「一」の見出し語からページをめくってみたら延々15ページ以上続いていた。1ページの見出し語を一目・・30とすると、合計450にのぼる。すべての二字熟語に目を通す破目に陥った。

読書を中断して辞書に寄り道するのを習性とか癖だとは思わない。おそらく本読みよりも辞書引きのほうが楽だから、自然とそうなるのだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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