ばったり会った。「奇遇ですねぇ」と知人。いやいや、同じエリアで事務所を構えているのだから、たとえ久しぶりでも奇遇などとは言わない。「やあ、しばらく」でいいと思う。
ぼくらが、たとえば東京下町の、あまり観光客が踏み入れない居酒屋でばったり会ったら、その時は「奇遇」である。そして、会ったのは偶然だが、「もしかして周到に準備されていた出来事ではないか」などと思えば、出会いが〈符合〉めいてくる。
AとBという事実や話が、まるでセットだったかのようにぴったり合うことが符合である。しかし、事実にしても話にしても、何から何まですべてが一致してしまうと逆に怪しい。むしろ、いくつかの要素がたまたま共通したり一致したりしている時に偶然が脳裏をよぎる。本来の符号よりも「部分的な符合」のほうが不思議なのだ。
6年前の4月23日に映画『孤独のススメ』を観た。翌24日に国立国際美術館で『森村泰昌 自画像の美術史』を鑑賞した。森村は名画の登場人物や歴史上の人物に扮してセルフポートレート作品を制作する先駆的アーティストである。別に驚いたわけではないが、まったく接点のない映画と展覧会にいくつもの符合があった。
森村の自画像にはレンブラントとゴッホに扮した作品がある。いずれもオランダ人だ。映画『孤独のススメ』はオランダ映画で、舞台もオランダ。オランダつながりということなど、いくらでもある。
ゴッホを生涯支えたのは弟のテオ。テオという名の人物が映画でホームレスの居候として登場する。このひげ面の居候が女装するからおかしい。ところで、女装の自画像も森村作品の特徴である。いや、独壇場と言ってもいい。
森村の展覧会では美術展としては珍しい70分の映像が上映された。その中で森村は羊の群れに囲まれる。そして『孤独のススメ』では、テオが羊の鳴き声のマネが得意で、羊の扱いに手慣れたシーンが出てくるのだ。
映画を観て、一晩寝て、次の日に認知した部分的な符合。何もかもが似ているのではなく、オランダ、テオ、女装、羊という部分的な共通性にたまたまぼくが気づいただけの話である。大いに驚いたわけではない。しかし、このほどよさが偶然と符号の不思議を余計に感じさせる。