空き時間に再読した「古典もの」の抜き書きを集めてみた。まずは福沢諭吉。有名なあの一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が象徴する啓蒙主義的言説に少々飽きてはいるが、やっぱり随所でいいことを書いている。
人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己の定見なき者あり。(『学問のすゝめ』)
(見聞を広めるだけで人は立派にならない、読書に勤しんでも著名人と付き合っても自分の意見が持てない者がいる)
昔からのやり方に固守する儒者や洋学者にもこの類が多いと言う。読書はしないよりもする方がいいし、抜き書きもしないよりはする方がいいと思うが、効能の過信には気をつけたい。
「学問」つながりで、17世紀イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コからの青少年教育に関する抜き書き。
記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも、確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。(『学問の方法』)
近年、わが国の教育は記憶させることに偏重している、思考力にもっと力を入れるべきだと批判されてきた。ぼくもその主張に与した一人である。しかし、最近では、何が好きで何に適性があるかもわからない少年期は記憶力優先でいいような気がしている。青年になってどの方向に進むにしても、記憶力――ひいてはヴィ―コ言うところの想像力――が役に立たないはずがないからである。
吉田兼好に対しては立ち位置の取り方が難しい。ある段の話には四の五の言わずに共感するが、別の段には不快感を覚えることもある。あるいは、二律背反的な解釈の余地がある段も少なくない。たとえば次の一節。
筆を取れば物書かれ、楽器をとれば音を立てむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤打たむことを思ふ。心は必ず事に触れて来る。仮にも不善の戯をなすべからず。事理もとより二つならず。外相もしそむかざれば内證必ず熟す。(『徒然草』第一五七段)
(筆を手にすると書きたい、楽器を手にすると奏でてみたいと思う。さかずきを手にして酒を思い、サイコロに触れると博打をしたくなる。物に触れるから心が動く。だからよろしくない遊びに手を出してはいけない。現れることとあるべきことは別のことではない。外に出てくることが道理に合っているなら、悟りはきっと熟してくる)
こんなふうに言われると、つい「なるほど」と感心させられる。しかし、思いついたことを記そうとしてペンを取り、一曲奏でようと思ってギターを弾くという、動機から行為へという流れもよくあるはず。ところで、酒とギャンブルを書や音楽と同列には語れない。酒飲みは何かにかこつけて飲むだろうし、金を持てば飲み、金がなければ金を借りてでも飲む。ギャンブル好きも同じ。どんな対象でも賭けの対象にする。そして、金を持てば賭け、金がなくなれば金を借りて賭ける。ギャンブル好きはサイコロがなくても馬が走らなくても困らない。とにかく賭博するのである。