抜き書き録〈2022/07号〉

異常なほど暑い6月だった。7月も引き続き暑い日が続いている。この先も覚悟しておきたい。冷房を効かせば身体は楽になるが、本を読もうとしてもなかなか根気が続かない。それでも少しは読み、傍線を引き、抜き書きもする。再読の本が多い。

いみじう暑き昼中に、いかなるわざをせむと、あふぎの風もぬるし、氷水ひみずに手をひたしもてさわぐほどに、こちたう赤き薄様うすやうを、唐撫子からなでしこの、いみじう咲きたるにむすびつけて、とり入れたるこそ、かきつらむほどの暑さ、心ざしのほど、浅からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇も、うちをかれぬれ。
(清少納言『枕草子』)
【筆者超訳】かなり暑い日中に、暑さをしのごうと扇であおいでみても風はぬるい。氷水に手を浸してはしゃいでいたその時、立派に咲いたなでしこの花に真っ赤な和紙の手紙を結びつけたものを、取次の者が届けにきた。手紙をお書きになった時の暑さとお気持ちのほどが察せられて、飽きずに持っていた扇を思わず置いてしまったのだった。

平安時代も暑かったのだ。今ほど気温は高くなくても、場所は京都、湿度は高かったはず。暑い昼にラブレターが届く。書き手の飽くなき、恋心という名の精神力に驚く。赤い花に赤い手紙。ああ、想像するだけで体温が上がる。

「とこなつ」はれっきとした日本語らしいが、常夏という漢字と語感から南洋の島が刷り込まれてしまった。中西進の『美しい日本語の風景』に次のくだりがある。

「とこなつ」とは「永遠の夏」という意味。「とこ」は「常」という漢字が当てられたせいで、同じ「常」を当てる「つね」と混同されかねない。「つね」はふつう、標準という意味だからまったく別物である。
「とこ」は「とこしえ」(永遠)「とこよ」(永遠を極める年齢、また世界)のように、無限の時間をいう。

「とこ」としての時間・・は観念だから「無限の時間」という言い方がありうる。他方、「とき」はその時々の時刻・・を象徴するので現実的である。「無限の時刻」とは言わない。ちなみに、夏の間咲き続ける「なでしこ」は「永遠とこよの夏」とも呼ばれたそうである。

「からむし」という言葉がある。『八犬伝』の中の有名な芳流閣上の格闘の場に「ころは水無月みなづき二十一日 きのふもけふもからむしの ほてりを渡る敷瓦しきがはら」というように出てくることばであるが、(……)辞書でこの言葉をひくと「湿気がなくて蒸暑いこと」とある。この解は変ではないか。「蒸暑い」というのは湿気があって暑いことのはずだ。これは、「雨は降らないが蒸暑いこと」とすべきだろう。
(金田一春彦『ことばの歳時記』)

今年の梅雨は短く、あまり雨が降らなかった。それでも例年以上に蒸し暑かった。雨の日が多湿とはかぎらないことを除湿器を置いてから知った。先々週の半ばだったか、前日に雨が上がり気温も30℃を切った。エアコンが効いた部屋の湿度は低かったのに蒸し暑かった。

見ることができないものは、人間にとって、とても扱いにくいものです。しかし、多くの文明や文化は「見えないもの」を何らかの創意と工夫でとらえるようにしたところから生まれてきました。
(佐藤正彦『プチ哲学』)

感じることはできるが、湿度や気温という本来見えないものが、アナログ/デジタル的に計測して数字によって「見える化」した。しかし、数字で表しても見えたことにはならない。湿度と気温の数値を併せ読みしても、体感を表してはいない。それはそうと、最近は不快指数ということばを見聞きしなくなったが、どこに消えてしまったのだろうか。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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