どの季節にも言えるが、季節の始まりは触覚、視覚、聴覚、旬の味覚を通じて感知する。もう一つ加えるなら、その季節の風情を詠ったり著したりした本の中に見つけることもできる。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる (古今集)
視覚よりも聴覚が先に秋を知る。この時期、まだ葉は落ちず、また山なみを遠望しても秋色に染まる様子は窺えない。目に見えるものは同じでも、窓越しに台風の音を聞くと、夏の終わり、秋の始まりを察知する。たとえその後夏っぽさが戻るにしても、わずか一日でも気温が下がって「涼しい、蒸し暑くない」と体感したら、その時に秋が兆したのである。
秋の見方、感じ方は人それぞれである。ボードレール『巴里の憂鬱』の一節「黄昏」はどこか秋を思わせる。
日が沈む。一日の労苦に疲れた憐れな魂の裡に、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬ仄かな色に染めなされる。
他の季節にはない、秋ならではの日の沈み方、物思いへの指向性、黄昏、色というものがある。秋は慌てず急がず、夏の高ぶりを鎮めるように、つつましく始まる。
動物学者の日高敏隆に『春のかぞえ方』という本がある。春が訪れると花が咲いて虫がそこに集うようになる。この本は、花や虫がどのように春を感知するのかについて研究したものだ。日高によると、生き物にはそれぞれの三寒四温の「積算方法」があり、季節は積算によって正確に計られるという。ならば、春をかぞえるのと同じように、動植物は秋もかぞえているはずである。前年の冬から毎日の温度や湿度を数え始め今年の夏までの全日を積算して、「よし、そろそろ秋!」と判断しているに違いない。
『第三版 俳句歳時記 秋の部』(角川書店)から「秋の雨」という一節。
秋といえば素晴らしい秋晴れを連想するが、むしろ天気は悪い方である。毎年九月中旬から十月中旬までは秋の長雨といわれる一種の雨期に入る。「秋雨」はどこかうそ寒く、沈んで浮き立たない。
次いで、秋雨や秋霖を詠む句がいくつか並んでいる。一句を拾う。
秋雨や地階まで混むビール館 高井北杜
真夏にぐいっと飲む生ビールはキンキンに冷えた液体であって、はたして人はビール本来のうまさを味わっているのかどうか。台風が去って暑さがやわらぎ、湿度が下がって空気が乾燥する。その時、ビールは熱を冷ます任務から解放され、客を味に集中させるミッションに就く。ビール党でないのに生意気を言うが、秋になるとビールのうまさが増す。そして、ビールと相性のよいつまみも増えるのだ。乾杯!