街中の目撃と雑感

赤瀬川原平らが提唱した「路上観察学」は1986年に学会を立ち上げ、同じ年に『路上観察学入門』という本も出版された。日々の散歩でも少し遠出する街歩きでも、見慣れない風物や場面に遭遇したり目撃したり、そのつどいろいろ感じることがある。まさに路上観察。もっとも、ぼくの街への情熱は路上観察学のオタク諸氏の足元にも及ばない程度だ。


👓 いつもの道で街路樹が何本も思い切りよくられ、「腰から足元」だけが残っている状態になった。木に貼られた紙には「この木は将来、根上がり等がさらに進行し、安全な道路の通行に支障を来すおそれがあるため、撤去を予定しています」と書かれていた。
歩道のタイルが膨らんでいるのをよく見かけるが、あの状態を「根上がり」と呼ぶそうである。同日の帰路、クレーンが出ていて根っこが抜かれていた。撤去後に新しい木を植えるらしいから、街路樹が歯抜けにならずに済むのは何より。

👓 どう見ても空き家にしか思えない豪邸がある。空き家になると庭木が伸び放題、わずか数年でジャングルのようになる。裏手には悪意ある者たちがゴミを捨てる。誰も住まなくなって十年や二十年放置されてきた一軒家。てっきり無人と思っていたその家から、ある日、生活感のある人が現れてゴミ出しする場面に出くわしたら、たぶん背筋が寒くなる。

👓 街歩きの途上で寄り道する。カフェ、古書店、文具・雑貨店、公園、記念碑等々。知っているはずの地元で知らないことだらけを痛感する。「行ってみたい所は多い、行っている所はわずか」という思いで帰ってくる。そして、「やりたいことはいろいろ、やっていることはわずか」といつも反省し、次の休日になるとその反省をけろりと忘れてしまっている。

👓 どう見ても廃屋にしか見えない家の軒先に瓢箪がっていた。下町の平屋の家に住んでいた幼少の頃、裏庭の便所の横に瓢箪が植わっており、かなり大きく育っていた。祖父は縁起物で厄除けになると言い、誰かが凶事をまねくのではないかと言い、父は黙って瓢箪を加工していた。ところで、写真の瓢箪を見つけた翌日、たまたま寿司屋で干瓢かんぴょう巻きを食べた。別に関連づけたわけではないが、干瓢と瓢箪は同じウリ科のユウガオである。

👓 休日の15:30に最寄りのバス停から「なんば行」のバスに乗る。橋の多いエリアなので、このバスは橋を巡る路線になる。末吉橋、長堀橋、三休橋、心斎橋、道頓堀橋を経由する。赤字のバス路線がずいぶん廃止されたが、行政は損得だけでものを考えてはいけない。バスにはロマンと懐かしさがある。バスの由来であるラテン語のomnibusオムニバスは「すべての人のため」という意味。単に人を運ぶ乗り物ではないのだ。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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