「恣意」は頻出熟語ではないので、前に意味を確認していても、次に出てくるとどうもはっきりしない。そんなことが何度かあったので、一念発起して徹底的にこの熟語をやっつけようとしたことがある。そして、徹底的にやっつけた。しかし、次に出てきた時には、また意味が明瞭でなくなっていた。手強い単語である。
辞書を引くと「そのつどの思いつき」などと書かれている。この程度の説明だけでは不十分だ。恣意は「恣意的」や「恣意性」と変化して現われ、また「恣意が入る」や「恣意に任せる」というふうに使われる。「読者が理解している」という前提で書く著者も多いが、読者の理解力に期待されては困る。
意味を明確にするために対義語を参照するという方法がある。手持ちの辞書には恣意の対義語の記載がない。用法の本を何冊か調べたが出ていない。しかたなく、自前の知識で分析した。恣意は「思いつき」であるから合理的ではなく、規則に縛られない。また、思いつきは「そのつど」なのでワンパターンに繰り返さない。恣意的とは状況意図的なのである。いつも同じ尺度や法則にしたがう「アルゴリズム」に対峙させるなら「アドリブ」のような位置取りが近い。
さて、ある日、恣意が言語学者ソシュールの用語であることを知った。ソシュールが指摘した要点はおおよそ次の通りである。
犬という動物がいて、猫という動物がいる。犬には“inu“という音を割り当て、猫には“neko“という音を割り当てた(ちなみに、英語ではそれぞれ“dog“と“cat“、フランス語ではそれぞれ“chien“と“chat“)。犬という内容とイヌという発音/表現の関係は考え抜かれたものではなく、必然性のない思いつきであり、両者の関係は恣意的なのである。猫という内容とネコという発音/表現の関係も同様に恣意的である。つまり、犬を“neko”、猫を“inu”と呼んでも何ら差支えなかった。
それほど難解でもないのに、恣意が分かりにくく使いにくいのは、「意」のせいであり日常語でないせいである。「今夜のメニューは何も考えていない。恣意に任せよう」と一度言ってみればいい。食事相手はポカンとするはずである。