どんなに時間をかけて読んでも全然分からない本がある。たとえばヘーゲルやハイデッガーの本。しかし、哲学書はそんなものだと割り切っているので、自分の能力不足のせいにしておけばいい。厄介なのはピンとこない俳句や短歌や詩だ。せっかく楽しく味わおうとしても、詠み手や歌い手がことばをいじくっては自己満足して、読者を置き去りにする。ぼくもレトリックに凝って伝わりにくい文章を書くことがあるので、思い当たるフシはある。
さっと見るだけですっと分かってもらえる文や詩はあれもこれもと欲張らない。小事やささやかな思いを脚色し過ぎず、また主題を広げることもない。ところで、旅先で時間があれば名所旧跡を足早に訪れる。どこに行っても碑があり、石に刻まれた句や歌の文字の一部は長い歳月を経て摩耗して判読しづらい。仮に判読可能だとしても、語彙も意味も難しい。碑の横の説明板を読むことになる。
先日、長崎に滞在中、長い階段で有名な諏訪神社に赴いた。無事に息切れもせず階段を上り切り、帰りに通った裏道の途中に一つの歌碑に出合った。
川端に牛と馬とがつながれて牛と馬とが風に吹かるる 三郎
そうそう、これこれ。歌碑とはこうでなくては! と小躍りする。久しぶりに文字が瞬時に判読できた。分かった後に何を想像しようが哲学しようが余韻に浸ろうが自由だが、さっと見てすっと分かるとはこういう歌なのだと思う。気になったので調べた。「歌人中村三郎、明治24年長崎県で出生、大正11年没。享年32歳」。
さっと見てすっと分かるには、対象が素朴で平易であること、かつ鑑賞者(または観賞者)の理解能力があること。将棋や囲碁のある局面で、一目で何十手も一瞬で読めるのは才能である。ちらっと見て何もかも先の先まで分かることを一目瞭然という。手元の盤面ではなく、それが風景になると一望に見渡す視野の広さがいる。
「一」の後に「見る」という意味の単漢字を添えると、さっと見てすっと分かる二字熟語ができる。一目や一望の他に、一見がある。初見でもちょっと見るだけで分かるのだから「一」なのだろう。一睨なら、ひとにらみ。目で相手を牽制する様子がうかがえる。
一瞥なら対象への思いやりが軽い。「まあ、わざわざ気にとめることもないが、ちょっと見ておいてやるか」と上から目線である。一覧と言うと、今では表の体裁になったリストのことを思い浮かべるが、対象のすべての要素に一通りざっと目を通すことが原意だ。要素が多くなっても、さっと見てすっと分かるのは表がよく出来ていて、かつ一覧する者がよく出来る人だからである。
以上のような内容をグダグダと盛るのはたやすいが、さっと見てすっと分かる文を綴る道は険しい。