「おざなり」と「なおざり」は語感が似ている。実際、類語だと思っている人も少なくない。辞書を引いて調べれば済むのに、ついついあやふやな知識に依って誤用を覚えてしまうことがある。誤用が一般的になってしまうと、もう正してくれる人もいなくなる。誤用が正用を駆逐して誤用がまかり通る。
「おざなりとなおざりは全然違う。おざなりは『御座なり』と書き、なおざりは『等閑』と書く。意味が違う。それどころか、用法も語源もまったく異なる」と、自信に満ちて講義で話したことがある。全然違うと言ったのは極論に過ぎたかもと後日反省し、よく調べてみた。両者に「血縁関係」がないのは確かであり、厳密に言えば違うが、共通の概念が浮かび上がった。
おざなりは、その場しのぎで事を済ませてしまうこと。辞書には「計画がおざなりだ」とか「おざなりな謝罪で済む問題ではない」などの例文が挙がっている。客が来た。客用の座布団を押し入れから出すのを面倒がって近くにある座布団をすすめたら、ほころびていた。それを見られる前に咄嗟に裏返したら大きな穴が開いていた。その場かぎりのいい加減な間に合わせ。これがおざなり。
他方、なおざりは怠りであり手抜かりである。注意を払わないこと、心がこもっていないことだ。「なおざりな返事」は相手の言うことを聴き入れようとしないことだし、「なおざりにされてきたテーマ」と言えば、真剣に向き合わずに生半可に扱ってきたというニュアンスを感じさせる。
用法にうるさい人は「おざなりとなおざりは全然違う」と主張する。しかし、互換性がないとしても、二つの表現は「適当にする」とか「いい加減にする」という意味を共有している。「はいはい」と人の話を適当に流して、心にもないいい加減な「ごめんごめん」で済ます様子は、おざなりでもなおざりでもいいような気がする。
とは言え、決定的な違いがある。おざなりは、その時の一度きりの所作に対して用いるのに対して、なおざりは、恒常的におざなりなことをする性格や姿勢について使う。「その場しのぎのおざなりな行為、いつもそれを繰り返すなおざりな態度」と覚えればいい。