世界文学全集を読破するのはハードルが高い。そう感じる読者のためにあらすじだけを紹介する本が編まれることがある。一冊に数十冊の本のあらすじを詰め込んである。正直なところ、作品のあらすじだけを読むことの意味がわからない。
たとえば『源氏物語』のあらすじを読むとする。はたしてそれは『源氏物語』を読んだことになるのか? 源氏物語の原作を読んだ人とあらすじだけを読んだ人が同じ読書会で書評を交わし合えるのか? 原作あってこそのあらすじである。誰かが書いたあらすじは、作品から切り離された別の作品ではないか。
では、解説書や読書指南書はどうか? ウィトゲンシュタインの難解な哲学書『論理哲学論考』の解説書『「論理哲学論考」を読む』を読めば原作が理解しやすくなるか? 原作を翻訳したのも解説本を書いたのも論理学者であり哲学者でもある野矢茂樹。『「論理哲学論考」を読む』の冒頭、著者は次のように言う。
『「論理哲学論考」を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。
そう言いながらも、本書を読むことが原作を読むという体験になることを著者は期待している。ぼくはと言えば、先にウィトゲンシュタインの本を野矢とは別の翻訳で読み、その後に野矢の翻訳を読み、最後に『「論理哲学論考」を読む』を読んだ。あらすじや解説書を読むなら、原作の後でなければならないと思う。
読書感想文であらすじだけを書く人がいるが、小中学校の宿題ならともかく、一般の読書家がSNSに投稿する読書感想文はあまり参考にならない。あらすじにも感想にも「ふーん」と反応するしかない。そもそもあらすじとは「粗筋」。原作のストーリーをうまくまとめたとしても、粗っぽい筋しかわからないのだ。読書感想文は本人のためにはなるが、他人には刺激的ではない。
もうずいぶん前から読後感想をまとめるのではなく、さわりやハイライトを抜き書きするようにしてきた(このブログでの投稿も書評会でもそうしてきた)。そもそも本全体の感想を述べても具体的な何かが残ることはない。抜き書きと自分の経験や別のエピソードを関連付けて、その当該箇所について評したり論じたりするほうが読書価値が高まる。
読書の専門家に抜き書きなど役に立たないと主張する人も少なくない。若い頃は抜き書きしなかったが、抜き書きするようになって後日の思い起こしがしやすくなった。本のどのくだりの記述に感心したか――あるいは異論を唱えたか。あらすじや感想に加工する前に、まずは原文を抜き書きして一言書き添える。それが読書の証であり体験である。
