初硯の今日、「氣新光照」を選んで書きぞめとした。説明するに及ばない、わかりやすい四字である。「氣新たに光照か」と読めばいい。
大晦日から元旦になったからと言って、身体が一瞬にして新たに変貌することはない。気のほうは柔軟だ。気分一新ができる。気合いを入れることができる。気の持ちようで光照らすような一年にすることも不可能ではない。
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古来続くしきたり。喜んで守るか、嫌々守るか(つまり、縛られるか)、まったく気に留めず無視するか……人それぞれ。ぼくはと言えば、かなりアバウトだ。五十を過ぎた頃からしきたり遵守の荷を下ろした。とっつきやすいもの、苦にならないしきたりはおこない、そうでないものはおこなわない。おこなうしきたりにしても、何が何でも守らねばならないなどと肩肘を張らない。
筆を試す年もあればそうでない年もあるという具合で、かなりなまくらである。それでも、気に入った新年の賀詞が見つかれば筆と硯と半紙を取り出す。初夢などは見たくても見れないが、書きぞめのいいのは書きたければ書けるという点である。その際、手習いの上手下手はさほど重要ではない。
十歳から十五歳まで書道を習わされていた。塾をめったにさぼらなかったので傍目には熱心な学び手と見られていたが、気分はつねに「習わされている」。きちんと筆の運びを教わり、ある程度のレベルに達したのが中学三年。そこでぷっつりとやめた。以来、芸事として字を書くことはほとんどなく、冠婚葬祭時にくれ竹の筆ペンを持つ程度である。
書への情熱も薄れ、筆を手にするのも稀な現在、筆致はすっかり我流になってしまった。しかし、書きぞめは年が替わっての気分一新にはとてもいい習慣だと思っている。一年を通じて書くということを前提にしているから、「書き初め」という。にもかかわらず、ぼくにとっては一月二日が書きぞめであり、同時に「書き納め」になることがほとんどである。一枚の半紙に一期一筆で書く。たった一人の書きぞめ式である。