バス停が動く

「山が動く」という表現がある。何千万年、何億年の歳月が費やされれば山は動くし、実際に地球上にはそのような痕跡もある。噴火すれば山の形状は一瞬にして変わるが、それを山が動いたなどとは言わない。山が動くというのはあくまでも比喩的な表現である。変わらないと確信していた物事が、ついに変わろうとする局面で使われるレトリックだ。

現実の山は常識的には動かない。では、バス停ならばどうか。簡易な造作で立っているバス停の標識は強い風で倒れることがある。倒れたら誰かが元に戻すまでは倒れたままである。しかし、路線が廃止されたわけでもないのに、そこにあったはずのバス停の標識がある日忽然と姿を消すなどということはあるだろうか。ふつうはないが、数年前にこんな記事が新聞に載った。

「バスの停留所にある表示板を盗んだとして、岐阜県警は(……)不用品回収業者の容疑者を窃盗の疑いで逮捕した。自宅から約10基のバス停表示板が見つかったという。」

バス停の標識があるべき場所から消えた。それは盗んだからだ。バス停が勝手に動いたわけではなく、けしからぬ男が自宅へと動かしたのである。だが、もし、バス停が標識をつけたまま動き、しかも動いたことに利用者も通行人も気づかなかったとしたら、どうだろう。

バス停

自宅からバス停まで毎日約200メートル歩いて乗車している男がいた。何年もそうしていた。ある日ふと、男は何だか面倒だと思った。バス停が自宅のそばにあれば便利だろうと考え、バス停を動かそうと決心した。

一気に動かすのは不可能だし、ばれるに違いない、しかし、毎日少しずつ自宅のほうへと動かせばうまくいくのではないか……たとえば毎日20センチ程度なら誰も気づかないはず……ごくわずかな移動だが、それでも1年で73メートルになる……うまくいけば3年後には自宅マンション前のバス停が実現する……こう考えた。

この話が実話かフィクションだったか、ぼくははっきりと覚えていない。たぶん脚色された実話だったと思う。話の結論を書くと、バス停が10数メートルほど動いた時点でバスの運転手が気づいた。長年の経験から異変を察知したのである。こうして、「塵も積もれば山となる」あるいは「千里の道も一歩から」という故事ことわざの命題は道半ばにして挫折した。それでも、一気呵成に事を成そうとしたのではなく、西川きよしのように「小さなことをコツコツと」試みたところに、男の我慢強さを垣間見た気がした。

自分の都合に応じて外部環境を変えようとすれば、エネルギーを要するし時間もかかる。分かりきったことだが、愚かにもそういう方法しか見えない者も少なくない。うまく行けば革命と呼ばれるだろうが、そんな具合に容易に事が運ぶはずもない。バス停を動かして数年後に楽をしようと目論むくらいなら、これまでのように200メートル歩くほうが苦労は少ないし、もしそれが苦労だと思うのならバス停前のマンションに引っ越してしまえばいい。動かしえぬような対象を自分に近づけようなどと望んではいけない。こちらから赴けばいいのである。対象が動かなければ自分が動くというのは生き方の基本セオリーの一つである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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