たとえば1979年

この一文は1979年にしたためたものである。1979年に特に意味はない。古いノートを繰っていたら見つけたという次第。当時28歳。事情があって無為徒食の身であった。第二次石油ショックが起こり、ウォークマンが発売された年であった。先行きが見えずに少々悶々としていた頃を懐かしみながら、当時の拙い近未来洞察をほろ苦くわらう。


ずらり商品が並んだ百貨店にスーパーマーケット。価格に見合った金額さえ払えば、誰だって好みの品を手に入れることができる。この行為を日常化するために広告という促進剤が多用される。広告が購買欲をそそるというのは陳腐な考え方だけど、ぼくらはその現実の渦中で生まれ育ち、今もなお波高しなのだから、紛れもない事実だ。

物が必要だ、そのために財布を携えて買物に行く。商店が存在の意味を持つ。常識的な売買図式だが、ちょっと怪しい気がしないでもない。実際、山があるから登るんだに近い発想が文脈の中に流れ潜んでいるのではないか。〈店があるから買うんだ、売る側がいるから買う側がいるんだ!〉

商店が品物を売るのは当たり前すぎるが、小説よりも奇なりの雰囲気に気づく人もいる。何も買えない苦労の時代を経験した人にとっては、何でも買える苦労の時代が控えていたのだから。戦後の生活風俗史の一脈かもしれない。

何でも買える苦労を憂慮してかどうか知らないが、レンタルという発想が登場してきた。売らないし買わせない、売らせないし買わない。古くは公衆浴場がその典型だったのだろう。今では遊園地の乗り物、自動車、賃貸住宅、コンピュータ、はてはぞうきんや犬猫ペットまで、多種多様を極めている。だが、よく目を凝らしてみると、商品は売買されていないけれど、金銭だけは確実に移動している。価値と満足の購買である。価値や満足は人それぞれであって、決して均一ではないから判断の基準が定まりにくい。下手に借りてしまうと、買ったほうがよかったのではないかと悔悛の念にかられることになりかねない。


望めば何でも手に入れることができるのは、手に入らないけれど望み放題という楽しみを失って、空しい。金があっても買えない時代というのは《欠乏の平等》があった。そんな貨幣経済が通用しない社会、つまり金以外の要領・手段が幅をきかせる社会は、ぼくらの世代にとって未体験ゾーンである。今は何かにつけて貨幣万能の時代なのだ。もちろん、その価値の変動ぶりには目を見張るけれど、やはり金がものを言っている。金さえあれば何でも買える時代と社会にあって、金があってもなお買えない状況があるからこそ、ほんとうはおもしろいはずである。

タバコの自動販売機

商売の看板を掲げて営業しているのに、もし「売らない店」があったらどうだろう。簡単に手に入るはずの身近な日常品、たとえば、それがタバコであったら、消費者はその店先でどんな反応を示すのだろうか。数年前、この想像をぼくは『一本のタバコ』という短編にしたことがある。冒頭で、主人公に「ひいきの自動販売機があってたまるもんか!」という抵抗をさせてみたが、売買行動においてコミュニケーションへの期待が薄れていることは事実である。だから、もしかすると「ひいきの自動販売機」が現実化する可能性は多分にあるわけだ。

どこで買ってもいいはずの商品、そして均一な自動販売機。選り好みの余地がないようだが、そこは人間である。ひいきを作りたくなるものである。こっそりお決まりの自動販売機に近づき、小声で何やら話しかけ、時には機械を撫ぜまわす。挙句の果てはハンカチで硬貨投入口をきれいに拭き取ってコインをそっと入れる。帰りには「さようなら、また明日」などとつぶやく。

自動販売機に憑りつかれる人間が出没するはずなどないさ、と誰が断言できるだろうか。これまでだってぼくらの世代はあるはずのないことが現実に起こるのを目撃してきた。これからの時代、何があっても少々のことで驚いてはいけないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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