身体はともかく、脳内の論理回路が疲れ切っていたので、今夜は読書ではなくテレビにしようと思った。なまくらに見流せる類がいいが、今夜の番組欄にはその類のお気に入りがない。ふと、録画していた『世界ふれあい街歩き』を思い出す。「パリ――冬のマレ地区へ」。これなら思考疲れした脳への負荷は少なそうだ。
三年前に歩いた見覚えのある通りや建物が画面に映し出される。博物館、入場料無料がうれしかった……このカフェは、ええっと、前を通った記憶がある……あ、ヴォージュ広場だ……ここはフラン・ブルジョア通りかな……という具合に映像に無言の字幕を付けていた。
マレ地区には16世紀や17世紀の貴族の館が残る。華やかさはないが、渋くてエレガントな雰囲気を醸し出す地区だ。最近では北マレ地区にトレンドの最前線をゆく店も増えてきて、観光客が足を運ぶようになった。一軒のアーティストショップらしき店のオーナーが言う、「新しいことはいいこと。それを目指さないと、ホコリをかぶってしまうからね」。
古き過去、ひいてはその延長線上にある今を、たとえそれが良きものだとしても、それを守り通すだけでは前へ進めないのだろう。人は経験を通して時折り過去を振り返るだけでなく、到着したばかりの現在の足元も見ないといけない。いや、足元に気を取られていると今度はそこから目を離せなくなる。過去もいい、今もいい、だからそれで万事がいいというのは一つの生き方ではあるが、ほんとうにそれでいいのだろうか。
「過去がよくて今がよくて不安がないというのは、きみ、ちょっと無神経じゃないのかい?」と指摘されたら、その指摘にも一理あるかもしれないと思うのは、決して恥ずかしくない良識である。先のオーナーアーティストの言うように、無神経はぼくたちを埃まみれにしてしまいそうな気がする。
通り過ぎてきた過去の道で過去の経験ばかりを謳歌するような頑固は遠慮願いたい。いや、頑固そのものは否定的な資質などではない。頑固であってもいいし、こだわりが強くてもいい。でも、できることなら、いつも新しいことを歓迎する気分でいたいものだ。これを「アヴァンギャルドな頑固」と名付けよう。
ふと気付いたら、番組の後半の途中から視線をテレビから離して、考えごとを始めていた。「埃をかぶってしまう」という一言がきっかけだった。思考疲れした脳は、休ませてもらえるどころか、本棚から取り出した『パリ二十区の素顔』という本を読まされ始めている。