ウィルスより怖ろしい潔癖連鎖

イタリア紀行でレストランの話を時々取り上げている。厨房の裏の裏まで覗いたわけではないので衛生管理の詳細はわからない。ただ、日本で当たり前のおしぼりやお手ふきの類いは出てこない。そのままの手が嫌なら、従業員にトイレの場所を尋ねて手を洗うしかない。トイレの場所を聞かねばならないのは、男女の人形ひとがたを示すピクトグラムも場所を示す矢印も店内ではふつう表示されていないからだ。

テーブルチャージに相当するコペルト(coperto)として、バスケットに盛ったパンが出てくる。コペルトは200円か300円くらい。前菜かパスタなどの第一の皿が出てくるまで客はパンを手でつかみワインを飲む。ぼくがこれまで目撃したかぎり、イタリア人は手を洗ったりウェットティッシュを使わない。ぼくも、よほど気になる場合は手洗いに立つが、たいていは気にせずにそのままパンをつまむ。

そのコペルトのパン。四、五人用のテーブルならてんこ盛りなので、メインの第二の皿の頃には誰も手をつけなくなる。そう、数切れまたは数個残る。残ったパンをすべての店がそのまま捨てることはない。テーブルナプキンなんぞでパンの表面をさっとぬぐい別のパンといっしょに次のお客さん用に盛り付けなおす。つまり使い回し。「まさか! うそ!」と思われるかもしれないが、ぼくはそんな光景を何度も見ている(但し、誤解があってはいけないので、いさぎよく捨てる店もあるかもしれない、と申し添えておく)。


世界から見れば、わが国の人々は常日頃から異常なほど潔癖である。ぼくには納豆やバナナを求めた心理とマスクを求め装着する生理が同根に思えてしかたがない。しかも、その潔癖さは賞味期限の年月日やらウィルス除去率何パーセントやらうがい回数何回などの「権威筋の数値」に依存している。「これは大丈夫、これはたぶんダメ」という動物的自己防衛機能はまったく作動していないのだ。

添加物を徹底マークして避けていた男がいた。弁当が出てもチェックして怪しければ食べない。にもかわらず、そいつは決して健康ではなかった。すぐに風邪を引く。過度の潔癖症は周囲の人間を不機嫌にしてしまう。そいつとは相席したことはないが、働き始めた頃、ぼくはよく大阪の鶴橋の屋台でホルモンを食べたものだ。一串20円か30円。豚足などはオバチャンが手も洗わずに手際よく割いてくれた。小ぶりなゴキブリが走る。皿に盛ったキャベツはもちろん手洗いしていない素手で口に運んだ。


さて、新型インフルエンザの疫学調査。感染拡大を防ぐため、患者の行動を過去にさかのぼって追跡するという。感染者が乗車した地下鉄、飲食した場所、足跡などの一週間分が判明したとしても、居合わせた他人や彼らとの距離は追跡不可能である。農産品のトレーサビリティよりももっと難度の高い課題なのだ。府域・県域一斉休校にするくらいなら、何よりもまず満員電車の一斉ストップではないのか。

確かなことは、人間の行動とウィルスの感染はグローバル規模でもローカル単位でもシンクロしているということだ。人が飛行機に乗ればウィルスも乗る。地下鉄にも無賃乗車する。学校の授業にも出る。ウィルスの感染を抑えるには人間の行動を束縛し、人間そのものを完全隔離するしかない。到底それは無理な話である。授業が滞るくらい何でもない。時間の工夫をすればいずれ挽回できる。しかし、仕事を一斉にストップさせるわけにはゆかないではないか。厚生労働省では、感染拡大期を「地域でどんどん患者が増え、もはや疫学調査が有効でなくなる段階」としている。その事態は不可避だし、実際そうなってしまっている。不可避だからといって、経済活動をすべて停止して引きこもるわけにはいかない。情報に一喜一憂して浮き足立っているわけにはいかないのだ。


その昔、鼻づまりがひどかったので薬を使った。やめると以前よりひどくなる。結局使う頻度がどんどん高まり手放せなくなってしまった経験がある。便利を手に入れたらリスクもついてくる。人工的な衛生環境に慣れすぎたら免疫力は落ちる。極度な潔癖性分はとても危なっかしい。今日は午後から京都で私塾。大阪からやってきた、招かれざる塾長にならぬよう気をつけよう。また、6月に入るとすぐにアメリカに行くことになっている。十日間滞在して帰国したら、非国民か国際テロリストのような扱いを受けるのだろうか。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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