橋のことからふと考えた

フィレンツェのアルノ川に架かる名橋ポンテヴェッキオは、その名もずばり「古い橋」である。架設された時点で「古い」などと形容したとは思えない。新築の旅館にいきなり「旧館」などと名付けないように。ともあれ、ポンテヴェッキオと言えば橋のことであり、そのあたり一帯の地名を指すことはない。

ぼくは大阪で生まれ育った。八百八橋が有名だが、実際はそんな数に達したことはないらしい。名立たる大阪の橋の名は、橋が残存していれば橋そのものを表わすこともあるが、おおむね地域周辺を指す地名として使われる。東京の日本橋もそうだ。あれは橋であるが、地名として意味される頻度のほうが高い。大阪にも日本橋がある。東京では「にほんばし」、大阪では「にっぽんばし」と読む。大阪人が日本橋と言うときはほぼ地名である。ちなみに、「にっぽん」のほうが「にほん」よりも古い時代の発音と言われている。切手などは“NIPPON”

さて、ぼくの徒歩行動圏は橋の地名だらけである。淀屋橋、天神橋、天満橋、京橋、長堀橋、心斎橋、阿倍野橋……。このうち、長堀橋と心斎橋はすでに橋そのものが存在せず、地名としてのみ知られている。他の現存する橋にしても、橋よりも地名としてのアイデンティティが優勢だ。「待ち合わせは淀屋橋にしよう」と提案したら、そのメッセージは橋の上ではなく、その地域での待ち合わせを意味する。淀屋橋と聞くだけで駅を連想する者がたまにいる。京阪と地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅に親しみがあるからだろう。言うまでもなく、「職場は淀屋橋です」と誰かが言っても、橋の上や下で仕事をしているなどと早とちりしてはいけない。


志んさいはし

すでに橋が存在しないから、「心斎橋で働いている」と言えば、勤務地が心斎橋エリアということである。かつて長堀川が流れていたが、東京五輪の頃に埋められて通りになった。すでに半世紀前のこと。当時中学二年だが、川が流れていた記憶がほとんどない。川の時代に架けられた心斎橋が、川がなくなっても架かっていたのはよく覚えている。その下を車や人が行き来していた。

何のコマーシャルか忘れたが、歩道橋時代の心斎橋に田村正和がキザに佇むシーンがあった。石柱には凝った装飾が施されていた。その橋ももう30年以上前に解体・撤去された。石造橋の一部、ガス灯だけが復元されたにとどまる。名残のシルシは交差点に申し訳程度に残っているに過ぎない。この「旧心斎橋」あたりは、中国人を多数派とする観光客のショッピング通路になっている。交差点の南東角のビルの1階スペースは、ツアー客のフリータイム後の集合場所だ。中国語以外の言語を耳にすることは稀である。

高度成長時代、地下鉄工事のために長堀川を埋め、心斎橋を取り壊した。今また、アールデコ建築の傑作と言われる大丸心斎橋店を、味も素っ気もないショッピングモールに変貌させる計画が持ち上がっている。他の46都道府県の実情に不案内なので、敢えて国民性とは言わない。大阪に限定して、経済的発展のためなら後先を考えない、辛抱の足りない府民性、いや、もっと正確に市民性と言っておく。伝統的遺産喪失の対価が単に目新しさだけでは、歴史が継承されることはない。

フィレンツェに現存するポンテヴェッキオの話に戻る。橋は1345年に再建されたとヴァザーリが記録している。再建ということばから、それ以前に存在していたことが窺える。現在、橋の上の両側には宝石店が立ち並び、その建物の上階部に通路がある。その通路が、アルノ川右岸のヴェッキオ宮殿(現フィレンツェ市役所)と左岸のピッティ宮殿をつなぐ回廊の一部を担っている。日本人なら、とうの昔にアルノ川の下に地下鉄を通し、橋を壊して殺風景な地下道を作ったに違いない。江戸末期の長堀風情に匹敵する観光価値は現在の心斎橋には微塵もない。外国人がそこに集まるのは物欲を満たす買物のためだけである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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