理由のあること、ないこと

行為に理由を付けなければならない場面がある。たとえば、「何となく読んでいる」では済ませられない類の本や読書行為がある。なぜこの本を読むのかという自己説得なしには手に取ることさえできない本である。もちろん、何となく読むという本があってもいい。飲食についても同じことが言える。何となく何かを食べ何となく何かを飲むことがあり、そこに理由や目的などあるはずもない。しかし、宴席に顔を出すとなると話は別だ。暇だから宴席に出るなどということはぼくにはない。必ず理由がいる。では、病院に父を見舞うのはどうか。見舞いに行くのに理由はない。見舞いたいから見舞うのである。これに敢えて理由を付けようとすると、どんなにうまく表現しても偽善臭が漂う。

本人は軽い気持ちだったのだろう。「ある本を読んだので、話を聞いてもらっていいですか?」と言ってくるから、ランチを共にした。彼は決して話が上手ではないが、ぼくは真摯に耳を傾けた。話が途切れたところで「なぜその本の感想をぼくに聞いてほしかったのか?」と切り出した。こういう場面ではつねに理由を尋ねることにしている。彼は口ごもり、説明しようとすることばがよどみ、結局理由はわからなかった。何となくという動機と付き合う気はない。こんなぼくを意地悪だと言う向きもあるが、当人に迷惑をかけているとは思わない。それどころか、理由を述べるという学びの機会さえ提供しているのだ。主義でも主張でもない。目的や理由の必要な場面とそうでない場面をぼくなりに分別しているにすぎない。

目的を共有せねばならないのに、わざわざ言わなくてもいいだろうと個人の気分で決めてはならない。「気が向かなかったから遅刻の理由を上司に言わなかったんだ」などという言い分は通用しないのである。けれども、どんな行為にも理由があるわけでもなく、理由がいるわけでもない。「なぜ」と聞かれて、目的を共有する必要がなければ、理由を告げる義務はない。仮に理由があるとしよう。そして、それを示す意欲もあるとしよう。それでも、うまく言い表せなければ理由は語れない。語れない理由を共有することはできない。


散歩に理由や目的があるはずがないと思っていたが、健康のために散歩する人がいると聞いて驚いた。Wikipediaに「娯楽として、あるいは健康増進に歩く行為全般を指す言葉」と書いてあったから、もう一度驚いた。世間一般では散歩に理由や目的があるのだ。念のために『新明解』を引いたら、「(行く先・道順などを特に決めることなく)気分転換・健康維持や軽い探索などのつもりで戸外に出て歩くこと」とある。大事な箇所が丸括弧に入っていて、その後に続くのがやっぱり散歩の目的なのである。「いっさいの理由や目的なく、ただ何となく歩くこと」というすっきりとした定義ではだめなのか。

『「散歩学」のすすめ』という本がある。ずいぶん以前に買って拾い読みし、これは衒学趣味だと即断して放置した。ウォーキングに興味のある人が読みたいと言うから貸してあげた。返してもらうつもりはなかったが、読了して返しに来たその人は「とてもためになった」と言った。なるほど、「何かのために別の何かを理由づけるタイプ」、あるいは「何かにつけて目的がいるタイプ」には受ける本なのだと思った。散歩学などいらない。いるのは散歩道である。

散歩は、長く続ければ結果として暮らしを豊かにするかもしれない。ここまでならぼくも同意するが、ここから先、散歩がなぜ暮らしを豊かにするかという推論を捻り出す気はない。くだんの本には、血行がよくなると書いてある。これは、歩いた後に体験的にわかることだ。しかし、血行をよくしたいという目的のために散歩をするのではないだろう。目的や理由がなくても散歩したいから散歩するのである。散歩は〈理屈に先立つア・プリオリな経験〉なのである。ところが、散歩が「学」として捉えられると、過剰仕様の定義が施され、免疫力や発想力の向上という理由または目的が論考される。勘弁願いたい。「学」や「力」などという概念の対極にあるのが、そもそも散歩ではなかったのか。

そぞろ歩き

散歩を言い換えれば「そぞろ歩き」である。そぞろとは「漫ろ」と書く。「気もそぞろ」とは何かが気になって落ち着かない様子のことだが、「そぞろ歩き」はその正反対。これといった理由もなく何となく漫然と歩くことだ(「漫歩まんぽ」ということばもある)。散歩にはゆとりに満ちている姿がある。目的がないから追われるような気分にならない。道すがら光景は目に入ってくるが、それは散歩しているからである。光景を見るために散歩をしているのではない。

散歩中に知り合いに会ったことがある。「お出掛けですか?」と聞くから、「散歩です」と答えた。「どちらまで?」と続けて聞くから、「散歩です」と答えた。「お買い物?」とさらに聞くから、「いえいえ、散歩です」と答えた。不愛想な男だと思われただろう。たいていの人は目的のない散歩に納得がいかないようである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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