『愚かなり我が心(My Foolish Heart)』と題された映画があり、同名の主題曲がある。しばらく聴いていないが、ぼくの持っている二枚のCDでは、いずれも『愚かなりし我が心』と「し」が入っているはず。一枚のCDではエラ・フィッツジェラルドが歌い、もう一枚のほうではエンゲルベルト・フンパーディンクが歌う。曲名に反して、曲調は静かで「知的な」と形容してもいいバラードだ。もう30年以上も前になるが、関西テレビが特集したドキュメンタリー『風花に散った流星――名馬テンポイント』の挿入曲として使われていた。
そういうことを覚えている一方で、さっぱり思い出せないことも多々ある。まったく「愚かなりし我が記憶」であると痛感する。いや、何かのきっかけさえあれば思い出せるのだが、そのきっかけすら生じないから、記憶そのものが飛んでしまっている。逆に言えば、きっかけが生じる仕組みがあれば記憶を呼び覚ませることになる。もちろん、後日きっかけとなるような仕込みは不可欠だ。ぼくにとってノートは触発のための仕込みである。放っておくとますます愚かになっていく記憶のアンチエイジング策として、ぼくは月に一回ほど過去のノートを捲って拾い読みするようにしている。
先日、自宅の書棚に『ジョーク哲学史』(加藤尚武)を見つけ、ざっと目次に目を通した。おもしろそうだ。買ったままで読んでいないおびただしい本のうちのその一冊を鞄に放り込んだ(鞄にはそんな文庫本が常時5冊ほど入っている)。そして、昨日、たまたま1990年のノートを繰っていたら、同じ著者の『ジョークの哲学』からの抜き書きを見つけたのである。「十三日の金曜日」と題したそのメモを読んだ瞬間、20年前にジョークやユーモア関係の本を濫読していたのを思い出し、次から次へと記憶が甦った。どうやら自宅で見つけた本のほうもざっと目を通していたようなのだ。
同年齢の友人知人のひどさに比べれば、ぼくの記憶力は決して愚かではないと自負している。十歳くらい若い塾生にもたぶん負けていない。しかし、そんな強がりのうちにも不安や失望がつのる。たとえば、8月の私塾大阪講座の第2講『情報の手法』のテキストを読んで、「結構いいこと書いているな」とつぶやくのは一体どうしたことなのだ。自分で考えたり引用したり書いたりしたのであるから、ほとんど覚えている。しかし、所々で数行が記憶から抜け落ちている。信念でないこと? 印象に薄いこと? 繰り返し想起しないこと? よくわからないが、あることを覚えていて別のことを忘れるのは、情報の重要度や頻度とは無関係なようだ。
不安や失望と書いたものの、さほどショックでもないことにあらためて気づく。記憶にはそのような新陳代謝が必要だと悟っている。つまり、記憶力と忘却力は不可避的に一体化しているのである。そして、覚えておかねばならないことや覚えておきたいことを忘れ、どうでもいいことや忘れてしまいたいことが記憶に残ったりする。メディアは時系列で刻一刻事件や出来事を発信する。時系列ではあるが、さしたる脈絡があるわけではない。情報がA→B→CではなくB→C→Aという順番だったら、まったく別の記憶が構築されるのだろう。
今日誰かに何かを話そうと思って忘れてしまっている。今年の講座のアイデアも浮かんだのだが、もはや鮮明ではない。忘れたことは生理的メカニズムの成せる業と割り切るのはいいが、ぼくにとってまったく関心の外にある「淳と安室」が記憶に鮮明に残ってしまうのははなはだ情けない。テレビでB級報道を観てはいけないと肝に銘じる。我が記憶を愚かにするか否かは、日々の情報との付き合い方によるところ大である。