ひょんなことから昔話が出て、過去を遡る機会があった。珍しく自伝的な話を書こうと思う。
父親に手習いを勧められ、10歳の時に書道塾に通い始めた。好きなのは絵のほうだったが、逆らう理由もなかったので、言われるまま続けた。中学に入る頃に近所の師範の手ほどきを受けることになった。中学3年になってまもなく五段になり、最高ランクの特待生の認定をもらった。それを最後に筆を置いた。
ぼくと入れ替わるようにして父親が書を始めた。三十代後半、かなり遅いスタートだ。もともと器用な人なので、書芸院、日展に入選し、あっと言う間に師範格になった。書道から離れたぼくは、高校受験を控えていたにもかかわらず熱心に絵を描くようになった。
好きこそものの上手なれ。中学時代の美術の成績はつねに5段階の5。中学3年の時の女性教師は「過去何十年も美術を指導してきて、きみが一番センスがいい。絵の道に進めばどうか」とまで言う。この先生は、絵であれ工芸品であれ図案であれ、ぼくのどんな作品も高く評価してくれた。自分では凡作だと思ったのに、いつもべた褒めしてもらえた。ある作品が先生に気に入られ、それを機にある種のブランドができたのだろう。学校内外の賞をいろいろもらったが、いま流行りの「忖度」もあったに違いない。
書道と違って、誰からも絵画を教わったことがない。だから、基本のできていない我流である。もとより上手に描こうという感覚すらなかった。出来上がった絵は同級生が描きそうもない構図であり、風変りな色遣いであり、とりわけ題材そのものがわけがわからない。本であれ絵であれ、作品のタイトルは作品と同等に重要な要素だと今も考えているが、当時もそうだった。絵を描く以上の時間とエネルギーをタイトル案に注いだのだった。
先生に絶賛された作品に『水のまちに降りそそぐ白い太陽の光を見た』というのがある。「作品A」や「無題」や「静物」と名付け、画題の風景の固有名詞をタイトルにしていた同級生の作品と違って、いつも長ったらしいタイトルを付けていた。絵だけで表現できないもどかしさと拙い技術を文章で補ったようなものだ。先生は、絵のみならず、多分にタイトルも評価したのだろうと今も思っている。タイトルは写真のキャプションと同じような役割を担う。情報誌の編集にあたって見出しとキャプションには並々ならぬ工夫をすることがある。
絵描きではなく、元来が企画人であり編集者なのだろう。美術の世界に行かなくてよかったとつくづく思う。ところで、『水のまちに降りそそぐ……』という作品は手元にも実家にもない。子どもの頃の作品は、絵も書もすべて自ら処分したか、処分されてしまった。構図も色もよく覚えているが、再現不可能である。先日、デジタルペインティングの単純な機能を使い、タイトルを再解釈して遊んでみたところ、こんな一枚ができあがった。原作のほうがよほど恣意的で出来はよかったはずである。