書棚からのヒント

仕事は思うように捗らないものであり、考えごとは費やす時間とエネルギーに比例してまとまるものでもない。考えること、書くこと、伝えることを生業にしているが、ものづくりと違って、満たすべき基準が明確ではない。まだ粗っぽいかなと自評した仕事が承認されることがある。他方、到達点が見えず果てしのない道を歩き続けなければならない場合もある。この時点で選択肢が二つ生じる。果てしない道をまっしぐらに進み続けるのか、それとも、いったんミッションから逸れて遠回りするのか。ぼくは迷わず後者を選ぶ。

能力や技量には限界がある。持てる力を出し切るのも才能だろうが、そう易々とできる芸当ではない。自分のことは分かっているつもりなので、行き詰まったと感じたらその先を急がないことにしている。手抜きせず考えてきて行き詰まったのだから、いくら時間をかけても同じやり方では突破できないのは百も承知。深く狭く考えすぎていたのではないか、と振り返る。深さはともかく、狭さに原因があるのかもしれないと見当をつける。そして、浅く広く考えることにシフトしてみる。広さとはよそ見であり寄り道だ。

言い換えれば、使命感から生まれる闘争心をいったん棚上げして、自発的好奇心のほうを動かすのである。たいてい書棚の一角の前に立って背表紙を眺める。渉猟などという大仰な行動をするわけではない。狭い書斎の中で適当に本を手に取ってページをめくり、これまた適当にあちこちの段落を拾い読みし、文章に反応したら付箋紙を貼り、面倒でもノートに書き写し、思うところを一言、二言添える。これをぼくは「仮止め」と呼んでいる。


仮止めから小さな気づきを得る。気づいた時、その気づきから視野角が広がる時に頭が働き、記憶が動く。そんな大げさなことでなくてもいい。自分の仮止めというやり方に自信が持てるだけでも十分なのである。在宅で考えごとをしていた先日、書棚を眺めていてふと一冊の本に目が止まった。W.V.クワインの『哲学事典』がそれだ。一度読んでいる本だが手に取った。「序」に目を通した。

ヴォルテールの『哲学辞典』が引き金になって、気儘で目の粗い書物がときおり思い出したように書かれ、かすかな流れを作ってきたが、本書もそれに連なる一冊といえる。(……)私のはところどころ哲学的だが、半分以上は一段レベルの低い事柄がテーマになっている。つまり、半分以上は、私自身がこの本を楽しんだのだ。

「気儘で目の粗い」と「半分以上は一段レベルの低い事柄がテーマ」という箇所に出合っていくらかほっとし、慎重を期すよりもまず楽しんで書いてみようと背中を押されたのである。つくづく思う。気になることはやってみるものだ。仕上げに向かうことに躍起になるばかりが能ではない。仮止め的に粗く、少々レベルを低めにしてやってみるのである。先送りして旬を逃すくらいなら、拙くてもいいのではないか。

一鞭ひとむちを入れても、かつてのように頑張るのもままならない。齢を重ねれば、身体が痛い、精神的に疲れるなどは日常茶飯事である。それでも、仕事に恵まれる幸運はまだ手の内にある。考えが頓挫する原因を分析する暇があれば、その時間を使って書棚を眺めればいい。そこには、じっとしていて浮かぶよりはよほどましなヒントが潜んでいる。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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