幸せを人に見せることはできないと書いた。幸福は見えたり見えなかったりするものではないとも書いた。つまり、「幸福に形などない」と大胆に宣言したのである。誕生日のプレゼントも豪邸もデートも幸せの形ではない。少なくとも、プレゼントや豪邸やデートの属性として幸福は存在しない。幸せを感じる時が幸せで、幸せを感じない時は幸せではない。幸せは、それを感じる時間そのものであると考える。
ところが、不幸に形はある。不幸は現象として目に飛び込んでくる。不完全な幸福をぼくたちは見てしまう。理想と現実もそうだ。アタマに思い描く理想は形として見えないが、現実は形として見えてしまう。理想にほど遠い現実を見てがっかりしたりもする。秩序と混沌、完全と不完全も同じような関係にある。秩序と完全は見えず、混沌と不完全ばかりが見える。プラトン流に言えば、〈イデアとしての点〉は位置を示すだけで目には見えない。しかし、実際にぼくたちが紙の上に書く点は面積のある、偽物の点なのだ。
すべての不幸は幸福を対抗概念としている。幸福という形を掲げるから、その形と異なる形を不幸と考えてしまうのだろう。冷静に考えれば、幸福に形を求めなければ、不幸にも形はないはずなのだ。百点満点をアタマに描くから70点が不完全になってしまう。幸福をそのような尺度という形でとらえなければ、不幸も形になどなりえない。
学習に関してぼくは安易な促成を嫌う。迂回することも覚悟して極力時間をかけるべきだと思う。しかし、こと幸福に関しては、そんな遠回りの必要などさらさらない。不幸や混沌や不完全の内にあっても、幸せを感じるようにすればいいのである。「どうすれば幸せになれますか?」と聞かれれば、「今すぐ幸せを感じなさい」と躊躇なく答える。
誰かの本に載っていた話。うろ覚えなのでいくぶん脚色することになるが、趣旨だけは間違わないように紹介しよう。
ある日本人の商社マンが南太平洋かどこかの島に駐在させられた。高度成長時代の日本の商社は、どんなものでも商材やビジネスチャンスになりそうなら、極端に言えば、草木も生えない場所に社員を派遣したものである。社命に忠誠を誓い、休みもなく朝から晩まで、島じゅうを駆け巡る商社マン。島民たちは浜辺に寝そべって、そのハードワークぶりを呆れるように毎日眺めていた。
ある日、島民の一人が商社マンに尋ねた。「なぜそんなに働くのか?」「業績を上げるためだ」「何のために?」「給料が上がるからだ」「それでどうなる?」「暮らしが豊かになる」「それで?」「別荘の一つも建てて、のんびり優雅に暮らせるようになる」「たとえば、どこで?」「ええっと、たとえば、そう、この島で」「あんたね、おれたちはろくに働きもしないが、すでにそうして暮らしているぜ」
他人との比較や客観的尺度や形などというものに影響されなければ、誰もが今すぐに幸せになれる。幸せに形などない。幸せを感じる時間を持つことが、どんな名誉や財力にも勝るのである。
《完》