幸せに形はあるか、ないか(3/3)

幸せを人に見せることはできないと書いた。幸福は見えたり見えなかったりするものではないとも書いた。つまり、「幸福に形などない」と大胆に宣言したのである。誕生日のプレゼントも豪邸もデートも幸せの形ではない。少なくとも、プレゼントや豪邸やデートの属性として幸福は存在しない。幸せを感じる時が幸せで、幸せを感じない時は幸せではない。幸せは、それを感じる時間そのものであると考える。

ところが、不幸に形はある。不幸は現象として目に飛び込んでくる。不完全な幸福をぼくたちは見てしまう。理想と現実もそうだ。アタマに思い描く理想は形として見えないが、現実は形として見えてしまう。理想にほど遠い現実を見てがっかりしたりもする。秩序と混沌、完全と不完全も同じような関係にある。秩序と完全は見えず、混沌と不完全ばかりが見える。プラトン流に言えば、〈イデアとしての点〉は位置を示すだけで目には見えない。しかし、実際にぼくたちが紙の上に書く点は面積のある、偽物の点なのだ。

すべての不幸は幸福を対抗概念としている。幸福という形を掲げるから、その形と異なる形を不幸と考えてしまうのだろう。冷静に考えれば、幸福に形を求めなければ、不幸にも形はないはずなのだ。百点満点をアタマに描くから70点が不完全になってしまう。幸福をそのような尺度という形でとらえなければ、不幸も形になどなりえない。


学習に関してぼくは安易な促成を嫌う。迂回することも覚悟して極力時間をかけるべきだと思う。しかし、こと幸福に関しては、そんな遠回りの必要などさらさらない。不幸や混沌や不完全の内にあっても、幸せを感じるようにすればいいのである。「どうすれば幸せになれますか?」と聞かれれば、「今すぐ幸せを感じなさい」と躊躇なく答える。

誰かの本に載っていた話。うろ覚えなのでいくぶん脚色することになるが、趣旨だけは間違わないように紹介しよう。

ある日本人の商社マンが南太平洋かどこかの島に駐在させられた。高度成長時代の日本の商社は、どんなものでも商材やビジネスチャンスになりそうなら、極端に言えば、草木も生えない場所に社員を派遣したものである。社命に忠誠を誓い、休みもなく朝から晩まで、島じゅうを駆け巡る商社マン。島民たちは浜辺に寝そべって、そのハードワークぶりを呆れるように毎日眺めていた。

ある日、島民の一人が商社マンに尋ねた。「なぜそんなに働くのか?」「業績を上げるためだ」「何のために?」「給料が上がるからだ」「それでどうなる?」「暮らしが豊かになる」「それで?」「別荘の一つも建てて、のんびり優雅に暮らせるようになる」「たとえば、どこで?」「ええっと、たとえば、そう、この島で」「あんたね、おれたちはろくに働きもしないが、すでにそうして暮らしているぜ」

他人との比較や客観的尺度や形などというものに影響されなければ、誰もが今すぐに幸せになれる。幸せに形などない。幸せを感じる時間を持つことが、どんな名誉や財力にも勝るのである。

《完》

三昧とハードワーク

その昔、集中力のない人がいた。筋金入りの集中力の無さだった。気も心もここにあらず、ではどこかにあるのかと言えば、別のところにもなく、耳目をそばだてているかのように真剣な表情を浮かべるものの、実は何も聞いていない、何も見ていない。彼には、あることに専念没頭して心をとらわれるようなことがないようだった。成人してからは、寝食忘れて何とか三昧に入ったこともなかっただろう。時にがむしゃらさも見えたが、がむしゃらは三昧の対極概念だ。彼は仕事の効率が悪く、苦手が多く、そして疲れやすかった。

三昧は「さんまい」と読む。釣三昧や読書三昧と言うときには「ざんまい」になる。手元の『仏教語小辞典』によると、サンスクリット語の“samadhi”(サマーディ)を音写したという。もともとは不動にして専心する境地を意味したが、仏教語から転移して今では「我を忘れるほど物事に集中している様子」を示す。三昧は立派なことばなのだが、何かにくっつくと意味変化する。たとえば「放蕩三昧」「博打三昧」になれば反社会的なライフスタイルを醸し出す。

突然話を変えるが、勉強や仕事をし過ぎて何が問題になり都合が悪くなるのかよくわからない。昨今ゆとり教育への反省が急激に加速しているが、そもそも何事かを叶えようと思い立ったり好奇心に掻き立てられたりすれば、誰もゆとりのことなど考えないものである。それこそ三昧の場に入るからだ。ゆとりは必ずしもスローライフにつながらない。むしろハードワークゆえにスローライフが約束されることもある。「教育が生活からゆとりを奪う」などという主張は、教育がおもしろくないことを前提にしていた。言い出した連中がさぞかし下手な授業をしていたのだろう。おもしろくて、ついでにためにもなるのなら「~し過ぎ」などということはないのである。


今年の私塾の第2講で「広告の知」を取り上げ、デヴィッド・オグルビーにまつわるエピソードをいくつか紹介した。オグルビーの著書にぼくの気に入っている一節がある。

I believe in the Scottish proverb: “Hard work never killed a man.” Men die of boredom, psychological conflict and disease. They do not die of hard work.
(私は「ハードワークで人が死んだ試しはない」 というスコットランドの諺は正しいと思う。人は、退屈と心理的葛藤と病気が原因で死ぬ。ハードワークで人は死なないのだ。)

ハードワークについての誤解から脱け出さねばならない。ハードワークは、誰かに強制されてがむしゃらに働くことや学ぶことなのではない。嫌なことを強制的にやらされるから過労・疲弊に至るのである。ハードワークは自ら選ぶ三昧の世界なのだ。そのことに「何もかも忘れて、入っている状態」なのだ。「入っている状態」とは分別的でないこと、あるいは相反する二つの概念を超越していることでもある。これと同じようなことを、維摩経では「不二法門ふにほうもんに入る」とも言う。そのような世界には、過度ということなどなく、むしろゆとりが存在する。対象を認識せず、気がつけば対象に一致・同化している。

「愛しているということを、愛しているという認識から区別せよ。わたしはわたしの眼前に愛を見てとるほうではなく、この愛を生きることのほうを選ぶ。それゆえ、わたしが愛しているという事実は、愛を認識していないことの理由になる」
(メルロ=ポンティ)

この愛を生きることが、とても三昧に似通っていると思われる。仕事・学習を生きることが三昧的ハードワークなのである。これに対して、仕事・学習を対象として認識し「仕事を頑張ろう、勉強しなくては」と考えるのは三昧などではない。それどころか、物理的作業の度を過ぎて困憊してしまうのだ。ともあれ、三昧を意識することなどできない。意識できた三昧はもはや三昧ではない。我に返って「あっ、もうこんな時間か。結構はかどったし、いい仕事ができたな」と思えるとき、それが三昧であり疲れを残さないハードワークだったのである。

多忙と多忙感の違い

今さら指摘するまでもなく、実態が「忙しい」ということと「気ぜわしい」ということは同じではない。後者は「多忙感」にすぎない。たとえば、師走を迎え、日々やるべきことが山積しているわけでもないのに、だいぶ先の年末年始の漠然とした予定を睨んで何となく落ち着かなくなっている。誰かに「どう、忙しい?」と聞かれれば、「うん、何だかんだあってね」とケロリと答えるかもしれないが、傍から見れば、多忙どころか時間を持て余していたりする。

数年前までは年に百数十の研修や講演をこなし、出張宿泊も月間で10泊になることもあった。しかも、合間には準備をせねばならないし、企画の仕事も手掛けていた。それでも精神的圧迫感はなかった。一日24時間というキャンバスを描かねばならないというよりも、すでに絵具が塗りたくられたキャンバスに向かうような印象であった。多忙には違いなかったが、意志を自在に貫く余地がないから、ある種の諦観の境地に入っていたのかもしれない。

多忙であることを選んでいるかぎり、精神的にも肉体的にもさほど問題は起こらない。ハードワークとノーワークを天秤にかけてみれば明らかだろう。仕事がなくて退屈極まりないほど辛いことはない。二十代後半に職場を数ヵ所変えたことがあったが、望む仕事にありつけず半年ほど無職を体験した。職を探しながらもなかなか叶わず、やむなく読書三昧の日々を過ごしていた。その時期の独学が財産になっていることは間違いないが、思い出すたびに過剰な有閑にはぞっとする。時間を潰さねばならない苦痛に比べれば、時間が埋まっている忙しさなど大したことはない。多忙はぼくにスローライフの意味を教えてくれた。


「忙」という漢字が「心を亡くす」という意であるのは広く知られている。仕事を追い、仕事に追われていれば、たしかに精神的にまいるだろう。しかし、好きな仕事に集中しているときの状態は心を亡くしているのではなく、心を意識していないと言うべきである。ほんとうに心を亡くしてしまっている人に仕事がやってくるわけがないではないか。実は、多忙よりも危なっかしいのが、仕事の量とは無関係に多忙感を漂わせることなのだ。こっちのほうが心を亡くしている状態に近い。

ふと、かの有名なパーキンソンの法則を思い出した。支出額が収入額を優に超えたり、金持ちほどケチが多いという現実があるので、第二法則の「支出額は収入額に達するまで膨張する」には首を傾げる。しかし、第一法則の「仕事量は、完成までに与えられる時間をすべて使い果たすまで膨張する」はほぼ正しい。官僚の仕事ぶりを観察・研究して導かれた法則だが、おおむねすべての組織や仕事に当てはまるように思われる。

組織における個人の仕事は、仕事の難易度や重要度とは無関係に、許容された時間をすべて食い潰す。わかりやすく言えば、仕事量ではなく時間量のほうが仕事ぶりを決定しているのである。効率よくやれば一時間でできる仕事も、半日与えられていれば半日かけてしまうのだ。したがって、当人はいつも仕事をしている気になっている。まったく多忙ではないのに、当人は多忙感を抱いている。新しい仕事を頼もうとしても、いっぱいいっぱいという状態なのである。多忙感はやがて「仕事のふり」へと変貌する。実際の仕事が減っているのに、忙しそうに見える職場が目立つのは気のせいではないだろう。