否定の話

「~がある」も「~がない」もとても明快である。前者が肯定で後者が否定の基本文型だ。「Pがある」の否定形は「Pがない」。疑う余地はない。「Pがある」の否定を「Qがある」と早合点してはいけない。否定という作業はお節介に代案を示すことではないからだ。「天候は晴れである」の否定は「天候は晴れではない」であって、「天候は雨である」ではない。

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順序で言えば、はじめに肯定ありきで、その次に否定が来る。「そろそろ休憩にするか」という肯定的な提案の後に、「いや、休憩はいらないだろう」という否定がありうる。このことから何が言えるか。否定はつねに肯定を前提とするが、肯定は否定を前提にする必要がないのである。肯定を吟味しないで唐突に否定が生じるのではない。肯定を保留し懐疑してはじめて否定が登場してくる。下記引用の視点を頭の片隅に置いておけばいい。
「言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである」(野矢茂樹『論理哲学論考を読む』)

ふだん人は肯定的にものを見る。いまぼくの視野は机の上のペットボトル、目薬、銀行員の名刺、小銭入れをとらえている。とても素直な見方であり、すべて「~がある」と肯定しうる事実である。「~がない」と言い得るためには、そのないものへの欠乏感が必要だ。コーヒーが飲みたくて、そしてここにコーヒーがあってもいいはずだと考える時に、「コーヒーがない」という否定形の文章を発したり思いついたりする。あるがままの現実を素直に見ているだけでは、否定などという発想は生まれない。「何かがある」と認識するよりも、「何かがない」と気づくためには「不在」への強い意識と目配りが欠かせないのである。

人や意見を褒め、受容し、承認するなどの肯定的行為がつねにいいことだと考えている人がいる。類は類を呼んで群れ、まるで同病相哀れむような関係では成長も進歩もないだろう。否定行為への風当たりは強いが、無思考的に左から右へと流すような〈肯定〉よりは、一度立ち止まる〈否定〉のほうが健全な発想なのではないか。
論理思考ないしは論理学においては、否定はかなり重要な役割を担う。念のために書いておくと、論理学では論理を通すためにきわめて初歩的な品詞を使う。「PはQである」という時の「~である」。それを打ち消す「~でない」。おなじみの「AかつB」の「かつ」と、「AまたはB」の「または」。あとは「すべての~」と「いくつかの~」である。これらの日常茶飯事よく使う語を単純な規則で組み合わせれば論理の一丁上がりというわけだ。
しかし、単純明快に使いこなすには慣れも必要である。とりわけ、否定に戸惑う人がいる。たとえば「AかつBである」(A and B)の否定は、「AでないかBでない」(not A or not B)である。「彼は京都と奈良に行った」の否定は、「彼は京都か奈良のいずれかに行かなかった」であって、「彼は京都にも奈良にも行かなかった」ではない。また、「AまたはBである」(A or B)の否定は、「Aでもなく、かつBでもない」(not A and not B)となる。「彼女は風邪薬か頭痛薬のいずれかを飲んだ」を否定すると、「彼女は風邪薬と頭痛薬のどちらも飲まなかった」になるのである。
ともあれ、前言の検証があり、その前言に異議ありと確信してはじめて否定が成り立つ。否定には一工夫がいるし、責任もともなう。単純にノーを発して知らんぷりできるような作業ではないのである。否定を批判と読み替えることができる場面がある。否定される者は批判する側が自分に関わってくる動機をよく読まねばならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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